四十五:追跡行

 部屋中に響き渡るけたたましい目覚まし時計の音が、泥のように眠り込んでいたアザレアの目覚めであった。

 疲労の残る身体を引きずり起こし、頑固に張り付いたままの瞼を引き上げ、それでも何とか引き下ろして来ようとする睡魔は軽く頭を振って打ち払う。次第に明晰さを取り戻す意識の中に見るは、白いシャツを着崩して黒いスラックスに脚を通し、腰に給仕エプロンを掛けたニト。仕事着らしい格好に身を包んだ彼女は、七時を指す目覚まし時計の文字盤を、ぐいと勢いよく少女の顔面に近づけた。


「おはよぉ」

「……おはようございます」

「ん、おはよー。寝起き良いねぇ」

「ねむいです……」

「だろーねぇ。でもアーミラリが君のこと呼んでたしぃ、このままお休みーってのはちょっといけないと思うんだよぉ」


 アーミラリが呼んだ。その一言がまず頭に掛かる眠気を残らず吹き飛ばす。急にすっきりと晴れた脳内で、物殺しとしての怜悧さが回り始めた。

 こうなってもまだ目元にこびり付く、抗い難き瞼への重力は、ニトが何の気なしに放った続きで完全に無意味と化す。


「クロッキーくんは居ないしー“粗悪品”くんとケイさんは起きてこないしー、ベルくんとピンちゃんは起こす前に起きてるしスペックはさっさと帰っちゃうしアーミラリは徹夜してるし! もー起こし甲斐が無いなぁ皆さー! アザレアくらいしかちゃんと起きてくんないのよ、もぉ!」

「……え?」


 ――クロッキーが居ない? 何故?


 意識の端に残っていた眠気が弾け飛ぶ。考えても栓無きことと、片隅で思いつつも思考は止まらない。学の浅い、けれども深淵な聡明さを秘めた頭が全力で思考回路を駆動し、その出力結果のままにアザレアは行動を起こした。

 即ち、膝の上に掛かっていた毛布を跳ね飛ばし、寝癖が付いたままの髪を整えもせずに立ち上がって、調子よく愚痴を吐く目覚まし時計を尻目に部屋の出入り口へ向かう。にわかに焦燥感を増す空気、そのぴりついた冷たさを振り切るようにニトの横をすれ違いかけて、振り上げた腕を女の手が掴み止めた。

 後ろに引かれ、勢いを削がれた物殺しは足を杭打つ。隠しおおせぬ苛立ちを含めて睨めば、それと同じほどに強い無言の視線が跳ね返った。どこへ行くつもりだ、そう言いたげな腕に目を一瞬落とし、もう一度目覚し時計の文字盤を見つめる。


「ニトさん?」

「アザレア。あのねぇ、此処山の上だってアーミラリから聞いたでしょぉ? 一人じゃ絶対遭難しちゃうんだからねー」

「…………」


 意図を見透かされている。おまけに論の正当性も向こうにある。これでは無理な感情論を言ったところで押し通せはしない。素直に激昂を胸の奥に収め、改めてニトへ鳶色の双眸を向ければ、彼女はいかにも楽しそうにケタケタと笑声を零してみせた。

 そして、再び頭を近づける。覆い被さるように耳元へ文字盤を位置付けた彼女は、いつもの間延びしたそれではない、きびきびした声で言葉を綴り上げた。


「一人で何でもしようなんて考えちゃ嫌ァよ、アザレア。私の親だって私がいなけりゃ朝起きられなかったんだから。出来ないことを無理してやろうとしないの、他の人も頼ってよ。いい?」


 声音は彼女に似つかわしくない哀惜を秘めて転がり落ち、アザレアはただ、言葉もなく首を振るばかり。

 よく出来ました、と慈母の如く穏やかに笑ってみせた目覚し時計、その文字盤に描かれた銀の月と金の星が、細く射す陽光に煌めく。



 ぼさぼさに爆発した髪をどうにか調伏し、ニトと共に書斎へ駆けこんできたアザレアが見たのは、南面する窓を背にパソコンのキーボードを叩く天球儀の姿。曰く徹夜したという彼の手付きは重く、文字を綴る指の動きはぎこちない。物にとって、やはり不眠というのは堪えるもののようであった。

 そんな彼は、部屋の中に二人が入ってきても、画面から目を離さず。パタパタと緩慢な打鍵音を奏でて文を打ち込んでゆき、それが章を形成し終わったところで、ようやく物殺しの方へと意識を向ける。


「おはようございます。あの――」

「クロッキーからは言伝を預かってる。『起きたら椿通り二丁目に来て欲しい』だって。理由は聞いてない」

「それはまあ、本人に聞くので良いんですけど……椿通りってどの辺ですか?」


 よく考えるまでもなく、出て不思議ではない質問だった。

 アザレアはこれまで「物の街」――もとい名生ななしと、ゾンネ墓地のある月の原にしか行ったことがないのだ。流石に「人の街」と呼ばれる街があることくらいは知っているものの、それが具体的にどんな地名であるかも知らなければ、ましてや中にどんなものを内包しているかなど皆目見当も付かない。精々、椿と名の付くくらいだから椿並木でもあるのかしらん、と概観を想像する程度だ。

 しかして、案内人へ向けた問いに答えたのは、一緒に入ってきた目覚まし時計の女であった。


「だぁいじょうぶ大丈夫ぅ、場所は私が案内したげるよぉ。まあどーんと構えてなさいってー」

「ぃぇ、あの、そう言うわけには……」

「どーしてぇ?」

「だって」

「いやん、仲間外れにするのぉ? 椿通りなら私よぉく知ってるよー。地図と睨めっこしながら行くより早く着くと思うなぁ」


 ねぇ、と強めに念押しされる。他人をちゃんと頼って欲しい、と懇願された身としては、最早何処にも反駁の余地はない。仕方なく、やや曖昧な表情でアザレアが了承の意を示せば、ニトは満足気に何度か首肯してみせた。

 そんな女二人をさて置き、部屋に響くは実に古風な電話のベル。パソコンや書類が山積みになった机の片隅、半ば書類に埋もれたダイヤル式の電話に、アーミラリが手を伸ばす。


「もしもし?」

“嗚呼……案内人様。良かった、御伝えしたいことが……あります”


 聞き覚えのある、然れども常ならず焦燥を滲ませた、か細くも凛とした老女の声。椿通りにある古物店の店主、もといレザのものである。

 しかしながら、クロッキーがわざわざ仲の悪い親元へ駆け出していったかと思えば、その椿通りに店を持つレザから電話が掛かってくる――かの天球儀の元に、学者でも何でもない一般人が電話を掛けるとは、つまるところ“案内人”としての彼に何か用があることと同値で、簡単に言えば緊要きんようの事態が起きたことを報ずるようなものである――とは。どうにも嫌な予感を感じて、アーミラリの声は苦々しさを隠せない。


「どうしたの」

“クロッキー君が此方に来て……古い絵を、数枚預けて行かれましたわ。『椿通りの古物店に預けた絵を受け取って欲しい』と、アザレア様……? そう、物殺しの方に御伝えして……と”

「分かった、伝えておくよ」


 クロッキーが絵を抱えてレザの元へ来店し、物殺し宛てのものを預けた。それだけならば取り立てて重要なことではない。クロッキーの方からアザレアへ「予定が変わった」とでも伝えておけば済む話であるし、レザは物殺しの単語が出た程度で案内人に電話を寄越すほど肝の細い老女ではない。

 ならば、何かあったに違いなかった。恐らくは預けた少年の方に。


「それで、レザ。彼はどんな様子だったか覚えているかい?」

“――――”


 思い出せない、と言った風な沈黙ではない。言い澱んだのだ。その理由に対してもアーミラリには見当が付いていた。だがしかし、当人の口から言質を取らぬことには、正確な判断は出来ない。何を語るにも根拠ソースを求め、それによって人に無理を強いるのは学者アーミラリの悪い癖である。


「早く」


 静かに、けれど強く促せば、彼女は泣きそうに揺れる声で返答を紡いだ。


“あの、怪我を、していて……”

「どんな?」

“全身、そう……火事に遭ったようでしたわ。火傷だらけで……”


 ――予想より大分酷い。親から多少小突かれている程度であろうと高を括っていたら、まさか燃やされていたとは。嫉妬深く暴力的な傾向があるとは前々から懸念していたものの、かくも烈しく己が産んだ分身ものに当たるものか。

 地球を模したガラス球を様々に明滅させつつ、長考。瑠璃色と菫色、時折茜色を交えた煌きは目まぐるしく、ネガティブな考えもそれと同時に乱舞する。見ている分には忙しないが、電話口のレザにもたらされるのは延々と続く沈黙ばかり。息を詰めたような気まずさはそれでも数分続き、いよいよ案内人が思案にのめり出した頃になって、受話口から零れた困惑げな声がそれを断った。


“案内人様、私は一体……どうしたらよいのでしょうか……? クロッキー君は……引き留めようとは、しましたけれど。すぐに走って行ってしまって……”

「嗚呼、すまない。レザ、巻き込まれて大変だと思うけど、君は預けられた絵の保守に努めて。多分クロッキーの親が近くで暴れてるはずだから、下手に外へ出ると君が危ない。もし何かあったら、すぐ名家の方に知らせて。僕はあまり君達に干渉できないから」

“そうしますわ。……あの、案内人様”


 静々と投げかけられる老女の呼び声。何だい、と努めて穏やかに問えば、数瞬の沈黙を挟み、決心したように軽く息を呑む音が聞こえてくる。


“物殺しの方にも、御越しの際は十分御注意を……と。椿通りは、名家の方もいらっしゃいますが……華神楽の、本拠でもありますから……先に、名家の方が見つけて下されば良いのですけれど……”

「確かに伝えておく。でもまあ、一般人におくれを取るようなどん臭い子達じゃないから、安心しておいで。君は自分の身の安全を最優先に考えなさい」

“はい……では、失礼しますわ”

「ん」


 アーミラリの生返事を最後に通話は終わり、受話器を戻した彼が物殺し達の方を見れば、虎目石の双眸と視線が合う。話は全て聞いている、そう言いたげな様に、案内人は小さく点頭した。

 理解しているならば、何度もそれに被せて言いはしない。ゆっくりと立ち上がり、机の傍に立てかけていたステッキを手に取って、アーミラリは物殺し達の前に歩み寄る。見下ろす少女達の表情に、恐怖の色はなし。これから対面するであろう大事に対して、覚悟はもう決めてあるのだろう。

 よろしい。心の中で首肯し、ステッキを掲げかけた案内人は、ドアの方から聞こえてきたけたたましい足音に手を止める。ほとんどの宿泊者が書斎に集う中、この主は最早予測しなくても明らかであろう。

 果たして、勢いよく扉を開けた向こうから現れたのは、朱塗りの柱に金の瓦止めを輝かせた鐘楼の青年。アンバランスに落ち着いた和装に身を包む彼は、見間違う余地もない。ベルである。


「よぉアーミラリ、話は盗み聞きしたぜ」

「胸張って言うことじゃない」

「良いじゃねぇかよ、俺も話に巻き込まれてやろうって言ってんだよ。ただでさえ最近物騒なんだぜ、名家と確実に顔繋ぎできるのがいた方がいいだろ? 俺サマその辺は頼りになるぜぇ」

「むぐ……確かに」


 思わず呻く。

 ベルの言葉に間違いはない。彼の人脈の広さは案内人にも引けを取らないし、そこに行動力を足せば、自由度はアーミラリよりも遥かに上だ。いつ何をするか分からない“廃物”と、いつ動けるようになるか分からない怪我人を抱えている以上、わざわざ面倒事を請け負ってくれるのならば、それを利用しない手はない。

 礼を尽くして頭を下げれば、ベルは何故だか居心地悪そうにへらりと笑ってみせた。


「よせやい、照れるじゃろ」

「土下座もしようか?」

「よせやい!」


 そっぽを向いた拍子に、かぁん、と高らかに鐘の音一つ。随分と動揺したらしい。これも慌てることがあるのかと、調子に乗って片膝を突いたアーミラリの頭の緯度尺を、ベルの両手が引っ掴んで留めた。

 やめんか、と冷めた一声。あまり面白くない冗談だったようだ。上に引っ張ってくる力に逆らわず、素直に腰を上げれば、駄目押しと言わんばかりに引っ叩かれる。


「軽々にドゲザなんか発動すんでねぇべ、案内人の名が廃るじゃろが」

存在意義やくめを全う出来るならプライドの一つ二つくらい投げ捨ててあげるよ」

「あー……そうな。お前さんそう言う奴だもんな。いい、良い。分かった。俺が馬鹿だったわ」


 それじゃあ、と手を振り、ベルは悠々と部屋を出て行く。やや逡巡を挟んだ後ニトも続き、最後に物殺しが追従しかけて、扉から二歩の距離ではたと足を止めた。

 振り返る。その瞳は何処か痛ましげな色を湛えて、ソファに横たわったまま動かぬ付き人を見据えた。毛布を掛けられ、浅く静かな呼吸を繰り返す様は、今しばらく彼が起きそうにないことを如実に示す。試しにアーミラリの方を見てみれば、分かっていると言わんばかりに頭を横に振られた。

 付き人は頼れない。その事実だけを認識して、アザレアは振り切るように顔を戻す。

 それきり彼女は顧みず、部屋にはただ、扉の閉じられる音だけが転がり落ちた。



 アーミラリの邸宅から続く山道を歩くこと十数分。舗装が石畳からアスファルトに変わり、車数台が停められる広場が現れたかと思えば、アザレアは瞬く間にロープウェイの前に引っ立てられていた。


「えっこっ、此処までの交通手段ってこれなんですか!?」

「そりゃーねー、山の八合目に汽車は来ないよねー。汽車そっちの駅は麓なのよぉ。ほらほら、乗った乗ったぁ。料金はアーミラリ持ちだから気にしないでいいよぉ」

「は……うわひゃあっ!」


 返事は聞かない。半分放り込む形でゴンドラの中にアザレアを押し込み、ニトも続いて、最後にベルが乗り込む。鐘楼の手がドアを閉めて内鍵を掛ければ、図ったように内蔵のスピーカーから始動のアラームが鳴った。

 見える限り、人の姿などは見受けられない。管理小屋らしいものも無いようだが、一体どうやって動いているものか。

 降って湧いた物殺しの問いには答えず、ロープウェイは大した抵抗や音もなく、滑らかに朝の山間を下ってゆく。緩やかに動くゴンドラの窓、その向こうに目をやったアザレアは、直前までの疑問や懸念もそっちのけで嘆息していた。


「わぁ……!」


 目下に広がるは、芽吹きに一面青く染まった山々。幾筋も刻まれた渓谷が山肌に深く翳を落とし、その上を飛び渡る小鷺こさぎが、黒々とした渓谷にくっきりと白く抜き上がる。往く鳥の舳先へさきが向く方には、なだらかな山麓から続く平地と、そこに築かれた街が霞んだ。

 そして、広がる街の更に奥は――ただ茫洋と、黄金色に煌めく海ばかり。

 はしゃぐ子供のように窓へ貼り付き、半ば呆然とした風に、アザレアは無邪気に広がる景色に食い入る。けれども、その微笑ましき横顔の輝きは、広がる街を改めて見た途端に曇った。


「どしたい、嬢ちゃん」

「……いえ」

「いえ、じゃねぇよコラ。そんな景気悪い顔されちゃあこのベルさん、黙っちゃぁおられん。話してみなよ、俺これでも四桁年生きちゃってる系だからさ? 多分確実に解決法知ってるべ?」


 四桁年、つまりは千年以上生きている。さらりととんでもないことを暴露されたものだし、聞かされたところで見栄としか思えない軽薄さであるが、ベルの声は何処までも力強い。少なくともかなり長生きはしているであろうとは信じられる程度に。

 なればこそアザレアも素直である。窓の外から目を離し、設置された座席の上へ崩折れるように腰を落として、言葉を編む少女の顔は寂しげに笑っていた。


「物殺しの仕事がない時に来たかったなって。そう思っただけです」

「ん……」


 少しだけの沈黙。

 そして、鐘楼より返ってくるのは、


「俺の居た寺では、死者は自在だって教わったことがある。死人にも遺志があって、その遺志のままに何処でも何処までも逝けるんだと。でも、生者の道行はそうじゃない。死んだ後に自在である為に、今は堪えなきゃならないってな」


 過去むかしの教えと、


「俺はそんなこと一度も思ったことない。命は炎で煙だ。自在に燃え伸びていく為にあるのが命だ。そうだろ、誰が来世の為に今生で土に埋められたいと思うもんか」


 現在いまの考えと、


「だからアザレア、お前は自在でありゃいいのさ」


 未来これからへの導き。

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