六十七:断絶

 轟音。心の臓を抉る激痛と、肺から空気の抜け出る苦悶。視界を染める血の赤黒さ。

 轟音。無事だった肉が挽かれ潰れる湿った音。肋の骨のへし折れる乾いた音声。

 轟音。這いずり逃げる身体が縫い留められる。死にたくないと足掻く心を絶望が埋め尽くす。

 轟音。物として在るべき何かに鉛玉が食い込み、ひび割れ、砕――


 暗転。


「……――!!」


 本日四回目の悪夢に迫られ、オンケルは堪らず眠りの世界から逃避した。

 弾かれたように寝台の上へ身体を起こし、意図せずして荒れた呼吸を必死で整え、雨に打たれたかの如く震える肩を抱きすくめてうずくまる。もし彼に声があったならば、医院中に響く勢いで叫び散らしていたところだろう。しかし、声など出すべくもなきこの男には、たださめざめと泣きながら背を丸めることしか出来ない。

 罪科の権化クロッカーによって撃たれた後、傷を癒すための泥濘じみた眠りから覚めた駅長は、今やこびり付いた心的外傷トラウマのために、まともに眠ることもままならなくなっていた。

 意識が回復した当初こそまともに受け答え出来ていたものの、今では医師ファーマシーの来訪にすら気付けないほど疲弊しきり、ずっと寝台に臥したままだ。今とても、気力の尽きた身体は数分も起こしておけず、声なき嗚咽を零しながらぐったりと硬いマットレスに側臥している。

 ――眠るのが怖い。夢を見るのが怖い。またあれと遭うのが怖い。

 呪詛のように衰弱した精神が繰り返す、恐怖と絶望と強迫。それに追い詰められ、オンケルはがたがたと震顫しながら毛布を頭まで被る。けれども、闇が視界を覆えば、意識の底にこびりつく銃声と心肺の傷が思い出されて気が気でなし。それでも、頭を出せばそこに恐ろしい物が立っている気がして、どうしても頭を出したくなかった。

 いよいよ零れる涙が隠しおおせなくなり、再び布団を跳ね除ける。カチカチと一定のリズムを刻む懐中時計の頭、その風防を伝う汗と涙を手の甲で拭い、重い身体を引きずり起こしたその傍に、

 彼は、静かに腰掛けていた。


「酷く魘されていたようだが、大丈夫かね」

「っ……」


 やや草臥くたびれの見える茶の外套、首元まできっちりと締めた黒のネクタイ、儀礼用の白手袋に覆われた手には焦げ茶の中折れ帽。首から上に鎮座する木製の黒電話は、最後に見たときよりも傷が増えている。慰霊祭の臨時列車に揉まれて出てきた乗客も中々のぼろ雑巾ぶりだが、今の彼はそれ以上にやつれて見えた。

 普段身だしなみに気を使うテリーが、斯様な薄汚れた様を人前に晒すことは少ない。と言うより、オンケルは見たことがない。一体何があったのか、疲労した腕を動かして問えば、老探偵は無言のまま、しかし察せよとばかり肩を小さく竦めてみせた。


『わたし には さっぱり 分からない』

「柱時計の男に乱暴された、と言えば分かりやすいだろうか。あまり大丈夫ではないね」


 平然として語りながら、テリーは悟られぬ程度にオンケルの頭を覗き込む。やや俯き、語るを拒否するが如くしっかりと組んだ手に視線を落とす彼は、しかし思った以上に動揺を見せない。先程まであれほど恐るべき物――どう考えても、あのように魘される原因など罪過の権化にしかあり得ない――に恐怖していたと言うに、それが原因で死にかけた物を前にかくも冷静な態度が取れる駅長ではないと、老探偵は知っている。

 しかしその一方で、オンケルはおよそ類を見ないほどの善人であることも知っている。他人の感情に対する共感力に長け、ひとの喜びを己のものの如く嬉しいと感じ、ひとの悲しみを当人よりも辛く感じては、その傍に寄り添いたがる気質の持ち主だ。

 その性格を踏まえた上で考えるならば、今の彼は恐らく、一見には元気そうに見える老探偵がこれから何をしようとしているのか察しているのだろう。そして、それ故に感情を押し殺しているのだ。下手に自分が悲哀を出せば、それが未練になると知っているから。

 テリーほど聡明でなくとも分かるほどに、はっきりと察せられてしまう。それ故に、老翁の上げた声は申し訳なさに掠れていた。


「……貴方には、心配を掛けてしまったな」

『どうしても 行かないと いけない のか? わたしが あの男に 傷付けられた から?』

「貴方のせいではないよ。ただ、私の力が足りなかったと言うだけで。――むしろ、貴方にはある意味助けられた。あまり良くない言い方だが、あの場でクロッカーを引き寄せる囮になったのだから」


 ぐっと、駅長の手が掛けられた毛布を掴む。

 聞きたくないと言いたげな様子に、謝ろうとしたテリーより早く、声なき物が言葉を紡いだ。


『そんな ことを する 必要が 何処に?』

「あったさ。私は探偵の親を持ち、その半生を共に過ごしてしまった。その上、一つの街が滅ぶほどの惨禍を直に見てしまった」

『それは 言い訳には ――』

「オンケル、私は真実を追う物だ。幾度となく事件の解決を乞われ続け、幾度となく失敗し、それでもまだ願われた。それを無碍に出来るのは物ではないと、貴方も良く知っているはずだろう? ならば、私はやるしかなかった」

『分かっている はず それでも 命 まで 棒に振る ことは なかった だろうに』


 ゆっくりと掲げられた腕から、はらりと零れる哀しげな色。どうかかないでくれと、老探偵に向けられもしない視線が雄弁たる中で、テリーは黙って首を横に振った。

 最早、手遅れだ。己を構築する何かが、あの地獄の中で直しようもないほど壊れ果ててしまったのだと、テリーは理解してしまっている。此処に来たのは、身辺整理を終えて還る前に、親友へ顔を見せておこうと言う、そんな虚しい満足の為でしかない。

 ……或いは、それ以上の自己満足の為に、無二の親友を苦しめに来たのかも、しれない。

 この先に起こることを予感して、テリーの心中に苦いものが広がる。元より因果の多い身の上だ、安らかに還るなどとは思っていないが、だからと言って苦しい死は嫌だ。しかし、老探偵の予想が当たれば、己も親友も――

 昏い未来を遠くに見て、傷付いた頭が否が応にも俯いてしまう。そんな眼前の老爺を見つめて、オンケルは何を思ったか。治りかけの傷を押さえつつ体勢を変え、寝台の脇に腰掛けるテリーに正面から相対すると、おずおずと両手を差し出した。釣られるように右手を出せば、不調にややかさついた手が、そっと、けれどもしっかと包み込む。


「オンケル……」


 硬く、硬く。離すまいとの意志が透けて見えそうな必死さで、握り締める。その力強さはあたかも祈るようで、老翁には最早言葉もなかった。

 いずれは解かねばならぬ手だが、繋いでもいいのならばそうする他に、やりたいことも出来ることもない。それに、己が握っている間だけは、彼とて還る訳にもゆかぬであろう。そう、ひどく切々とした打算を込めたオンケルの手に、テリーは黙ってもう片方の手を重ねる。

 まともな精神状態で、正常なひとの手を取れる機会は、最後になってしまうかもしれない。そんな思いが意識の正中を横切ってしまっては、此方もねんごろに握り返すばかりだ。


 そうしてしばし、緩やかにも思える沈黙が流れ。


「オンケル、そろそろ離してくれないかね」

『嫌だ』

「気持ちは分かるが、私もあまり長く正気で居られる自信がない。親友の前で気の触れた姿は見せたくないのだがね、それでも離してはくれないのか?」

『嫌だ!』


 そろそろ医局の方へ顔を出そうかと、そう決意して立ち上がろうとした老探偵を、オンケルは半ば縋り付くように腕を引っ張って引き留めた。未練たらたらと言った仕草であるが、何も感情的になってしがみ付いているわけではない。だからと言って、夢を見た余韻が尾を引いていると言うわけでもない。

 今の、この状態で。正気と狂気の境が揺れる今の有様で、医者ファーマシーに出会ってしまえば。何か善からぬことが起こると、オンケルは最早本能の域で直感していた。オンケルが不穏を語ることは珍しいが、嫌な予感ほど物は外さない。それが人の寿命の枠を超えて生きる物ならば尚更に。故にこそ彼はどうにかして引き留めたかったし、それが叶えられそうにない己の非力を今ばかりは心底恨んだ。

 対する老探偵は、言葉で聞かぬと知ってか力ずくで引き剥がしに掛かる。もっと精神的に余裕があれば駅長の言い分を聞いたかもしれないが、何しろ今は平静を保つのでも精一杯だ。思い出したくもない記憶の数々を無理に引きずり出され、伴って湧き上がる振り払いたい衝動は、とてもではないが長く耐えられるものではない。意識して記憶に蓋を被せながら、何も言わずに手首を掴んで引っ張るものの、駅長の手は予想以上にしっかりと服を掴んで解放してくれなかった。


「もういい、やめてくれ、離せ!」

『嫌だ 嫌だ 嫌だ!』

「このっ……!」


 止むを得ない。

 堪らず手首を拳で叩き落とす。それだけで離れるほど柔ではなかったものの、少しでも緩めば後はテリーの方から距離を取るだけだ。半ば振り千切るように腕を抜きながら飛びすさり、彼の手が及ばぬ位置に自身を置いて、彼はそのまま踵を返した。顧みてしまっては、二度とあの場から穏便に立ち去ることは出来ぬであろうから。

 半ば小走りに近い速さで歩き去る老探偵、その背を追おうと、寝台から離れる。しかし、ただでさえすぐには癒えぬ傷を負っている身が、突然の激しい動きに着いていける筈もなし。よろよろと三歩踏み出したところで膝から力が抜け、オンケルはなす術もなく床の上に崩れ落ちた。どさりと重い音が病室に響き渡り、流石のテリーも振り返る。


「…………」


 しかし、それでも、止められない。

 見なかったことにしようとでも言うのか、一瞥しただけですぐに視線を戻し、老翁は外套の裾を翻した。そのまま歩き去ろうとする背に、駅長は必死で腕を伸ばす。

 だが足りない。

 声を上げたい。

 だが出来ない。

 それでも叫ぶ。


――行っては駄目だ。

――行っては駄目だ。

――行っては駄目だ!

――行っては駄目だ――!


 喉が潰れるほど張り上げた声は、しかし、

 ただ嗚咽のような吐息となって、床に零れ。


「――――、」


 こちらを二度と顧みることなく、テリーは病室の扉を開けて出て行く。

 無情にも閉められた白い扉、その絶望的に高くそびえ立つ様を最後に、オンケルの意識は一旦闇の中に落ちた。

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