七十八:死化粧

 ゾンネ墓地の受入所、その離れにぽつりと孤立する、教会跡地と思しきステンドグラスを備えた煉瓦の屋舎。外に排水や換気の為の室外機が並び、物々しくも堅牢な錠前を備える二重扉が据え付けられたその奥は、ゾンネ墓地の関係者や一部の特別なものだけが入れる特殊空間――死化粧エンバーミングを行う為の処置室である。

 教会の厳かな佇まいとは裏腹の、いかにも医療的な白さと無機的な機材に囲まれた部屋。

 その中に今、二人の物と二人分の遺骸があった。


「一方はして損壊していないようだな。損壊の激しい方は私がやる、貴方は此方を」

「了解。今のところ大きく弄る必要性はないようですので、ひとまず依頼書の通りに処置致します。『眼隠』の方への検体は何本必要ですか?」

「血液を二本、採れる方からは髄液を同じだけ採取して欲しい、と要望があった。抗凝固と冷凍処理については私の方でやっておこう。貴方は保存液の入れ換えついでに採取を頼む」

「了解」


 普段身を包む黒い法衣カソック外套クローク、自前の革靴やブーツから、着古してくたびれた白衣と安全靴に着替え。予定表を挟んだバインダーを壁に打ち付けた釘へ引っ掛けつつ、素手にゴム手袋を着ける。人間なら此処でマスクの一つでも着けるのだろうが、ゾンネ墓地の墓守にそのような衛生対策は必要ない。

 そんな、黒ずくめから白ずくめの装束へと装いを換えた二人の墓守――ビヘッドとフリードが視線を向ける先には、ステンレスの地が剥き出しになった、下に廃水受けを備える台が二つ。寝台と言うにはあまりに冷たいその上には、しかし動かぬ物が全裸で横たえられ、恥部を隠すように覆い布ドレープが掛けられていた。

 年の頃はそれぞれ七十代前半に五十代半ばほど。肌は土気色で生気なく、全身は強張って人間の如き死後硬直の様相を呈する。背や腕には青紫色の死斑が無数。頭は大きく割れ、無数の擦り傷に曇り、或いは引き千切ったかのように電話線が中の銅線を剥き出し、或いは六分目まで充填されていたはずの水薬なかみが枯れている。

 見紛うことなく、老探偵テリーその親友ファーマシーだ。彼等は失意の内に自ら命を絶ち、また或いは物殺しの手によって還され、そして人足エアーズの嘆願によってその身を暴かれんとしていた。

 そのような不謹慎自体は、墓守などという因果な務めを果たす以上無数に経験している。しかしながら、今回ばかりは実際に死の現場へ立ち会っているのだ。当事者たるフリードの心境は如何なるものか、無い表情からも、真っ直ぐに立ち上る線香の煙からも推し量ることは叶わない。或いは、何も感じてなどいないのかもしれなかった。

 横にいるビヘッドなどは、そもそもからして興味もなし。ちらとフリードを一瞥し、すぐに戻して、横たえられた遺体にゆっくりとこうべを垂れる。


「五月三十一日、午前八時二十七分。室温二十一度。これより遺体衛生保全処置を始める。――死して尚御身おんみを暴くことを許したまえ」

「死して尚御身を暴くことを御赦し願いますよう」


 粛々と、墓守達の業務は始まりを告げる。



「血管が崩れかかっているか……フリード、濃度八の復元液と五号のカテーテルを」

「此方に」

「其方の方は問題なく進められそうか?」

「概ね問題はありませんが、濃い復元液を使用しても内臓が腐敗し始めているのが気に掛かります。緩やかに抑制はされているようです」

「相分かった。一先ずその状態のまま留めておけ。此方の処理が終わり次第対応する」


 作業開始から、早三時間と少し。

 想定よりも惨憺たる状態に苦心しつつも、二人の墓守はおおよそ平素と変わらぬ速度と手つきで業務を遂行していた。

 丁寧に遺体を洗浄し、鼠蹊そけいの太い血管から腐敗しかかった血液を抜き、保存用の赤い薬液を入れる。同時に開腹し、体腔に残留した体液を吸引して取り除きつつ、人の形を維持できず崩れてしまった内臓を摘出して血管を閉じる。

 どちらも、常なる人には出来ぬ精密な作業だ。しかして、二人はこのような作業を、必要な道具すらない頃から続けている。今更作業の細かさにまごつくこともなければ、多少の厄介に慌てることすらない。血を抜くための血管が確保出来なければ造り、傷みが早ければ保存液の濃度を変え、どうしようもないほど折れてしまっていれば補強して、作業は尚も続く。

 ――しかし、今回ばかりはそうも行かず。


「崩壊速度が早いな。フリード、其方の遺体は一度冷蔵室に戻してくれ。此方に集中したい」

「了解。氷嚢ひょうのうを持って来ましょうか」

「いや……これは、恐らく無意味だ。代わりに二号の縫合糸と一から五号までのカテーテルを有るだけ頼む。あれば復元液の原液と非常換気扇の作動を」

「承知しました」


 テリーの遺体はともかく、ファーマシーの遺体が見ている傍から崩れてしまうのだ。

 その腐敗速度は一際長い経験を積んだビヘッドの速さですら追いつかぬほど、換気扇を全開にしてもまるで足りず、人ならば目にしみるほどの腐敗臭が周囲に満ちる。尋常な状況でないことは素人目にすら明らかであったし、経験豊富な墓守からすれば、このような状態の物に保全処置エンバーミングを施すことは到底不可能であった。

 前例が、無いわけではない。フリードの数倍長くこの遺体保全に携わってきた刑吏の剣ビヘッドには、いくらか見覚えがある。このような遺体を――いささか無理矢理に――処置したこともある。だが、そのような行為はや遺体を激しく辱めることになるし、何より気分の良いものではなかった。何せ、処理しても長く持たない上、腐敗が始まればその有様は見ていられないものになってしまう。そうなれば最早取り返しがつかない。

 見切りをつけて、クロイツに報告をすべきか。隣接する倉庫へ資材を取りに向かったフリードを尻目に、早くも諦めを過ぎらせる。止めないのは、死化粧に携わるもう一人の意見を聞く為。それが無ければ、この剣は潔く中断を決意しただろう。


 ――そうして苦心しながら、一分が過ぎ、二分が過ぎ、五分が過ぎ。

 薬液の行き届きにくい末端が、ほとんど皮だけで形を保たざるを得ぬほど溶け崩れたそのとき、出入り口の扉が三度音を立てた。


「入れてくれへんか」

「処置中だ。立ち入ることは出来ん」

守長クロイツさんから許可もろたって言うてもダメ?」


 訛りの強い、しかし落ち着いた柔らかい声。聞き覚えのある物のそれだった。

 ファーマシーの遺体は未だ崩壊を続け、故にビヘッドは手を止められない。溶けてしまった血管の代わりにカテーテルを入れながら、墓守は呻くように入室の許可を出した。

 背後で静かに扉が開き、二人の物が毅然として歩み寄ってくる。これが一般人ならば、自分の身体を盾にして遺体を見せないようにするところだが、不幸中の幸いかどちらも人の生死を数多見てきた歴戦の猛者だ。その場を退くことはせず、近づくに任せて作業を続ける。

 台を回り込み、差し向かいに立つは、一人は機材を抱えた若き墓守フリード

 そして、ビヘッドの背後に立ちすくんだままの、もう一人。


「嫌な、予感はしとったんよね」


 自前の白い和装の上から自前ではない白衣に身を包み、それが皺になるほどに、骨張って荒れた手がきつく胸を掻き毟る。沈痛げに俯く首から上には、朱砂安神丸しゅさあんじんがんを封じた薬包紙。見まごうことなきシンシャの姿であった。

 ビヘッドは何も言わず、言う余裕もなく、見る間に腐り果てる遺体の保全に己が集中力を注ぐ。その様を、シンシャは観察するように軽く首を傾げながらじっと見つめて、やおら小さく問いを投げかけた。

 手に触れても良いか。今のこの状況を見て、人体の状態把握に長けた薬師が放つ言葉ではない。しかし、墓守が頭ごなしに否定することもない。


「握り締めるのは厳しい。触れる程度なら」

「それでも構わへんよ。頭は?」

「軽く撫でるのは構わないだろう」

「ん、ありがとうな。……な、ファーム。四時間掛けてまた来たったわ。キミが死んでまったって話聞いてさ、店のこと全部ぜぇんぶほっぽり出して来たんやで」


 物言わぬ腐敗しかけの男に、シンシャはしかし、あたかも病に倒れた生者の如く接する。

 触れるどころか空気の流れですら崩れ落ちそうな手をそっと握り、弱化の進んだガラスの頭を柔らかく撫でながら、薬師――否、今ばかりはいささか自分勝手な相談員カウンセラーは、何かを堪えるように穏やかな声を喉の奥から絞り出した。

 或いは今日の天気、或いは変わり映えのしない肌寒い初夏の気温。ややぴりぴりとしつつも平和だった人の街の話。今日は店の鍵と財布を汽車へ置き忘れなかった。今気付けば、自分が店を閉めては店番が入れないのだが、それは構わない。今日は一日有給休暇だ。貴方も休むならば代わりの当直の一人二人雇ってみてはどうか。

 時折相槌を打ち、返る言葉へその意識を寄せ、返答しつつ新たな話題を上乗せしていく。状況の異様さに目を瞑れば――カウンセリングとしては親身になり過ぎていることを除いて――比較的普通の光景であろう。しかし、傍から見れば死体を相手に聞き取られもしない譫言うわごとを呟いているのだ。どう考えても異常者にしか移らぬ狂態を、けれども墓守達は静かに見守った。

 取り留めのない世間話は少しく続き、そうして、薬師の声が微かな震えとそれを押し殺すような明るさを帯びる。


「せやな、休んでもええんよ。キミももう充分頑張ったねんな。……でもまだ、もうちょっとだけ離れるんは待ってな。僕ら、まだキミとお別れが済んでへんのよ」


 答えは返らない。だが、それでも構わないのだ。

 薬の干からびた頭を撫で、ぐったりと台の上に垂れる手を慎重に握って、腐臭にも構わず己が頭を遺体の傍に寄せる。あたかも己の泣く姿を他から隠すように、或いは掠れた声を確かに死者へ届けんとするように。

 それは、生ける物から死せる物へ、一方的に投げつけるしかない生者の自己満足エゴ


「大丈夫……キミのこと葬送おくったら、ちゃんと前見て歩くから。やから、やからもう少し、もう少しだけ頑張ってくれへんか? 今のまんまじゃ僕、もう二度と立てへん気ぃすんの……」


 その泣き言が、一体何になると言うのか。

 世間話の途中から見守ることを止め、機材の調整と準備を進めていたフリードは、どこか冷めた心持ちでシンシャの声を聞いていた。

 トートの死を越えて死者に死者なりの遺志が有ることをり、今昔こんじゃく変わらず死後の安寧を維持する墓守の仕事に責と誇りを持っているとは言え、それはあくまでも存在意義しごとを完璧に遂行していると言う意味でだ。己の成したことが遺族にどのように思われているのかも、ましてや遺されたものの願いを叶える意味も、彼は未だ朧げにも分かってはいない。

 だが、しかし。


「うん。うん……大丈夫、大丈夫や。心配せんでもええ、きっと次は前向いて歩けはるよ。うん……キミもテリーさんも、僕らも」


 心友が包み隠さず絞り出した懇願は、こと物に限って言うならば、確かに意味のあることなのだ。


「ごめんな、人様の前で取り乱してしもたな。しばらく僕此処におるけど、あんま気にせんと、綺麗にお仕立てしてやってな」

「嗚呼。そこに椅子がある、座っていろ」

「うん。二人とも、宜しゅう。……もう心配せんでも大丈夫よ、多分。してくれはったと思う」


 よろよろと台から離れ、墓守の示した粗末なパイプ椅子へ、倒れ込むように腰掛け。涙でくしゃくしゃになった薬包紙をいじいじ、僅かばかり明るさの戻る声を上げる。

 その視線の先には、変わらず横たわる最早起きることなき物の遺骸。しかし、先程までの触れなば弾ける腐乱死体の有様ではない。


「貴方が凄腕の相談員であることは予々かねがね噂に聞いていたが、死者の傍にまで立てるとはな。さぞ苦を積んだことだろうに」

「これが苦しいなんて。二百と四年生きてきたけど、ちらっとも思ったことあらへんよ」


 ガラスの瓶は傷付けども叩いて壊れることなし、静かに伏せられた手は冷たくも握り締めて溶け落ちることなく、肌を刺すほどに充満していた腐敗臭は最早何処にも感じられぬ。

 如何なる魔法か奇跡か、ファーマシーの遺体は腐敗を免れ、生きているかの如く眠りに就いていた。

 それは、フリードが内心戦々恐々としながら運んできた復元液の原液――生者が触れたならば、たちまち骨まで灼けるほどの劇物である――の力でもなければ、ビヘッドの卓越した死化粧の技術でもない。紛れもなく、シンシャの言葉が“納得”させた死者の姿だ。

 今にも息を吹き返しそうな物の遺骸、その腕に信じられぬとばかり手を置きながら、唖然として声を上げたのはフリードである。


「シンシャ様、これは」

「僕なりにファームのこと説得して、お葬式終わるまで留まってくれって言っといてん」

「死者に説得、ですか?」

「難しいけど、やって出来んわけではないよ。……ファーム、何があったかは話してくれへんやったけど。でもとにかく、どうでもええって。自分はもうほっとけって、投げ出そうとしてたんよね。せやから身体がどんどん崩れてしもたんやろな」


 心が折れた時が、物の死だ。

 それは詰まる所、生きることを諦めた瞬間とも言える。同じことが死者にも言えるならば、死者の死とは形を失くすことなのだろう。シンシャは概ねそのようなことを、ひどく寂しげな声音で呟いた。

 ぎ、と低くパイプ椅子の背が軋む。疲れ切ったように肩を落とし、だらしなく広げた脚の間にだらりと両手を垂らして、薬師は一体何処を見るのか。墓守達に焦点を合わせぬまま、シンシャは疲弊も露わな声を滑り落とした。


「死んでもうたなら仕方しゃーない。戻ってきてくれとか、諦めんといてくれとか、そんな無責任な慰めしてもどうにもならん。でも、それでも僕らはさ、御見送りせんと前に進めへんの。せやから、もう少しだけ此処に居て欲しいってな」

「そのような――もので、御座いましょうか」

「フリードさんには解りにくいやろか。これでも僕とファームな、医大でずっと机並べ合って、ずっと同じ場所で仕事もしてきた仲や。ファームはあんま親友やとは思ってくれとらんやったけど、僕にとっては大事な、ほんとに大事な友達やったんよ……」


 微かな声の震えを、必死に喉の奥へ押し殺し。

 シンシャは押し黙る墓守へ、否誰に届けるわけでもなく、言葉を最後まで紡ぎ上げる。


「そんな、そんな友達が、棺にも入れられんほど腐って溶けてるなんて……僕、堪えられんよ。最期に寝姿も見られんなんて、そんなの。僕が立ち直れへんのよ」

「――――」

我儘わがままよね。やけど、今まで結構好き放題して来たんやから、せめて死際くらい僕の我儘も聞けって、そう言うたんやな。不満そうやったけど、聞いてくれはったよ」

「友人でもない物の頼みを、ですか」

「まあ、ね。友達と言うよりは、元同僚で元取引相手の頼みをって感じやったのは否定せぇへんよ。でもそれでもええの。だって、僕が前向いて歩きたいだけなんやから」


 ――全ては生きて遺されたもののために。

 いつであったか、死化粧エンバーミングを学ぶために取った本に書かれていた知識を、フリードはぼんやりと思い出していた。

 死化粧師エンバーマーが振るう技は、死者を生前の姿へ一時的に蘇らせる。しかし、それは死者の安寧の為に行われるものではなく、あくまでも死者との訣別を図る生者の為に行われるものだ。そうと知識では分かっていても、フリードにその実感は無い。死者のことにまで思い馳せる余裕も、その意味も、価値も、かの墓守は見出せぬまま生を享けたのだから。

 それも知った上で、シンシャは呟くのだろう。


「キミも、いつかしっかり前向いて、一人で歩けるとええね。フリードさん」

「私は独りで御座いますよ。いつでも」

「そう言う孤独ひとりやないよ。誰かに教えてもらって、レール敷いてもらわんとさ、自分で自分の生きたいみち見定めていけたらいいって話」


 返答は、堅い沈黙。

 いつでもそうしている、と。そのような強がりを言えるほど、フリードは年若くもなければ愚かでもなく、幸せな性格でもない。己の前にはいつでも誰が先立が居て、空虚な存在意義しか持てなかった物を導き、迷わぬようにと先を示してくれていた。

 今でもクロイツなどは、乞えば何時までだろうと行く当てのない墓守達の居場所となり、未来の在り方について教え導いてくれるのだろう。だが、守長もりおさ存在意義たましいに寄り掛かって停滞してはならぬことは、他ならぬフリードが最もよく理解していることだ。

 ぐっと、薄いゴム手袋が破れそうになるほど拳を握り締めて、若き墓守は沈黙を守ったまま、ゆっくりと作業へ戻っていった。


「テリー様の御遺体を出して参ります。その――後を、お願い致します」

あい


 業務連絡は簡潔に済ませ、隣接する冷蔵室へ安置していたテリーの遺体を作業室へと戻す。ビヘッドが体液と薬液の交換までは済ませていたらしい、横たわる老人の体躯は生前の血色を取り戻し、後は全身に残った傷を塞いで隠してしまうだけだ。

 それ自体は何ら難しいことではない。今までに何度も繰り返してきた通常業務ルーティンである。

 だと言うのに。


「――、っ」


 何故、これほどに緊張してしまうのか。


「フリード、気分が悪いならば休んでも構わないが」

「いえ……何も、何もありません」


 気配の歪さを感じ取ったか、気遣わしげに声を掛けてきたビヘッドにはかぶりを振って返し、大きく深く息を吐く。それでも揺れる視線の先には、台の上に伏せられた手と指の、何度も引っ掻いて出来たと思しき深い擦過傷すりきずと裂傷。血は止まり、今は仄白い肉の色を見せるそこに、意識を集中する。

 もう一度、深呼吸。燃え尽きぬ線香の煙が、無菌の作業室に音もなく渦を巻く。その流れも目にくれず、墓守は糸を付けた縫合針ほうごうしん鉗子かんしで掴み、遺体の皮膚に突き刺した。

 一度糸を通してしまえば、後は身体に憶え込ませた動きをなぞるのみ。ぱっくりと口を開ける傷を綴じるように縫い塞ぎ、縫合痕の上から種々の胴乱ファンデーションを塗り重ねて、白粉を叩いて周囲と馴染ませる。肉が削れ、骨が剥き出した指にはろうを被せ、やすりと爪磨きで整復しては、傷と同じく化粧で色合わせ。掛ける手間と使う糸の種類に差異あれど、概ね同じ処置を両の手指に施し、服で隠れる脚と胴は簡単に済ませて、墓守は針の痕だらけの首にゆっくりと手を添えた。

 暴虐に痩せ細った上、何かに掴まれたような痣を深く刻む肌。今まではさして気にも留めなかった、業務の遂行対象に過ぎなかった傷の向こうに、今回ばかりは地下牢で行われた暗澹あんたんの暴虐を透かし見る。

 それが、沈黙のこごる作業室に、若き男の声を響かせた。


「私の、役目は、何でしょうか」


 それは、己に。積み重ねてきた存在意義たましいに、初めて発した疑念。知識と義務感ばかり詰め込んできた空虚さが、それでも為すべきことを問う。

 果たして応えたのは、生ける物の誰でもない。


「……濃い復元液は、些か刺激が強いな」

「そうで、御座いますね」

「終わったら、少し休むといい」

「はい……っ、はい。そうします」


 涙声を堪え、然れどもぼろぼろと零れ落ちる熱い雫は抑えることもままならず。天を仰いで叫び出したい衝動を必死で堪え、フリードは術野を見据えた。けれども、下を向けば余計に視界が曇ってしまう。

 ――この抗い難く視界を覆う涙は何事か。堅く秘め隠された魂の底、貼り付けたような丁寧さと突き放すような冷淡さにき固められた心底から、涙となって溢れるこの激情は何ものか。追究を後に、墓守は手を動かし続けた。

 まずは針の痕と、延髄を断つように付けられた乱雑な切創――物殺しの少女アザレアが焦燥のあまりナイフを叩きつけてしまったらしい――を化粧で丁寧に隠し。大きく損壊してしまった頭は、現場から拾い集めた残骸を接着して形を戻し、残ったひび割れや部品が欠損した穴を蝋で埋めて修復する。色が合わなければ顔料を吹き付けて生前を再現し、くすんでしまった箇所は研磨剤と艶出し用の蜜蝋ワックスで磨き上げ、最後に、


「……嗚呼、貴方は確か、手袋をするんでしたね」


 赤い薬液だけでは出せぬ、確かに彼が持っていたはずの生気を、紅の一刷毛ひとはけに込めて。

 手袋を着けさせる遺体に対しては、普段のフリードならば、非効率的と断じて省いてしまうような作業である。だが、こと今日に限っては、それが無駄なものとは思えなかった。

 寂しげに笑いながら、傍らのかごに畳まれていた服を取る。綺麗に洗い張りがなされ、ほつれや破れの繕われた一式は、かの老翁が死の間際にまで着ていた愛用の品だ。下着インナーばかりは新品を用意せざるを得なかったものの、洗浄しても汚れが落ちないのならば仕方がない。

 手早く下着を着せ、シャツとスラックスを用意。化粧や整復部位を擦らないよう慎重に腕や脚を通し、しわを伸ばしてボタンを留める。シルクの黒いネクタイを締め、革靴と手袋を着けて、台の上での作業は一度終了。部屋の隅に待機させていた木棺もっかんを別の台に上げ、そこに茶色の外套コートを広げた。

 そっと遺体を抱き上げ、几帳面に外套の肩と遺体の肩の位置を合わせて、棺の中へ。片方ずつ袖を通し、前は開けて裾を遊ばせたまま、手を鳩尾の上で組ませる。その堅く冷たい指の間へ絡めるように、死者の道行を拓く白檀の懐剣と数珠を持たせたところで、フリードは手を止めた。


「――ぁ、嗚呼、ビヘッド様」


 ゆっくりと、半歩。

 棺から距離を置き。

 死化粧は、終わったのだ。


「完了、です。……あの」

「気にすることはない」


 まだ作業中なのか、ビヘッドからは簡潔な一言のみ。しかし、それで充分なほどには、墓守達の付き合いは長い。

 心配げに見守るシンシャの視線を余所に、白衣と手袋を脱ぎ捨て、安全靴から革靴へ履き替えて、のろのろと重たい鉄扉てっぴを押し開ける。朝の暗い内から作業を始めて早六時間、外は麗かな初夏の陽気に満ち、呑気な小鳥の歌が何処からか聞こえてきていた。

 ふらふらと歩み出る。日差しは強く、ひさしもないまま浴びていては汗ばむほど。いつものように外套のフードを造花の頭に被せ、砂利を踏む音を聞きながら、ゆっくりと受入所へ向かう。

 しかして、白黒の牧師館へ戻るより、作業中だからと抑えつけていた激情が、再び湧き上がる方が早かった。


「これで、これで私は、良かったのですよね?」


 つかえているものを押し流すように、後から後から涙が溢れて止まらない。

 止める気もなく、墓守は陽の下で泣きじゃくる。

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