七十一:花洎夫藍

「どうぞ、アザレア様」

「あ、ありがとうございます……あっ美味しい」

「それは光栄で御座います」


 仕切り直し。

 そんな言葉が今の状況にはよく似合うだろう。

 あの後、物殺しの放った一言に愕然として固まっていたリペントは、何故か堰を切ったように泣き始めてしまい。それを何とかして宥めすかし、ようやく機嫌と正気を取り戻した執事に先導されて屋敷に入った後、茶会の用意を始めたリペントを見守って今に至る。

 何処からか仕入れたのかそれとも作ったのか、角立つクリームをたっぷり乗せたケーキに舌鼓を打ちつつ、真面目さを取り繕えない微妙な困り顔で執事の方をちらり。今や家の主と化した家令かれいは、しかし此処にも何処にも居らぬ主人を律儀に立てているのか。差し向かいのソファではなくその傍らに侍り、いつ呼び出しを受けても動き出せる適度な緊張感を帯びて、真っ直ぐに背を伸ばしている。

 しかし、用があるのは居ない主人ではなくリペントの方だ。それはこの状況を見れば分かりそうなものだが、彼はどうにも周りを見ようとせず、ただただ執事としての作法に従うばかり。一応とは言え意思の疎通が出来ることも相俟って、部屋には何処か異様な空気が漂っていた。

 その空気に居た堪れなくなったか、或いは単純に話を進めるためか。一旦茶菓子をテーブルに置き、アザレアはすっくりと背を伸ばした。執事もそれに気付いて更に姿勢を正したものの、それは用向きの客人に対する態度というよりは、傍の主人を侮られまいとする動きにも見える。侍るべき主人が居ないと言う事実を受け止めているようには、物殺しには思えない。


「あの、リペントさん?」

「此処に」

「座って話をしませんか? 私、リペントさんと話をしに来たんですけど」


 困惑しいしい差し向かいの空席を指せば、リペントは束の間きょとんとした風に小首を傾げ、それから何かに気付いたように小さく息を呑んだ。驚きか恐怖かはたまた言葉にならぬほど些細な何かか、ともあれ揺れ動いた感情に合わせ、首から上に直接咲き誇る、最盛を過ぎて萎れかかったクロッカスの花が一時的にぴんと花びらを伸ばす。そしてまたすぐに萎れて色褪せていく様が何とも言えず滑稽で、アザレアはふっと口をついて出そうになる声を何とか収めた。

 目の前の少女が中々の努力を以って真面目な顔を繕っていると、彼は知るか否か。慌てたように御意と声を上げ、すらりとした脚を折ってソファに腰掛ける。そんな物の様を、今度こそ真剣な表情で観察した物殺しは、そこに一つの確信を得た。

 彼は、ビジョンとは似ても似つかぬが確かに“廃物”だ。一見すると話は通じているし理性も保っているように見えるものの、彼我ひがの間でも、或いは彼の中でも、致命的に何かが食い違っている。

 彼は最早、主に仕えた頃の慣習に縋り、家令としての己しか保てない、正気の残骸なのだ。

 一つ、瞬き。虎目石の如き双眸で“廃物”を捉え、物殺しは静かに呼びかける。


「話をしに来たって言ってるのに何ですけど――話を聞かせてもらえませんか。私は、貴方のことを何にも知らないので」

「ワタシの……嗚呼、何処からお話すれば良いか」

「何処からでも」


 時間は、無限ではないがまだある。何かの調査をしに来たわけでもない。ならば何処から聞いても構わないだろう。必要ならば、この後予定の控えているトートの方から声が掛かるはずだ。

 そんな打算を包めて一言。それの裏に隠された言葉を、リペントは読んだか否か。僅かに姿勢を崩して身を預け、きっちりと膝の上に置いていた手をやおら組んで、何処か遠くを見ながら話し出す。


「ワタシは――かつては西の国、王国の主に仕えた貴族の所で人の身を得た物で御座います。御嬢、と言うのがワタシの主人おやでした」

「ああ、だから。そんなに顔似てましたか?」

「いえ……御声を聞いた際には正に御嬢と思ったのですが、今拝見すると御顔も御声もまるで掠ってもおらず……お恥ずかしい限りで御座います」


 全く似ていない少女を本気で主人と間違えたことが余程恥ずかしいのか、既に花期の過ぎたクロッカスの花弁を一層萎れさせながら、リペントは顔を覆うように右手を頭の前で広げる。放っておくといつまでも慚愧ざんきの念に駆られるのではないかと、そんな危惧が垣間見えるほど深々と恥じ入る家令を慌てて宥め、アザレアはおずおずと先を促した。

 その前に。許可を得てから執事は一旦退室し、茶杯を持って戻ってくる。かと思えば完璧な所作で紅茶を淹れ、その中に角砂糖を二つ沈めて、音を立てぬよう静かに溶かしながら話し出した。


「御嬢と、その御父上……ワタシから見たならば雇い主とでも言いましょうか。その方々は、最早十三世紀も前の人物です故、現状とは関係がありませぬが。少しだけ昔話が許されるならば、かつて仕えた家は西の国にて王族の家令を務める一族で御座いました。しかし国とこれを治めた王は斃れ、我が一族も離散の憂き目に。ワタシは国と、それに伴い家が傾く直前に動き始め、御嬢を連れて西の国を離れたので御座います」

「あー……あんまり王族とかそういう話は詳しくないんですけど。リペントさんって、要するに王様の執事なんでしょう? 執事って、そんな大慌てで逃げる必要があるんですか」

「私が中流家庭の家に雇われている物でしたら、あるとも、無いとも言えましょうが……まずアザレア様、東の国ではよう混同されますが、家令は執事より上の立場に御座います。家の財政と主人の身辺を管理し、全ての使用人を取り仕切るのがワタシども家令の役目」


 妙に誇らしげな口調でそう諭され、アザレアは微笑ましげとも憐れみとも、何とも言葉にしがたい色を滲ませて目を細めた。

 主人を立て、その住む家の一切を仕切る家令。その気概と行動が“廃物”になってすら染み付いているほど、彼は根っからの家司いえのつかさなのだ。千年もの間積み上げてきたその記憶と誇りは、どれだけ手酷く穢されたとしても、決して消え去るものではない。

 そして、彼以上にその重大さを知る物もいない。


「我々は家を維持する為にこれを知るもの。王族が脱出に使用する抜け道の存在など当然知っておりますし、国庫を開く真なる鍵などもワタシが預かっておりました。これを狙うものが現れることも、そのものが穏便な交渉に応じぬことも、ワタシどもにそも応ずる気がないことも、恐らくは当然の帰結。故に、ワタシは秘密を賊や敵国に明け渡さぬよう、仕えた王にも秘密裡に国を出なくてはなりませんでした」

「な、なるほど。昔の人ってほんと過激ですね……えと、それで、この街に?」

「その前に御嬢を喪いました。東の国も当時は戦乱激しく戦火甚だしさをきわめ、逃亡に次ぐ逃亡の末、飢えと病によって倒れられ……そのまま」


 そのこと自体に深い遺恨はないのだろうか。リペントは存外にすっきりとした語り口でそう述べ、湯気の立つ紅茶を花咲くクロッカスの根元に流し込んだ。如雨露じょうろで水をやるような気軽い所作に、零れやしないのかと思わず目を釘付けにした主人を見咎めて、ソファに座らず侍っていた付き人が上から軽く拳を落とす。至極軽いがそれでも衝撃は訪れて、手にしていた紅茶を危うく零しそうになった少女の目が、多少の恨みがましさを交えて付き人を見上げた。

 しかしキーンも怯まない。貴人きじんをじろじろと眺めまわすなと、アザレアにだけ聞こえる潜めた声をそっと転がす。その言葉で、目の前にいる男が大変な身分の物であったことに気付いたか。はっとして視線を逸らした少女にふっと笑いかけながら、古き家令はゆっくりとかぶりを振った。


「お気遣いなく。ワタシは今や身分も失った、ただ死を待つばかりの物で御座います。それに、貴女のような物殺しには、我々がどのような生き物か不思議に映ることでしょう」

「すいませんほんとに……ちょっと堪えます」

「いいえ、これから先もよく気付きよく見回せば宜しい。旺盛な好奇心が掛ける迷惑など、我々のような老いた物には迷惑の範疇に入りません。若人わこうどが多くに興味を持つことを、どうしてワタシのような老骨が止められましょうか」

「だが、最低限の礼儀は必要だ。そうだろう?」


 柔和な声を斬り伏せるは、包丁の上げた重い声。それを受けて、ふむ、と軽く考え込むような素振りを見せたリペントは、幼い子供に向けるような柔らかい視線を付き人へ寄越した。

 ばつが悪いのか単なる照れ隠しか、ともあれ不機嫌そうに棘を含ませて睨み返すキーンに、家令は微かな動揺もなし。


「怖じることなく悪しきを諫める良き付き人に、それを素直に受けて身を戒むる良き主人あるじ。貴方方は互いにき人を得たようですね」

「……どう言う意味かな、それは」

「はて、どうしたものでしょう」


 くすくすと楽しそうに笑い、お似合いの二人が揃って微妙な空気を放ち出したところで、更に微笑。羨ましいものです、と心底寂しげな声を上げて、物殺し達の構えを切り替えさせる。

 僅かに俯き、萎れかかった花の首を更に垂れて、リペントは掠れた声を絞り出した。


「ワタシの最後の主人は、貴方方のように善良ではなかった。心労が嵩んでいたことは同情に値致しましょうが、だからと言って、逃避の為に薬へ手を出してしまわれるなどとは……斯様に欲へなびく方とは思いもしませんでした」

「薬?」

「『inferinone』とラベルが貼ってありましたね。ワタシは残念ながら、薬物にも薬事の機微に詳しくありませんが、貴方方にとってはよくご存知のものかもしれません」


 家令はそう言うものの、アザレアとてただの女子高生である。『inferionone』なる薬物が実際はどのような物体で、一体何を人体に引き起こすかなど知りはしない。薬物の流出入にしても、その上辺はなぞって大枠は理解したものの、それだけだ。ただ、物にとっても人にとっても、破滅的な幸福とその代償を叩きつける代物ということだけは知っている。

 そんなものに手を出してしまった主人。結末が想像出来る気がして、物殺しは言い知れぬ嫌悪感に顔をしかめた。それに気付いているのか否か、リペントは続く声を掠れさす。


「ワタシの主人は、ワタシの付けていた帳簿とは別に帳簿を付け、そこに貯め込んだ資金を使って薬を手に入れていたようです。それに気付いた時には既に遅く、主人はじきに、襲い来る妄覚もうかくに堪えかねて頭を撃ち抜いてしまわれた」

「リペントさん、それ知ってるって、まさか」


 嫌な予感、否確信が、アザレアの声を震わせる。

 対するリペントは何も言わず、ただ静かにシャツの袖を二の腕まで捲り上げ、差し伸べるように腕を伸ばして肌を見せた。

 手入れもされず水に晒され続け、酷く荒れた手。そこから肩へと続く腕には、


「どれも主人の命令であったようにも思いますが、どれかは己の意思かもしれません。全てが自分の弱さだったのかもしれません。……もう、憶えていられないのです。ワタシは、ワタシを保つために、最早慣れ親しんだワタシ以外全て棄て去る他になかった」


 無数に穿たれた、針の痕。

 廃物であった物ビジョンの首に見たあの痕と全く同じものが。

 この男にも、刻み付けられていた。


「どうして? どうして、リペントさんまでそんな目に」

「……最早、憶えておりません。ワタシが憶えているのは、御嬢のことだけです。それ以外を受け容れてしまえば、ワタシはワタシではなくなってしまいます。それは、それだけは断じてなりません。ワタシが職務を放棄して無知蒙昧にふけるなど、御嬢と合わせる顔が御座いません」

「リペントさん?」

「ワタシは、ワタシは端から御嬢と共にありたかっただけなのです。残りの生など全ては泡沫の夢の名残。しかしそれも、他ならぬ御嬢の御命令あればこそ……嗚呼、ワタシは、ワタシはどうすれば良かったのでしょうか」


 ぶつぶつと呟きながら、荒れ果てた家令の手が、萎れた花の茎を掻き毟る。水をやりすぎた鉢植えのように、溢れる涙が開き切って萎れた薄紫の花弁を伝い、神経質なほどに磨き上げられたガラステーブルの上にはらはらと落ちた。

 最早これまで。物殺しもそれに侍る物どももそう確信して、互いを見合わせる。しかしてそれも刹那のこと。最前と同じく嗚咽を零すばかりに成り果てた家令に憐れみの一瞥をくれ、まず立ち上がったのはアザレアだった。

 高く結い上げていた髪を下ろし、ゆっくりと瞬きを一つ。後を追って立ち上がったクロッキーとトートを自身の背後に下がらせ、深く息を吸って、物殺しは声を上げる。

 それは、最愛の妹にすら掛けたことのない、柔らかな一言。


「イサ、行こう」


 如此かくのごとく呼べと誰かに言われた訳ではない。

 それが彼にとって何を意味するかも知らない。

 だがその時、物殺しは確かに、そう呼ばねばならぬと思ったのだ。


 そこには理屈の付けようもなければ理由など当てはめようもない。この世界にはそうした不可解で、しかして優しい嘘というものが存在するのだと、アザレアは知っている。

 声を聞いたリペントが、弾かれたようにおもてを上げ席を立つ。そのおずおずと差し出された手の手首を掴み、アザレアは意識して強く家令の手を引きながら、その他の物どもと連れ立って屋敷を出た。

 何処へ行くのかというクロッキーの問いには、何処かしたりげな微笑みのみ。困惑気味の少年と訳知り顔の付き人、先程から黙して語らぬ墓守たちと、訳も分からず引かれるままの家令を連れて、少女の足が迷いなく歩む目的地は、あの美しく季節の花々が咲き誇る広い庭の、片隅。

 最初に彼と会った時、執拗なほどに手入れを繰り返していた。あのガラス張りの温室である。余程注力して維持していたのだろう、古びた骨組みはしかし錆一つなく、昔ながらの歪さが残るガラスには曇り一つない。完璧に保たれたかの部屋に、何か挙げるべき瑕疵があるとするならば、出入り口に掛けられた南京錠が鎖ごと叩き壊されているところと、そして。


「うわ、ぼろぼろ……これ何? フリードさん」

「かなり昔の、誰方どなたかの墓で御座いますね」


 色褪せた上に大きく割れた、小さな墓碑。

 周囲で陽を受ける花々は瑞々しく鮮やかだと言うのに、温室の真ん中で崩れかけたそれは割れた上に劣化が進み、辛うじて残った墓碑銘が無ければ墓とすら分からぬやもしれない。その上墓の周囲は意図したかのように踏み荒らされ、その執拗さが土にまで染みたとでも言わんばかりに、植えられ育てられていたはずの草は軒並み枯れている。

 外観の手入れの完璧さとは裏腹の惨状に、それでも物殺しは動じない。口を真一文字に引き結んだままずかずかと大股で歩を進め、墓の前までリペントを引っ張って来る。それまで唯々諾々と先導に従っていた彼は、少女の肩越しに見えた御影石の残骸を見て、何か思い出したらしい。急にその場で足を杭打ち、嫌々とかぶりを振り始めた。

 何かある。最早察するまでもなく分かることであるし、それが何なのかも、想像はつく。しかし、想像の帰結が生む感情を、物殺しは極力内に押し込めて隠した。そのまま強引に引きずろうとして力を込めたアザレアの腕を、リペントの両手が掴んで引き留める。

 悲痛な掠れ声が、吐き戻される血のように溢れて滴り落ちた。


「駄目です、止まって下さい御嬢! 御免なさい、御免なさい……! やめ、止めてください」

「イサ」

「いけません、いけません!  そこはいけません、御嬢! そこは立ってはならぬ所です、貴女が居てはならぬ場所です」

「イサ!」

「おやめ下さい当主様、ワタシの、ワタシをにじらないで下さい……嗚呼御嬢、御嬢、申し訳ありません、御許し下さい。どうしても故郷へは戻れなかった。ワタシは貴女を返すべきだったのに……御嬢、駄目です。それは、それだけは貴女が見てはいけないものです」


 支離滅裂な言葉が叩き付けられ、かと思うと腕の力が緩み、家令がその場に膝を折る。その後を追いかけ、そっと膝をついたアザレアの耳が、涙声に混じった嘆願を確かに聞き取った。


「どうして、どうして貴方は変わられてしまったのですか。当主様、おやめ下さい、どうかおやめ下さい……貴方は御許し下さったではありませんか。貴方が建てた場所ではありませんか。当主様、どうして、どうして……」


 物殺しは、遂に何も言えなかった。

 恐らく、この墓の下にはリペントの所有者おやが眠っているのだろう。或いは、この家の者が遍く眠る所を間借りさせてもらったのかもしれない。ともあれこの家令は愛すべき者を己が傍に置き、家の主人もそれを容認して、墓の上から温室を立てたのだ。

 しかし、それは何らかの事情で突如破綻した。温室は出入り口を壊され、墓は打ちのめされて、維持管理を任されていた家令もまた然り。リペントは自分が居ながら最愛の者を穢され、挙句自分までも壊された事実に耐えきれず、結局墓は修理も交換もされずに今日まで放置された。

 ――彼等をそうした原因など考えるまでもない。

 アザレアは、深々と溜息をついた。


「イサ、……


 声は聞こえていただろうか。少女を力なく引き留めたまま俯き、萎れたクロッカスを更に干からびさせて嘆く彼から、答えを読み取ることは叶わなかった。

 ならば答えは一つと、物殺しは鞄に秘めていた得物を引き出す。亡き行商が磨き上げ、研ぎを入れ、片手で容易に開いて構えられるほど整備された、古き貴婦人の懐剣。その細い刃を寸秒見つめ、アザレアはやおら身を沈め――

 虎目石の瞳が見定めたかの物の急所、鉢植えに寄せられた花の根を断つように、男の喉笛へ思い切り得物を突き出した。


「ぁが……っ!」


 浅い。

 否、

 シズを還した時の何倍も刃が重い。骨董品のナイフだからとか、華奢な仕立て屋に比べてがっしりした体格だからだとか、そう言った次元の重さではない。突き刺した刃が途中から進まないのだ。

 何かに絡め取られているような、或いは還そうと言う物殺しの殺意に怯えるような。そんなか細くも異様に生々しい抵抗が、ぎちぎちと軋む肉と、弱々しく少女の手首を掴んで剥がそうとしてくる男の手から伝わってくる。

 それでも、引き抜くわけにはいかない。


「ぁ、ァ……か……っ」

「イサ、ごめん。――ごめんなさい」


 掴む手を振り払い、ナイフの柄尻に掌を添えて、渾身の力で押し込む。ぶちぶちと切れてはならぬものが切れる音と感触が手を伝えども、しかしてリペントはまだ心折れず、息絶えることもなし。千年の時を重ねた物とは斯くも強固なものかと、アザレアは関心にも似た戦慄を覚える傍らで、妙に冷静な視点を以って物の様子を観察していた。

 声帯を裂かれて声も出せず、喉から落ちて肺腑に流れる血を吐き戻すことも出来ずに、彼は死に体で身体を捩るばかり。止むを得ず、半分ほどまで突き立ったナイフを須臾の間に引き抜くと、アザレアは自身の重心をより下げて懐に潜り込む。間髪を容れず、真っ赤な口を開けた傷へと、全体重を乗せて刃を振り上げ――


 狙い過たず、

 そしてより深く。

 喉を切っ先が抉ると同時に、

 不可逆に割れ果てる音が、響いた。


「あ、あ……御、嬢……御嬢……御赦し下さい、ワタシを、ワタシと――」


 なるべく傷付けぬように、しかして可及的速やかに得物を抜き、見えない何かに押しのけられたように横へ逸れる物殺し。それを一顧だにせず、湧き水のように血の溢れる傷を押さえもせずに、リペントはよろよろと立ち上がると、割れ崩れた墓の方へと歩み寄っていく。

 今にも倒れそうだ。しかし、男は決して崩折くずおれることはなかった。真なる闇の中で誰かを探すように頼りなく手を彷徨わせ、よろめきながらもしっかと踏み倒された草の上を歩んで、御影石の残骸の数歩手前に立つ。かと思えば、何かを捉えたように右手を差し伸べて、その上に己の左手を重ね、恭しく跪いて首を垂れた。

 あたかも、貴人へ忠誠を誓う騎士の如く。

 或いは、最愛の妻の手を取る夫のように。


「赦して、頂けるのですか、御嬢」


 長い、静謐がそこにあった。


「嗚呼、ぁあ……漸く、漸く貴女から、御慈悲の御言葉を、頂けた」


 長い、長い、

 静謐が、そこにあった。


「参りましょう、御嬢……今度は、今度こそ、二人で――」


 家令の手がぐったりと落ち、後を追うように身体も遂に力を失う。

 暴虐に荒れ果てた墓を隠すように、男の体躯が墓碑へ覆い被さり、

 眩むほどの閃光が、束の間視界を真っ白に染め上げた。


「……リペントさん」


 世界に色彩が戻った時には、男の遺体も崩れた墓もなく。

 そこにはただ、真っ白に焼け尽きた灰だけがあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る