七十七:悲鳴

「ぅ、ゔ……助、……出し、くれ……」


 零落と言うにも悲惨の有様であった。

 百年の時を共に過ごした友の声も思い出せず、姿すらもが朦朧の彼方。求めるのはただ、剥き出しの神経に麻薬を浸すようなあの幸福。それさえ手に入るならば、如何に肉体が崩壊しようと構いはしない。ひたすらに妄想の中を貪り、妄想で足りなくなれば現実を求め、唯一の出入り口に向かって爪を立て続ける。

 壁と同じ灰色に塗装され、何をも通さじとばかりにぶ厚い、冷ややかな鉄の板。覗き窓はおろかドアノブもなく、通気口以外の孔一つなく、飾り気すらもないこの鉄板が出入口などと、彼に理解する力は最早ない。ただ、その方から男の啜り泣きが聞こえてくるから、そちらに意志ある誰かがなにか居ると本能的に察して縋りついているというだけの話だ。現に、出口を見失って壁を引っ掻いた痕が部屋のそこかしこに残され、慟哭が途切れる度に増えている。

 そうして爪が剥げ、肉を削り、骨が壁を擦り始めた頃に、絶望は親友ファーマシーの姿を取って現れる。


「テレンス」

「ひ……っ!」


 掠れた震え声が、傷と血に塗れた老爺に優しく投げかけられる。しかし、そこに込められた感情を最早、この“廃物”――テリーは理解出来なかった。繰り返される処置に怯え果て、引き攣った声を上げてずるずると後退あとずさる。最早ほとんど肉のない指に構わず床を掻くせいで、リノリウムの床は血に染まり、両手の五指は更に傷を増やした。

 そんな惨い心身の傷を晒した親友の姿を見下ろして、ファーマシーは何を思っただろうか。何も言わずぐっと拳を握り締め、白衣の内ポケットから未開封の注射器とラベルのない遮光瓶を引っ張り出した。最早テリーにとってもファーマシーにとっても見慣れたものになってしまったそれは、これから行われるのための特効薬だ。

 そう、医師は信じている。


「い、嫌だ、それは嫌だ、助ッ、ゔ……」

「頼む、暴れないでくれ。後少し、後少しの筈なんだ!」


 弱々しくかぶりを振りながら逃げる患者へ馬乗り、首を押さえ付ける。自他の死すら厭わず、肩が外れるほどの勢いで襲い掛かり暴れる“粗悪品”ならばまだしも、テリーのような中途半端に理性を残した“廃物”に、人を無理矢理振り払えるだけの力はない。いつもの通り、掴まれた途端大人しくなったテリーの首に針を刺せば、嫌だ、とまた涙声が老爺の喉から滑り落ちた。

 構わず、注射器の押子プランジャーを押し込む。吸い出した無色透明の液が見る見る内に頸動脈へ吸い込まれ、ほんの刹那、テリーの全身から力が抜けて――


「ィぎッ、あがッ……ぃ、ひ、ぁああっ、あああああああッ!?」

「駄目だッ! お願いだ、そのまま大人しく」

「ぁがっ、ぃ、ぃぎゃぁ゛あ゛ああああああッ!! 痛っ、痛いッ、痛いぃいィッ――いだ、ぁあ゛、あ゛あ゛あぁあ゛ぁああ゛ッ!!」


 襲い来るは恐るべき禁断症状の雨霰。

 己の内に秘めて蓋をしていた、ありとあらゆる心的外傷トラウマが、かつて身に負い心に受けた傷の痛みが、治療薬と薬によって強引に引き出される。そこにありとあらゆる慈悲はなく、テリーはその老躯からありったけの絶叫を上げてのたうち回った。

 それが治療として正しい経過なのか。ファーマシーには分からない。制定された治療法も、かの劇薬から立ち直った記録も存在しない以上、医師は経験則と分析所から返ってきた結果を――オンケルを処置した際に偶然生成された薬品の、予想される薬理学的効果を、ただ信じる他にないのだ。

 それがテリーにとって如何程の絶望かなど、今の医師に考えている余裕や時間は無かった。


「もう、もゔ、嫌だ、殺、殺し、ィぎっ」

「駄目だッ! 頼む、後少しだけなんだ。間違っていない、間違ってはいないはずなんだ……!」


 ありもしない、或いは実際に生み出された激痛に苛まれ暴れ回る期間が過ぎ、痛みの余韻と増えた心の傷に泣きじゃくる期間へ、老爺の状態は遷移する。この時期に移れば、治療薬の効果が切れて自我が混濁するまでは床に伏して動かない。それだけは分かっているから、ファーマシーは今まで全力で老翁を押さえつけていた手を離し、半ば這うように部屋を出た。

 医院の地下に設けられたかの暗い牢獄は、ファーマシーが建物を買い取った時からあったものだ。そこに元から付いていた、防火扉の如き分厚い鉄板には鍵もストッパーもなく、中のものを閉じ込めるには何か重石になるものを置かねばならぬ。そして、この狭い空間で用を成せる物体と言えば、自分の肉体くらいしか見当たらない。

 医師はまたしても親友の悲鳴を背に、残り少なくなってきたメモ帳へ考察を書き散らす。


「くそっ……くそ、糞っ、糞っ! 何が、何かがおかしい……何故禁断症状が治らないんだ。何が、何が間違っているんだ? 何が……」


 ぶつぶつと呪詛のように不安と焦燥を喉奥から零しながら、ファーマシーはしきりと首を振った。その手と視線は過去に書いたメモを漁っては余白のゴミまでも読み返し、首から上に鎮座する遮光瓶の汚れを――親友に流せと強いた血と汗を親指の爪で削り落とす。

 過去に読み落としたかもしれないと自分の記録に縋り付く彼だが、紙に書かれたことも、今此処で垂れ流している嘆きと大差はない。最初は壁越しに会話出来ていた老爺が次第に狂気へ囚われ、沈黙が多くなり、そして今の如く痛みと苦しみに悶え喘ぐその経過だけが文面を占めるばかり。余白にはこれまで投与した鎮静剤や睡眠薬の名が並び、涙ぐましい試行錯誤の跡が窺えど、それが安らぎをもたらした記録は何処にもなかった。

 それでも、万能薬と謳われた薬アスピリンとして、或いは多くの命を救ってきた医師として、はたまた純粋に幾多の歳月を共にした親友として、かの哀れな老人を見捨てる選択肢など、ファーマシーには取れなかった。

 ――ほんの少し、前までは。


“……フェリックス”

「――ッ!」

”フェリックス? 友よ、私の朋友ともよ。聞こえているかね?”


 どれほど時が経ったのか、最早テリーもファーマシーも覚えてはいない。

 昼も夜もなく繰り返される投薬に二人ともまともな言葉を失い、極限の疲労の中でそれでも命だけは繋げんと、膝を抱えて浅い眠りに落ちていた医師。その眠気の中で混濁した意識に、その“入電”は切り込んできた。

 懐かしさすら覚えるほど久しく聞いていなかった正常まともな言葉に、弾かれたように身を起こし、水面を騒がせながら振り返る。見えるのは相変わらず鈍色にびいろの塗装が成された鉄板だけだが、それを隔てたすぐ近くにテリーが居ることだけは良く分かった。

 ジィ、と微かにダイヤルの回る音一つ。喘ぐような息遣いと、指の骨が扉を掻く微かな音が、ぞっとするほどの静寂につんざくほど響き渡る。


「テレンス、何を」

“フェリックス。良い、もう良い”

「駄目だ! テレンス、お前なら分かるだろう、分かってくれるはずだろう!?」

“……諦めてくれないかね”

「どうしてそんなことを――私は、私はァッ!」


 幾度も懇願し、しかし未だ己の存在意義にしがみつくファーマシーに、テリーは壊れかけた心中で何を思っただろうか。嗄れて潰れた喉の代わりに、遠く心の友まで“入電こえ”を届ける“案内人特権”が。百と七十年積み上げ続け、全てを奪われて尚残った理性の残りくずが、扉に縋りつく無力な医師の元まで苦鳴くめいを届けた。

 諦めろ。温厚な老翁に似つかわしくない命令形の一言は、医師の無力さを思い知らすに十分すぎるほどの威圧を込め、不気味なほどはっきりと叩き付けられる。しかし、その後に続く言葉にはもう、その力強さなどない。


“助けてくれ。もう、いっそ――いっそ、一思いに殺してくれ。もう沢山だ、お前の存在意義じっけんに付き合うなど、もう沢山だよ。フェリックス。殺してくれ”

「テレンスッ!」

“殺してくれ、友よ。助けてくれ”

「駄目だ、まだ、まだ何とか」

“頼む。もう、終わらせてくれ……”


 ――紡ぐ言葉を喪い、それでも尚残った理性で伝えたいことが、その一言か。

 打ちひしがれ、ファーマシーは遂に抗弁も懇願も失った。望まぬ死を臨む老猫の如くに浅い息を繰り返しながら、扉に背を預け、ずるずると崩れ落ち頭を抱える。そんな医師の有様を知ってか知らずか、そびえ立つ鉄板の向こう側からは、しゃくりあげるような泣き声と弱々しく扉を叩く音が響いて止まない。

 殺してくれ。眠らせてくれ。そんな“入電”が、遠く近く雪崩を打つように、失意に項垂れるファーマシーの元へと届く。しかし、それに医師は何も答えられない。

 否、応えたくとも応えてやれないのだ。一体全体何処をどう間違ってしまったのか、テリーの心身には最早――ファーマシーが知り、“案内人特権”で生み出せる――あらゆる鎮静剤も鎮痛剤も、睡眠薬すらもがまともな効果を上げることはなくなっていた。投与すればするだけされた側の妄覚もうかくが増し、結局投薬する前よりも惨い状態に貶めてしまう。そんなことをするくらいならば、何もしない方がましと言えよう。

 だがそれは、テリーにとってみれば親友からの裏切りに外ならず。扉ごしに伝わってくる、ほとんど触れる程度の弱々しい殴打の感覚に、医師は確かな非難を感じた。


“何故だ、何故助けてくれないんだ。私のことがそんなに憎たらしいのか?”

「違う! 私は――」

“親友だろう? 友人だろう? なら、もう、許してくれ。もう終わらせてくれ、それだけで”

「ぅ……駄目だ、出来ないんだ。私は、私にも」

“裏切ったな”

「違うんだテレンス! これは違うッ!」

“違うと言うなら殺せ、還してくれ”

「それは――すまない、本当にすまない」


 そんな、やり取りが。

 一体いつまで、二人の間で続いただろうか。


“フェリックス”

「私は駄目だ、私には救えないんだ……すまない、すまない親友ともよ……」

“そこにまだいるのかい、フェリックス?”


 ファーマシーの返答が次第にテリーへ向けたものではなくなってゆき、いよいよ意識の昏迷した老翁は、闇雲に鉄板を撫でさすり、掠れた悲鳴と“案内人特権“で親友を呼び続けた。

 答えは最早返らずして、暗闇のわだかまる部屋に漂うは重苦しいほどの静寂と、微かに聞こえる男の哭泣こっきゅう。それを頼りに、老探偵はそこにいるはずの朋友ファーマシーを案じ、還れぬこの身を還してくれと頼み、


“フェリックス?”

「…………」


 いつからか、医師が扉を開けることも、啜り泣くこともなくなっていた。

 いつからそうだったのか、何故そうなったのか、テリーに判断する力はない。ただ、返答が消えたのだから、最早見捨てられたのだろうと。半ば本能の域でそう思い込み、老翁は遂に発し続けていた“通話”を止めた。

 自発的に動かなくなれば、“廃物”が更に壊れるのは早い。扉とも思えぬ鉄板の前に身を臥せ、充満する痛みと不意に襲う強烈な不安感不快感に、しかし暴れ回る気力もなくただ晒される。意識は失うでもなく薄れるでもなく、混濁しながらも清明なまま。身体を動かして発散させることも出来ぬ妄想と幻覚に、テリーの残る正気は殺してほしいのただ一色に染まりきる。

 “廃物”とはかくも悲惨かと、何処か遠くで探偵らしい思考が一瞬浮かべども、すぐに朦朧と霞んで暗闇に溶けた。



 ――そうして、時は無情に過ぎ行き。


「これは、一体」


 瀕死の老探偵が、再び音を聞きつける。


「嘘。何で、ファーマシーさん」

「麻酔薬か、鎮静剤の過剰投与だろう。……アザレア、ファーマシーはもう助からん。お前が還してやる必要もない。少し離れていろ」

「だって、ケイさん! 私、そんなこと全く」

「物殺しとは関係のない死もある、と言うことだ。フリード、手を貸す。遺体を運び出せ」

「畏まりました。アザレア様、失礼致します」


 男の声と、少女の声。少しの衣擦れ。

 ばたばたと騒がしい足音に、嗚咽を堪えるようなか細い呼吸。

 それは、どうやってかこの隠された牢獄を知った、アザレア逹物殺しのものだった。彼等の立てる物音でにわかに騒々しくなった鉄板の向こう側、しかし今まで散々聞いてきた、かつての親友が立てていると思しきものは何処にもない。だがそれでも、誰か生きたものがそこにいることだけは、“廃物”となって尚――否、“廃物”だからこそ鋭敏な生存本能が嗅ぎつける。

 渾身の力を込めて、テリーは音のする方に向かって体当たりをかました。とは言え、上体を起こした姿勢も維持出来ない、存在の根本から壊れかけたその身が、勢いや力を込めた体当たりなど出来るはずもなし。役割を放棄しかけた膝に無理矢理力を入れ、半ば肩から倒れるように、今まで閉ざされていた出入り口を外に向かって押し込む。

 果たして、壁の如くに直立していた鉄の板は、その牙城をあっさりと崩した。


「ゔ……ぁ、あ゛……」

「テリー、さん?」

「あ゛ぁ゛、あ゛……ぇ゛、い゛……」


 “フェリックス?”

 “親友ともよ、唯一無二の心友よ”

 “貴方はまだ、そこにいるのかい?”


 発した“通話”は誰に届くこともなく。

 霞む視界で何とか像を捉え、激痛と苦悶に苛まれる身体を引きずり、焦がれるように頭を上げて、その先に蠢く何物かを見た。


「フェリ、クス……?」


 朧げな認識が、確信へと変わり。

 苦痛を振り切るほどの激情が沸く、刹那。


「見ないでぇッ!!」


 意識は、刃に寸断された。

 一撃の元に首の急所を断ち離され、力無くくずおれるは満身創痍の老探偵。がしゃん、と軽い音を立てて床に転がる黒電話の受話器は、最早何を以てしてもあらゆる声を拾わない。

 そして、大きく損壊し用を成せなくなった電話あたまの代わりとでも言わんばかりに、骨まで剥き出しになった手が、地下牢から地上へと至る階段へ切々と差し伸ばされていた。


「駄目テリーさん、これは駄目! 見ないで、何も見ないで」

「止せ、もう還っている。これ以上傷を付けるんじゃない」

「あ……ごめ、どうして私……ぁ、あ、何で。何でこんなことに」

「自分を責めるな、少し落ち着け」

「ごめ、ごめんなさっ、わた、私っ……でも駄目、これ、これだけは駄目だったの。テリーさんが見ちゃ駄目だったの。ごめんなさい、ごめんなさいテリーさ、嗚呼」

「良い、良いんだ。これで良い」

「私、私ッ! 何にも、ぁあっ、ああああ……ッ!」


 その先に在るのは、失意の内に泣きじゃくる物殺しの少女と、努めて優しい声を上げながら主を掻き抱き背を撫でる包丁の付き人。そして階段をいくらか上れば、鉛がつかえたように胸を掻き毟り十字架ロザリオを握り締める造花の墓守。フリードの空いた片腕には一人、ぐったりと力を失った男が一人、抱かれるままに四肢を投げ出している。

 五十代半ば、中肉中背。特徴のないシャツとスラックス、他者の血に塗れたよれよれの白衣。胸ポケットに突っ込まれた表紙だけのメモ帳と、床に放り出された煤竹の万年筆。やや節くれた手から滑り落ちるは何かの薬剤が入っていた注射器で、薬の入っていたと思しきアンプルや瓶は何処にもない。

 そんな、見るも凄惨な遺骸と化した男の首から上。重力に引かれるまま喉仏を晒す首に据えられた――柳の枝だけが虚しく干からびる、本来入るべき水薬アスピリンの枯れた遮光瓶の頭は。

 それでも見間違えようなく、ファーマシーのものだ。


「どうして……あんな優しいひとが、こんな、こんなことしちゃったの、どうして」

「アザレア」

「分かんない、分かんないよ、ファーマシーさん……」


 ――物殺しにも、その付き人にも、“通話”は紛れ込んでいた。

 ――殺せ、還せと泣き叫ぶ、ノイズだらけの声にされて、漸う此処まで来たと言うのに。


 墓守の手に抱かれた医師と、冷たく無力な床に臥すその心友。

 二人の冷たい物を前に、少女の悲鳴はむことを知らない。

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