三十一:乳母車

 ――ぼんやりと遠くを見つめて、彼は静々と笑っていた。心電計が今にも止まりそうな鼓動を記録する音と、肺の奥に無理やり空気を送り込む音だけが、真っ白な病室に響いては鈍色に転がり落ちた。

 ――彼に辿り着くまでに、彼女はあまりにも遠回りをしてしまった。ばら撒かれた無数の証拠がその道を乱したから、仕方のない話だったのかもしれない。けれども、結局彼は復讐を完遂し、今際になってその罪を彼女にぶちまけた。それはつまり、彼女の完膚なきまでの失敗を意味した。

 ――彼はただ笑っていた。


「ケイ!」

「!」


 鋭い声音がキーンの集中の糸を断つ。弾かれたように包丁の頭を上げれば、慌てたように距離を取るファーマシーが正面に見え、そこでようやく自分が頭の鞘を外して読み耽っていたことを思い出した。

 のろのろと本に栞を挟んで閉じ、傍のテーブルに放り出していた鞘で、研がれたばかりのぎらつきを保った刃を覆う。無遠慮に触れられているような居心地の悪さと、鼻を塞がれたような息苦しさは未だに慣れないが、刃を剥き出している以上は仕方のないことだと諦めた。

 細く潜めた息を吐き、キーンは椅子に座ったまま小さく頭を下げる。初めて此処に来た頃と比べて、随分殊勝な態度を取れるようになっていた。


「すまなかった、没頭しすぎた」

「あぁ、私は大丈夫だ。むしろお前が大丈夫なのかね? アザレアの付き人と聞いているが、この数日は本を読んでいる姿しか見ていないぞ」


 こぽぽ、と小さく気泡で液面を揺らしながら、ファーマシーは心配そうに遮光瓶の頭を傾げて問いかける。

 物は存在意義以外の行動を多く取るものではない。勿論人らしさを保つという観点で多少の娯楽を嗜むことはあるが、それとて存在意義を満たす行為以上に没頭することは少ない――もし耽りすぎるならば、それは物として狂いかけていると言っていい――ものだ。なればこそ、アザレアの教導という重大な意義を放り出し、読書に耽っている姿は、ファーマシーにとって不思議で不気味なものに映る。

 一方のキーンは、そんな水薬の心配をどう受け取ったものか。閉じた本の表紙、その黒い背景に白く抜かれた『告白』の二文字へじっと視線を落とし、掠れがちな声でゆっくりと言葉を編んだ。


「もし俺が、還れなかったならと。少しだけ、考えたことがある」

「物殺しを完遂した後のことかね」

「嗚呼。アザレアなら俺も還すだろう。だがもしも、万が一、俺がこの世界に残された時……俺は一体どんな物になるのかと思ってな」


 感情の読めない平坦な声音。しかしファーマシーは、編まれた言葉それ自体に滲む不安を読み取っていた。

 キーンの存在意義たましいは、アザレアという唯一人の個人に帰属されたもの。しかし、彼が持たされた人の身は、あくまでもこの世界に従属している。この世界の法則や了解に従うのだ。なれば、物が物として、少なくともアザレアが本来生きる世界に行くことは――そんな前例はキーンもファーマシーも聞いたことがないものの――恐らく許されないだろう。案内人アーミラリが止めるはずだ。

 だとすれば、仮に物殺しが付き人の死を望まず帰ったならば、アザレア無き世界に取り残された付き人は、最早永遠に救われない。魂の寄る辺を喪っているのだから、本懐など遂げるべくもない。

 そして、帰属する場を失った物は、ほぼ不可逆に正気を失い“粗悪品”と化す。精神の均衡が崩れた物は最早他者の手によって還すしかないが、スペクトラを刹那の内に下し、フリッカーすら圧倒するであろうと目される彼を、一体全体誰が還してやれると言うのか。戦闘の面に於いて彼を凌駕する物は数人おれど、それと邂逅できる確率は限りなく低いし、それが還す前にどれほどの死傷者が出てもおかしくはない。

 結局のところ、この街の内に、彼の才を上回る物は――否、それと比肩する物も、人さえも――皆無であった。

 ……となれば。

 ファーマシーは時間をかけて不安の種を明かし、寡黙な付き人の行動に、やがては一つの意図を見る。


「成程。新しい存在意義を探したいんだな? いつか生かされたまま別れが来たとしても、自分を保てるようにしておきたいと」


 キーンはそれに黙って頷く。その後もやや俯きがちに黙りこむ様子には、真剣な苦悩と思案の色が滲んでいた。

 ごぼりと大きな気泡で液面を騒がし、ファーマシーは少しく瓶の底の縁に手を当てて考え込むと、ふと思い出したように地名を挙げた。


灯前街ひのまえまち図書館」

「!」


 はっとして頭を上げるキーン。無意識の内に、無骨な手が文庫本の表紙を撫ぜる。ゆっくりとファーマシーも頷いて、零した言葉の続きを編んだ。


「分かっているな。十分後に一便来る、切符代は私が持とう。……貸しだぞ、ケイ」

「すまない、感謝する」

「構わんさ。来るかもしれない未来への投資だと思えば安い」


 ふっと笑い、医師は白衣のポケットから黒革の財布を出して付き人に投げる。なだらかな放物線を描いて飛んできたそれを片手で受け取り、キーンは少しだけ記憶を掘り起こすように明後日の方を向いていたかと思うと、財布から紙幣を三枚抜き出して持ち主に投げ返した。

 綺麗に手元へ戻ってきた財布を再びポケットにしまい、荒れの目立つ手を振ってキーンの大きな背を送る。付き人も、少々迷った後躊躇いがちに片手を軽く挙げて、足音一つ立てずに病室を辞した。

 姿が見えなくなれば、気配の薄い彼の正確な所在を掴むことは難しくなる。戦闘と無縁の町医者たるファーマシーなら、尚のことキーンの気配を読むことは出来ない。故にこそ、医師はこれからの道行きの安寧を、ただ祈るだけに留めた。


 そんな彼のに声が届いたのは、それから数時間後。

 薬品と機材の点検を終え、誰もいない病室の巡回をそれでも済ませて、何とはなしに個室ホスピスを見回りに来た時であった。


 “ファーマシー? おい。……おい! 頼む、応えておくれ。フェリックス!”

 “くそっ……! もういい、勝手に言うよ。フェリックス、今すぐ月の原に来てくれ。オンケルが撃たれた。心臓と肺にそれぞれ二発ずつ、三十八口径だ。肺の二発は何とかくじり出したが、心臓の二発は深く食い込んで私では取れない”

 “オンケルではこの傷はとても耐えられない。このままでは死んでしまう。……聞こえたなら、頼む。急いでくれ”


 ノイズの掛かった懇願は、聞き間違えようもなく友人のもの。黒電話テリーの持つ“案内人特権”によって遠隔から飛んできたものである。普段であれば他愛もない世間話、聞くだけ聞いて無視してしまうことの多いそれだが、今回ばかりは聞き流してしまえない懇願の様相を呈していた。

 故に、返す。ゆっくりと、かつてを思い出しながら。


「もうやっているだろうが、傷口を押さえて止血を。それから、「大丈夫だ」と声を掛けてやってくれないか。それだけでも保つ。あるなら布を掛けるか何かして保温に努めてくれ、身体を冷やすのはあまり良くない」


 “!……分かった。他に私がやることはあるかい”


「徒手空拳で出来るのはそのくらいだろうな。後は私がやる。今はとにかく傍に」


 そこで、ファーマシーは“通話”を切る。抗議の声が聞こえた気がしたものの、それ以上何も言うことはない。テリーはよく状況を伝えてくれた。彼はそこから弾き出した手段で以って事態を解決するのみだ。

 一つ、自分を納得させるように首肯。白衣の裾を翻し、医師は足早に病室を出る。

 人っ子一人居なくなった部屋の窓際、活けられたノコギリソウの赤い花が、開けっ放しの窓からそよぐ風に震えた。



 片や。

 時は、数刻前に遡る。


「触るな。止めろ」

「えー、なんでー?」

「手を怪我するだろう」

「どーしてー? さやついてるからへーきだよ!」

「……それは、その、そうなんだが……」


 灯前図書館へ向かう汽車に一人乗り込んだキーンは、途中で相席した幼女の物にじゃれつかれ、すっかり困り果てていた。

 年の頃は九歳前後か。淡い桃色を基調としたワンピースを纏い、ヒールのないココアブラウンのブーツを汽車の板張りの床でぱたぱた言わせている。本来彼女が座っていたところには籐で編まれた籠と華奢な鞄が放り出され、中のジャム瓶が仄かに果物の甘い香りを漂わせていた。

 その頭は――新品の乳母車。樫で組まれた木枠に籐の籠、日除けのほろはレース編み。持ち手には幌と同じ布のリボンを結び、瀟洒な掘り込みの成された車輪には傷一つない。流石に本物の赤子を入れるわけはないものの、代わりに手作りと思しき素朴な造形の人形が寝かされ、布が被せられている。

 乳母車が命を得るとは中々珍しいが、アーミラリの膨大な記憶の中に無かったわけではない。しかし、人の身を得るに、この乳母車は類を見ないほど新しかった。誰かが“起こす”にしても、これほど新しい物では足す経験が膨大すぎる。“起こした”側の身が保つまい。

 しかし確かに、彼女は人の身を得て正気を保っている。何とも不可思議な現象が、キーンの目の前で確かに起こっていた。

 ぴたぴたと無遠慮に頭へ触れてくる手に耐えながら、悶々と考え込むキーン。そんな様子を見てふと気付いたのか、乳母車の幼女はぱっと目の前の男から離れてその対面に立つと、やおらぴょこんとその場でお辞儀をした。


「わぁし、プラム! えとね、ふるいつばきどーりのおっきな家からきました!」

「プラムか。しかし……古い椿通つばきどおり? 旧椿通きゅうつばきどおりのことか?」

「うん!」


 物である故に表情はないが、構ってもらえて嬉しそうだったり楽しそうだったりする様子は伝わってくる。無邪気な幼女だった。

 キーンは疲れを隠しながら溜息を一つ。古い座席の背もたれに身を預け、ぽんぽん、と己の隣の席を軽く叩く。危ないから座れ、と合図したつもりだったが、プラムにその意図は伝わらなかったようだ。きょとんとして首を傾げて突っ立つばかり。仕方なしにとにかく座れと声に出せば、やっと合点がいったように頷いて、ぽふんと体を投げ出すように席へ着いた。

 いそいそと膝の上に籐の籠を置き、るんるんと足をばたつかせるプラム。可愛らしいが、キーンにとっては胃痛の種でしかない。何しろ子供の扱いと言うのは全く分からないし、そのくせ難しいというアーミラリの経験則と感情だけは渡された。触れてしまえば怖いものではないのだろうが、その触れる行為が億劫なのだ。その上己は、目の前の幼女など片手で捻り潰せるであろう巨漢である。どうしても距離を取りたくなるのは致し方ないだろう。

 揺れる車内に静寂が少し。早速大人しくしていることに飽きたのか、プラムはキーンの服の袖をしきりと引っ張ってくる。何だ、と辟易しながら返せば、彼女は臆することなく首をひょいと傾げた。


「おにーさんはー?」

「ん?」

「おなまえ」


 嗚呼、と合点がいったように一声。ケイだ、といつも通り偽名をぶっきらぼうに投げつける。ふーん、とプラムも気のない返事をして、しかし袖を引っ張る手は離そうとしない。何がそんなに気になるのか、気にはなれど聞き返すのも大儀なもので、キーンはひたすら押し黙る。

 ――やがて、今はもう無き鉱山の前を過ぎて、汽車は名臥なぶせ駅に停まる。切り離しのために長居を始め、今とばかりに人や物がぞろぞろと出入りを始めるようになって、掴まれたままの袖がくいくいと軽く引かれた。


「ケイさんもとしょかんにいくのー?」

「ん? そのつもりだが……ええと、プラム。お前も?」


 大抵のものは図書館よりも前の街に用事を秘めているものだろう、と。付き人は託された案内人の記憶で語る。そうだね、と幼女も一旦男の言葉を肯定し、スーツの袖を引く手を放すと、膝の上に載せた籐の籠を両手で軽く叩いた。


「わぁしね、きょうはおつかい。ししょさんにこれをとどけに行くのです」

「お前一人でか」

「うにゅ。きょうはお家のひとたちみんないそがしいから、わぁしがいくの」

「そうか。――あー、偉いな。一人で」


 一言で済ませようとしかけて、思い直し。慣れない褒め言葉を紡いでみる。キーン自身が取り立てて子供好きということではなく、ぶっきらぼうが過ぎて泣かれたりしたら却って大変だろうという、夢も希望も素っ気もない打算の故だ。その罪悪感のせいと言うことではなかろうが、何ともむず痒い心地だった。

 他方、プラムは素直に褒められたことが嬉しいものか。そうでしょー、と無邪気に笑い、もっと褒めてと言わんばかりにきらきらした視線をキーンへ投げつけてくる。無垢さが余計にむず痒く、付き人は思わず頭を両手で覆った。


「俺のことは放っておいてくれ……」

「どしたの?」

「あまり誰かと長々話すのは好まない性質たちなんだ」

「……ケイさん、としょかんのひと、とってもおしゃべりだよ? だいじょうぶ?」


 何か、見抜いたようだった。秘めた事情の詳細は知らぬまでも、子供なりの感性と無邪気さで以って。

 心配そうに仰ぎ見る乳母車の幼女。寡黙な男はただ、小さくかぶりを振っては、全く以ってそうとは思えぬ声音で返す。


「大丈夫だ」


 絞り出すような返答に、しばらくプラムは考え込んだ。幼い頭を一生懸命ひねり回し、浅い記憶をほじくって、貯めに貯めた少ない語彙からそれらしい体裁の文章を繋げていく。

 それが形になったのは、切り離し作業と再連結作業が終わり、再び目的地へ向かうべく汽車が動き始めた頃。時間にして十五分の、彼女にしては大変な長考だった。


「もしね、ししょさんがおしゃべりしすぎたら、わぁしだめーって言うからね」

「――――」

「わぁしにまかせて!」

「嗚呼……」


 ――何故、己よりも遥かに年下の物から、こんな気遣いを受けているのだろうか。


 るんるんと張り切るプラムとは裏腹に、キーンは塩を振った青菜の如く項垂れたのだった。

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