三十二:図書館
物と言うのは、ある意味究極のポーカーフェイスである。
それもそうであろう、器物の頭のどこに感情を表現するような要素があると言うのか。
――はず、だが。
「上がりだ」
「んみゃー! またまけたぁーもー!」
「止めないか」
灯前街図書館までの約三時間半。暇を持て余したプラムと暇潰しを置き忘れたキーンによるババ抜きは、この度前者が十連敗を喫することとなった。
自分の膝の上に広げていたトランプの束を投げ出し、乳母車の幼女は勢いよく座席に倒れ込む。一方、容赦も大人げもなく幼女を叩きのめした方はと言えば、相変わらずの平淡な声で彼女を叱りながら、随分遠くまで撒き散らされたトランプを拾い集めに席を立った。少ない乗客も彼の動きに気付いたのか、吹き飛んだカードを探すようにその場でそわそわし始める。
すぐ傍にまとまって落ちていた分を回収。所謂アンティークの品なのか、分厚い紙製のそれには劣化が見え隠れし、絵柄も古さを感じさせる。何とはなしに、細やかな蔦と小鳥の模様を指の腹でそっと撫ぜ、表に返してカードの束に混ぜた。
黒い革靴の底で小さく床を軋ませ、目に付いたトランプを車両の端から端まで拾い上げる。乗客も回収を手伝ってくれたらしい、一人の女性の元に集められた束が、そっとキーンの手元に差し出された。
「どうぞ」
「嗚呼、感謝する」
手渡してきたのは、人でなく。ならばそれは、白いワンピースドレスを纏い、日除けのレース傘を傍に立てかけた、レンズの頭の老女。五弁や六弁の花を象った銀枠から下がる鎖と、曇り一つなく磨き上げられた度の強いレンズは、老人の使う
いくらキーンと言えども、己より年恰好が上の、しかも女性の姿をしている物に噛み付くほどの剣呑さはない。素直に受け取り、礼と共に軽く頭を下げた。
そのままカードの束を携えて去っていこうとする包丁の背を、片眼鏡の老女は儚さを帯びた声音で呼び留める。
「お待ちになって」
「何故?」
「お名前を、教えて頂ける?」
線路を走る音に紛れてしまいそうな、細くか弱い老女の声。訝しげにキーンは腕を組み、窓から入る陽光に煌くレンズの頭をじっと見つめる。相対する老女も、負けじと鞘に包まれた包丁の頭を見上げた。
ぴりりとした緊張が少し。先に折れたのは、キーンである。
「ケイ。物殺しの付き人をしている」
「ケイさん、ですね……私は、レザ。椿通りで古物など
「知り合いか何かか?」
「ええ……プラムちゃんのお家は、人の街では一等大きい所ですから」
どうぞ良しなに、と頭を下げるレザ。キーンも組んだ腕をやおら解き、小さく会釈を返す。そこから会話が発展することはなく、キーンは軽くカードの残数を数えて残りを探しに床を蹴り、レザはその背を黙って見送った。
吹き飛んだ残りもじきに回収し終わったのだろう、再び己の前を通りがかった包丁へ、片眼鏡は再び声を掛けた。
「貴方も灯前図書館に行かれるのかしら? ケイさん」
「……そう問うならば、貴方もか。レザ」
答えを口にすることはせず、静かに問い返す。レザは小さく点頭。自身の傍に立てかけた日傘の持ち手をそっと親指の腹で撫でながら、続ける声音は相変わらず儚い。
「私は古物の価値を量れますから……図書館の司書様に、よく古本の鑑別を依頼されますの。今日もその予定です……そうだわケイさん、貴方はどんな用で図書館へ?」
「――言う気はない」
初対面からさして時間の経っていない物に、己の苦悩をぺらぺらと喋れるほど疲れ果てているわけではない。況して、彼の苦悩はあくまでも仮定の中の話。杞憂に終わることも十分考えられるような、掴み所のないところにその中心があるのだ。事情を知らなければ分からないものは、尚更話す気になどなれなかった。
ポケットの中に入れたトランプ、その束を指で撫で付けながらの、にべもないキーンの返答。レザは少しく困ったように視線を床へ落とすと、木目をじっと見つめたまま、ふと気付いたように語尾を上げた。
「貴方、物殺しの付き人とお聞きしましたけれど……その方はどちらにいらっしゃるのでしょう? お姿が見えませんわ」
回答には沈黙。少しだけかぶりを振り、傍にはいないと暗に示す。
その態度に、レザは何を透かし見たものか。片眼鏡のレンズを陽に煌かせ、肩口に零れた銀の鎖をついと軽く背に払いながら、納得の響きを交えた声を上げた。
「貴方は……本と言うよりは、司書様……魔法使い様に御用があるのですね」
「図書館自体にも目的を持ってきたつもりだが」
「ふふ……分かっておりますわ。司書様だけに御用のある方なんていませんもの」
ころころと鈴鳴るような声で、しかしよくよく耳を澄ませなければ分からないほどの微かさで、レザは淑やかに笑う。キーンもひとの事は言えないが、感情のあまり振れない老女だ。
もう用はないか、と。振り払うように語調を強めて問えば、レザはそれに気圧されることなく点頭一つ。また後で、と笑ってひらひらと手を振ってくる。流石に老いた物の姿を取るだけあって、心理的な駆け引きに於いては彼女の方が上手のようだ。隠した心根の奥を見透かされた気がして、キーンは居心地悪そうに肩を竦める。
ふぅ、と肺腑の奥から込み上げる溜息を隠し隠し、付き人は小さく会釈すると、今度こそレザの前から歩き去った。
――灯前街図書館前、灯前街図書館前。終点です。お忘れ物の無きよう充分ご注意願います。
――当列車は切り離し作業の為二時間ほど当駅に停車致します。
――切り離し後の発着予定について御案内致します。一号車から四号車まで、
――ご乗車のお客様は、お乗り間違えの無きようご注意願います。
――続いて、灯前街図書館前バス停の高速バス発着状況についてご案内致します。……
物の街や月の原駅に比べると、随分賑やかな駅であった。
路線の数も多ければ乗降客の数も多い。籐の籠を抱えて歩くプラムと、その歩幅に合わせてゆっくりと歩くキーン、そして付き人の横に並んで歩くレザの横を、様々な人や物が追い抜かしていく。時たますれ違うものたちがキーンを不思議そうに見遣っては、苛立たしげな一睨みで恐れをなしたように逃げ去った。
ひとの顔をじろじろ見るものではないだろう、と喉の奥でぼやくキーン。その何もかも蹴り殺しそうな刺々しい横面に、レザのなだめるような声が掛けられる。
「ケイさん、御気持ちは分かりますけれど……そう肩を怒らせて睨むものではありませんわ。此処はあまり、一見の方が来るような場所ではありませんし……“
「分かっている。だが、これ以外の接し方を俺は知らないんだ。知っていたなら此処に来てなどいない」
言葉尻を掠れさせながら、力なく肩を落とす彼に、レザは何を思うものか。片眼鏡の銀縁に軽く手を当て、昼下がりの陽光に分厚いレンズを光らせたかと思うと、ふと思い立ったように白い日傘の己の頭上に差し掛ける。その様を見下ろしていたキーンはと言えば、幾度か逡巡する素振りを見せた後に、レザへ向かって手を差し出した。
きょとん、とした風に首を傾げる老女に、その視線は合わせない。
「こう言うことはあまり得意ではないんだが。その、俺が手ぶらと言うのも、何だ。荷物を持とう。プラムも、瓶詰入りの籠を振り回すんじゃない。取り落とす前に貸せ」
「あら……」
「ケイさんいいのー?」
「構わん。いいから、早くしろ」
必死で平静さを繕ってはいるようだが、どう見ても気恥ずかしさを隠せていない。しきりに鞘を手で撫でつけ、恥ずかしいから早く、と雰囲気で急かしてくる様に、レザはからからと肩を揺らして笑う。その声にますます居た堪れなくなったか、手で頭を押さえながら明後日の方を向く付き人へ、日傘を開いたまま差し出した。
横から大人二人の様子を見ていたプラムも、じゃあ、と言わんばかりに籐の籠をキーンに押し付ける。押し付けられた方はと言えば、まだ慣れない行為に対する羞恥が抜けないのか、幼女と視線を合わせようとしないまま。少しばかり唖然としながら、プラムは差し出された手に籠の持ち手を引っ掛け、華奢な指で武骨な指を一本ずつ曲げさせていく。
「何をしている」
「だって、ぼーっとしてたら落っことしちゃうよ? はい、おしまい!」
五本とも指を曲げさせて籠を握らせ、ぴたりぴたりと仕上げのように手首の辺りを数回叩いては、可愛らしく首を傾げて。身軽になった乳母車の幼女は、ワンピースの裾を翻しながら我先と駆け出していく。その後をレザも追おうと足を半歩踏み出して、ふと気付いたようにキーンを振り返った。
皆まで言うなと付き人はかぶりを振り、大股に歩み寄って彼女の頭上にレースの日傘を差しかける。
「プラムは何度も此処へ?」
「えぇ、少なくとも貴方よりは」
「ならば良い」
道行く人に紛れ、瞬く間に小さくなってゆく背を見ながら、付き人の歩みは遅く。レザの歩調に合わせているのだと気付くのは、さほど難しいことでもない。
片眼鏡の老女はまたかそけく笑い、のんびりと道を行く。
「おそーい! わぁしずーっと待ってたんだからねーっ」
「あら……御免なさい。私あまり走れないものだから……」
「うゅ、ばーやが言うならしょーがないなー」
駅から歩いておよそ五分。急な坂を幾度か下り、細く入り組んだ路地と大通りを数回行ったり来たりして辿り着く、黒縄に下がったランプが家々の間を渡る不可思議な裏通り。煉瓦造りの古式な建物が立ち並ぶ石畳の通りの突き当たりに、目的の図書館はひっそりと佇んでいる。
尖った赤い屋根を戴く、真っ白な漆喰を塗りこめた八角の塔。六つある塔には、いずれも金色の
図書館と言うよりは聖堂と言った方が正しいようにも思える作り。眩しいほどの白さを見上げながら、キーンはやおら差しかけていた傘を畳んでは、待ちくたびれていたプラムの相手をするレザへと持ち手を差し出す。
「どうもありがとう。助かったわ」
「……これも付き人の役目だろう」
「ふふ……そうかもしれないわね」
柔らかく笑いかける老女と、視線は合わせず。右手に抱えていた籠を左手に持ち直し、空いた右手にプラムの手を繋がせて、キーンは一際高い塔に向かって歩き出す。彼等の他に人や物はおらず、白い石を敷きつめた石畳には、ただ三人の足音だけがこだまして響いた。
何から何まで、物の街とは違う気配。敵意はないが、剣呑な刃物としての性の中では、どうしても警戒せざるを得ない。じゃじゃ馬の乳母車と繋がれた手の力を僅かばかり強め、塔に設けられた両開きの扉の片側に手を掛けて、キーンは出入り口を大きく開け放つ。そこからまず先に女性二人を入れ、レザの纏う服の裾が完全に屋内へ入ったことを確かめて、自身もまた身を滑らせるように館内へ足を踏み入れた。
同時。
「いらっしゃい。待ってたよ」
のんびりとした若者の声が、妙に大きく頭上から降ってきたかと思うと。
「ぅわ……っ!」
何処からか飛び立った白い蝶が、吹き抜けの塔を一杯に埋め尽くし。
「上までおいで、付き人さん」
若者の声と共に、蛍の如く散華する。
「魔法使いの訓示がいるんだろ?」
太陽に照る淡雪の如く、きらきらと煌めきながら散りゆく光。
その向こう側で、“魔法使い”は悠然と三者を見下ろしていた。
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