十九:月夜

 午後九時四十八分。

 物の街に停まる最終の汽車を降り、三日月型のミシン目が刻まれた回数券をキップに見せた。


「月の原駅……ゾンネ墓地に行ったのかね?」

「はい、アルバイトで。書類整理でした」

「ほぉ。事務仕事とはいえ、墓守の真似事をする物殺しは初めてだの。物殺しが大抵副業を抱えとることは知っておるが」

「花屋さんとか?」

「んや、花屋はまたちょいと事情が違うでな。いや、花屋も物殺しであるのは変わらんのじゃが、えぇ――まあ、必要があれば追々知るだろうて。儂が知っとるのは人の街の宿屋で働いとったよ。確か……“日の出”とか言っとったか。看板が面白いで、行けばすぐ分かる」


 へぇ、とアザレアはやや気のない返事。キップの取っ散らかった石炭くさい声を聞きながら、彼女は様々に思考を巡らせていた。やるべきこと、やりたいこと、知るべきこと、知りたいこと。手元に散らかったタスクを引き寄せ、頭の中で一つ一つ分類し、優先順位をつけて整理していく。それは昼間に散々やった書類仕事にも似て、慣れた彼女には造作もないことだ。

 キップが不審がる前に脳内を整理し、心の中で区切りを付けるように一つ柏手を打つと、彼女ははきはきと宣言した。


「ありがとうキップさん。色々と整理が付いたら、人の街にも行ってみます」

「おぉ、それがええ。無茶すんでないぞ」

「大丈夫です。無茶と無理の区別はちゃんと、ずっと前から付けてるつもり」


 清々しいほど朗らかな笑みに、キップは取り繕われた嘘を見る。

 大抵、笑いながら大丈夫という人ほど大丈夫ではない。夜の物殺しに浮かぶ笑みなぞはとりわけ信用できないし、彼女は立場以前の問題である。大丈夫と言いながら無理を重ね、平気だと言いながら身を削ることに慣れきってしまっているのだ。

 しかし老成したこの物は、そこに茶々を入れることはしなかった。やおら引き出しを開け、取り出したパイプに火を入れるだけだ。

 長くくゆらせ、一息。煙突からやや量の多い煙を吐き出して、キップは遠いところに意識を向ける。


「これから行くのは仕立て屋かの」

「はい」

「そうか。……なら、狙うのは首ではなく心の臓じゃて」


 節くれ立った親指で二度、自分の心臓の真上を突き。重々しく忠を告げる老翁に、物殺しは黙って首肯した。誰とは言わぬまでも、それのはちっぽけなナイフで切り離せるものではない。ならば、狙うのは首から続くその。キップから再確認を受けなくても、十分に弁えている。

 大丈夫、分かってる。吐息のような声を叩き付け、アザレアはそれ以上の言葉を待たず地を蹴った。長く艶やかな髪を吹き抜ける風に翻し、歩き去っていくその後ろ姿を、彼はただ見送るばかり。

 幸運を祈る。老爺の切々とした呟きは、果たして聞こえたものか。答えは互いの胸のうちに秘めたまま、夜は流水の如く流れゆく。



 『TAYLOR SISS & PINS』の看板の下、『準備中』の掛札が下がる扉は、しかし鍵が掛かっていない。

 ノブを回して押し開けると、小さくドアベルの音が響いた。その音を聞き流し、アザレアは右腰に下げたナイフホルダーにきちんと得物が収まっていることを確認してから、そっと店内へ足を踏み入れる。古い木の床の軋みが静寂の中で大きい。意を決して少し歩を進め、店の奥の作業台へ視線を移した。

 瞬間、不安に揺れていた鳶色の双眸が、ひたりと静止。詰めていた息も、強張っていた全身も、平素に限りなく近いほど――しかし適当な緊張を残したまま――緩む。

 視線の先には、力なく項垂れて作業台に寄りかかるシズの姿があった。暗きの中で曖昧であるが、ひどく疲れ果てていることだけは少女の目にも分かる。その深い疲憊ひはいの理由は、左手に固く握り締めたアルミの裁ち鋏とその刃先を濡らす液体、そして利き手に巻かれた血の滲む包帯で、それとなくでも察せられた。

 一歩。二歩。まだ得物には触れず、歩み寄る。

 シズが僅かに頭を上げた。泣きはらした後のような掠れ声が上がる。


「……アザレアちゃん」

「約束通り、来ました」


 返す声色は透徹として冷たく。まるで雰囲気の違う少女に、シズはややたじろいだようだ。ありがとうね、と動揺を隠せぬ声で呟いたきり、また俯いてしまう。アザレアは更に半歩距離を詰め、足を肩幅に開いて立った。右手が革の鞘に掛かる。

 空気は軽い緊張を保ったまま。それ以上張り詰めも緩みもせず、両者の間に横たわる。物殺しの言葉がそれを切ってしまうこともなかった。


「鋏を、置いてくれませんか」

「…………」


 苦しそうに、裁断士は握り締めていた鋏を背後の作業台に置いた。

 シズには辛い提案だったろう。しかし、これで万一のことがあっても、致命的な反撃を食らう心配は減った。今更彼が生に執着するあまり暴れまわったり、物殺しに対して激情のまま危害を加えてくるとは思えないが、念を入れるに越したことはない。

 大きく一歩。両者の位置はこれで、真っ直ぐ手を伸ばせば肩に届くほど近づいた。此処まで来ればアザレアの間合いである。それを二人とも感じているのだろう、緊張の糸が僅かに引っ張られ、静寂に微細な棘が混じった。立っているだけで逃げ出したくなるほどには居た堪れない空気である。

 されどアザレアの表情が揺らぐことはない。手が鞘からナイフを引き抜く。その刃の艶消しはされておらず、外に照る僅かな月明かりに鋭く煌めいた。曇りなき輝きは嫌でも恐怖を煽るようで、物が身震いする。

 しかし次に放たれた物殺しの言葉は、その震顫を一息に止めた。


「殺されて下さい」


 己は覚悟を決めている。

 続かぬはずの言葉を、しかしシズは聞いた気がして、はっとかそけく息を呑む。

 彼女は己と取り交わした約束を既に履行しているのだ。ならば応えるのが彼の――一城仕立て屋を預かる城主裁断士の――礼儀であり、不履行はシズが秘めた存在定義に対する、最大とは言わぬまでも大きな裏切りであった。

 震える手をぐっと強く握り締め、開く。そして、ずっと丸めていた背を颯爽と伸ばし、迎え入れるように諸手を広げた。

 声には最早、疲憊も恐怖もなく。いつもと同じ、危機感のない穏やかさが滲む。


「預けるよ。きみに、ぼくを」

「はい。任されます」


 刃の狙う先は一点。器物と人の境界にして、物が持つ唯一絶対の急所のみ。

 余計な場所を狙う必要はない。シズは“粗悪品”ではないのだから。沼の如き恐怖に沈み込み、狂気と狂乱を精神の許容以上に詰め込まれても、尚。彼が持つ堅固な知性と理性の牙城は、崩れずに物殺しを迎え入れてくれる。ならば、足止めで与える苦痛など無駄なだけだ。

 慎重に見定め、アザレアはほんの寸秒、シズを見上げた。

 彼もまた彼女を見ていた。

 笑い合う。暗闇に紛れるほど小さく、けれど雑味なく。死に際に笑うことを不謹慎などとは思わなかった。これから死に逝く物が望んだことを返しただけなのだから。


「またね」

「確かに」


 音が意味を綴り、お互いが理解を示すと、同時。

 アザレアは大きく一歩踏み込んで、耽々と狙っていた場所へとナイフを突き出した。鋭い切っ先は寸分の狂いもなく心の臓へ吸い込まれ、鈍い音を立てて男の薄い胸板を突き破る。しかし、真に切り離すべき場所はもっと奥にあるようで、シズが苦鳴を零した。

 押し殺された悲鳴に、思わず悪寒。ぐっと奥歯を噛み、アザレアは左手を柄の頭に添えて、力の限りナイフを押し込んだ。“粗悪品”を還した時のあの感覚が、分厚い手袋越しにすら生々しく感じられる。嫌な汗が額に滲んだが、それでも手を引くわけにはいかない。

 左手を一瞬柄頭から離し、勢いよく叩き付けた。その衝撃がどうやら決定打になったらしい、ガラス板の割れる音に似た、小さくも高く重い音が物殺しの耳に届く。これも既に聞き覚えのあるものだ。

 ただ一つ――違うところが、あるとするならば。

 人の身と物の頭を切り離されて命を喪ったはずのシズが、それでも動いたことか。


「ぇ……」


 亡羊ぼうようとした手付きで虚空を数度掻き、探るようにアザレアの肩に触れて、胸の内に引き寄せる。驚き、訝る物殺しをよそに、それは少女の華奢な肩をほんの一秒ほど弱弱しく抱き寄せていたかと思うと、要の糸を切られた操り人形の如く、一気に力を失った。

 くしゃり。そんな擬音が聞こえそうな有様で、床に崩折れる裁ち鋏。後を追うように座り込み、アザレアは倒れこんだ物の右肩を掴む。まだ体温の残る人の身が動くことは、最早ない。

 理性ある物でさえ、その死はひどく呆気ないものだった。


「シズさん」


 二度と帰らぬ物の名を、それでも彼女が呼んだのは。


「……シズさん」


 怖気立つほどの命の軽さが、その背に重く圧し掛かるから。

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