十八:懐中時計

 ――間も無く月の原駅でございます。お忘れ物無きよう十分御注意下さい。

 ――当列車は快速列車待ちにつき十分ほど停車致します。ご了承下さい。


 ごとりと一度大きく揺れ、ぴたりと示し合わせたような正確さで汽車が駅に停まる。誰もがアナウンスを聞き流して思い思いに時間を潰す中、古い回数券をポケットに秘めて座っていたアザレアは、一人月の原駅へ降りるべく座席を立った。共に乗り合わせた数人の物の内、一人が不思議そうに彼女を見るも、それには気付かない。

 車内アナウンス通り、予定時刻まで滞在するのだろう。扉を開け放したままその場に居座る汽車を背にホームへ立つ。

 老朽化の進んだ駅舎は閑散とし、降客は自分以外一人もいない。それでも電子マネーに対応出来る自動改札機が置いてある分、本物の無人駅よりはましだろう。尤も、彼女が雇用契約書と共に墓守から預かったのは、手動で切らなければならない旧式の切符――驚くべきことにぶ厚い和紙で出来ているのである――であったから、彼女の足は結局駅長室の方へ向くのだが。

 果たして駅長室で待っていたのは、改札鋏かいさつきょうを手にした制服姿の男。五十代前半ほどか、ひょろりとした体躯の首から上は、使い込まれた懐中時計に成り代わっている。竜頭りゅうずの上にひょいと鉄道員の制帽を乗せた彼は、差し出された古い回数券をじっくりと検め、アザレアの顔を同じだけ眺め回したかと思うと、納得したように頷いて鋏を入れた。端の方に三日月型のミシン目が入ったそれを少女の手に返し、男はやおら身振りを始める。

 アザレアを指差し、戻して、両手の人差し指で十字架を作る。それもすぐに戻し、右手の人差し指を真っ直ぐ横に動かして、最後に小さく首を傾げた。彼独特の手話のようだ。


『あなたは 墓地へ 行くのか ?』


 多少読みにくい意図を何とか汲み取って、アザレアは首を縦に振る。そして右手で耳を指し、小刻みに秒を刻む文字盤をまっすぐに見て小さく頭を傾けた。声は聞こえるかと問うたのだ。

 男はアザレアの身振りに黙って点頭し、口と意識する所に広げた手をかざして数度開閉、首を横に振る。話せないだけだと伝えたいらしい。自分も身振り手振りで会話しなくてはならないのか、と内心身構えていたアザレアは、思わず漏れた安堵の溜息を丁寧に隠した。


「それじゃ、私は話します。ゾンネ墓地が此処から最寄りと聞いているので此処で降りたんですけど、合ってますか?」

『合っている 何故 墓地へ 行くのか ?』

「アルバイトです。受入所で、書類整理の」

『行き方は 分かるか ?』


 問われて、鳶色の視線は駅の外へ。茫漠とした荒野の最中、草木も生えぬ砂利と岩の狭間に、黒い胡麻粒ごまつぶのようなものが一つ見えた。

 劇的に視力が良いわけでもない彼女にはその程度しか見えない。しかし、それでもこんな荒野の中にある黒い何かと言えば、それはかの白黒の牧師館以外にないだろう。懐中時計の問いにアザレアは首肯する。


「此処から墓地は見えてますから、その方に向かって歩けば何とか。もし分からなかったら、駅の鐘を五回鳴らせば迎えの人が来ると言っていました」

『あれは ただの 幻だ 進んでも あの場所には 何もない それに 恐らく 迎えは かなり 遅くなる あなたが 良ければ わたしが 送ろう』

「ぇ、え? あ、あの、確かに有難いんですけど……駅員さんが駅舎を勝手に離れるのは良くないんじゃないですか?」

『構わない 此処に 鉄道で 来る人は 少ない』


 少しだけ肩を落とす様に、アザレアは彼が手振りで伝えた以外の感情を読む。

 要するに、この五十路いそじの鉄道員は、久方ぶりに訪れた降客へお節介を焼きたいのだ。寂れた場所で人を待つ侘しさは彼女も理解していたし、知っていて無下に出来るほど薄情者でもない。この世界の機微をよく知るであろう彼の経験がよしと言うならば、無理に抗弁することもないだろう。脳内決議が満場一致の是を告げる。

 故にアザレアは黙って頷き、それではと頭を下げた。途端、沈んでいた雰囲気があからさまに上向き、思わず笑声が溢れかける。

 では待っていてほしい、と手振り。頷く彼女へ丁寧に頭を下げ、男は背後の棚をごそごそと漁ったかと思うと、一枚の名刺と金属のホイッスルを手に駅舎から出てきた。動きを目で追うアザレアへは両手で名刺を差し出し、流れるようにホームの傍へと彼は立つ。出発の合図を待つのだろう。その間に名刺へと視線を落とした。

 着ている制服のものに似た夜色の地に、金の星と銀の三日月、黒いシルエットの駅舎と汽車。裏は同じ色の地に駅章とおぼしき三日月と蔦のマーク。公的なものとして提示出来るかはともかく、中々洒落た名刺である。生真面目そうな風体や態度とは裏腹の茶目っ気に少し笑いながら、流麗な手書きの字で書かれた名を見た。


 ――“月の原駅 駅長 オンケル”


 名と肩書きを確認したところで、ホームの方から柔らかく高いホイッスルの音が響く。思わず顔を上げると同時、ゆっくりと汽車は人の街へと向かって走り出した。

 時刻は午前十一時五十六分。雲一つない良い晴天の下を、遅延なく汽車は発つ。



 昼下がりの人気のない荒野をゆっくりと歩いて十五分。二人を出迎えたのは、杖を突き歩くクロイツだった。


「オンケル!? おい、駅はどうした!」

『駅舎に 任せた』

「そんな問題じゃないだろう、昼時の駅に駅員がいないでどうする!」


 扉を開けた守長から、開口一番ぶつけられたのは説教だった。

 無理もないだろう。たった一人の駅員が仕事を放り出しているのだ。傍の物殺しは知る由もないが、今の月の原駅には人の街から来た汽車が停車しているはずなのである。いくら時間になれば駅舎が勝手にホイッスルを鳴らして合図するとは言え、それは職務放棄をしていい理由にはならない。

 来るなり凄まじい剣幕で――器物の頭に表情も何もないが――怒り始めたクロイツと、どうどうとばかり諫めようとするオンケル。二人の怒声と手話の応酬を遠巻きに見守りながら、アザレアは今更ながら激しく後悔した。その情動のままに、彼の反応を面白がった自分が悪いのだと、生ける物達の間に入って切々と告げる物殺し。しかしオンケルはそんな少女をそっと制する。

 その手でゆっくりと指す先は、先程まで二人が歩いてきた道のりの更に向こう。ぼんやりと蜃気楼に霞む駅舎を正確に指先へ捉え、彼はそこに身振りを続けた。


『あの道を この子は 初めて 行く 一人では 危ない あなたは 撃たれたと 聞いた だから わたしが 此処まで 一緒に来た』


 物殺しの視線がクロイツに向き、オンケルがそれに続く。黒十字は黙したまま。

 しかし、漂った静寂は守長が自ずから破る。


「彼女を盾にされると弱いな。だが、次はなしだ」

『そんなに 邪険に しなくても いいだろう ?』

「する。君はあの駅唯一の駅員だよ。君が仕事を放棄したら駅が立ち行かなくなる。確かに盆と慰霊祭以外の日で此処墓地を訪れるものは少ないが、全くいないわけではないのだろう? もしも君がこうしている間に降客が居たら、それはその誰かに対する非礼ではないのか」


 しゅんとしてしまった。

 言っていることが正論なだけに、無闇と感情で駁することも出来ない。しかして言った当人も此処まで落胆されるとは思っていなかったようで、当惑したように呻きながら、しぶしぶと腕を組んで途方に暮れている。横たわるのは気まずい静寂だ。


『とても ――』


 堪らずアザレアが話題を変えようとして、オンケルが動く。ガラス蓋で覆われた文字盤を交差させた両手で覆う所から、そのは長く続いた。


『とても悲しい あの時 も あなたの時 にも わたし は 何も出来なかった この 物の街から も 人の街から も 離れた 此処で あなたたち の 傍に 一番早く 来られるのは わたし なのに わたしは 気が付きも しなければ むしろ 嬉々として あの 時計を 此処へ 招き入れて しまった』

「オンケル、そんなこと――」

『わたし も 長く 生きた 物の 端くれ この子が 物殺し であること は 分かっている あの子と 同じように 元の世界へ 帰り たがっていること も 分かる だから 助けに なりたかった あの道で のは わたし だけ だから わたしが この子と 一緒に行く 限り 此処へは 気を休めて 行ける だろう から』

「…………」


 どうして。

 思わず零した物殺しの呟きを、彼は聞いたか否か。彼女の方に身体を向けて、オンケルは声なき声で語る。


『悲しい ことを 言わないでほしい あなたには わたしと 違って 帰る場所 も 帰りを待つ人 も ある し 作ること も 出来る あなたが それを 失くしたとき 亡くしたとき きっと 悲しい だろう ? あなたに 残された 場所 や 人 を わたしは 悲しませたくない し 此処で 取り上げてしまいたくも ない』

「オンケルさん」

『忘れないでほしい あなたには これまでも これからも 沢山ある 辛いこと も 悲しいこと も 雨のように 降りかかる だろう けれど 嬉しいこと も 楽しいこと も あなたには 得る 権利が ある 今も これからも あなた らしく 生きて いい 権利が ある 陳腐なことを 言っている けれど これは とても 大事なこと だから』


 ――どうか忘れないで

 頭を指し、己の胸を指して、かぶりを振り。オンケルは念を押すように伝え、唖然とする少女の頭をぽんぽんと軽く叩いたかと思うと、はたと気付いたように頭を上げた。みるみるうちに先ほどまでの静謐が吹き飛び、あわあわとその場でおたつき、頭を抱え始める。アザレアは完全に置いてけぼりだ。

 ぽかんと間抜けた表情の少女に、喉の奥で懸命に笑いを堪えながら、クロイツが助け舟を出した。


「慌てているんだよ。娘のような年頃の女の子の頭を撫でたから」

「ふぇ……!?」


 そう言えば、とアザレアも顔を赤くする。二人揃って慌てだしたところで、クロイツの笑いの堰はとうとう決壊した。



 ――結局アザレアの勤務初日が始まったのは、それから三十分も経ってから。

 案内された部屋は、書斎のすぐ隣にある保管庫。数十年前の古いものからつい数日前に書かれたような新しいものまで、新旧の段ボールが雑多に放り出されている最中である。かろうじて年別に仕分けはされているものの、その年の並びはまるで整頓されておらず、入れられた名簿もばらばらだ。これではしばらく仕事にも事欠くまい。

 雑然と散らかった紙の束にやや辟易しつつも、アザレアはざっと見た中から一番新しい年代のものを選んで仕事に取り掛かる。初日だからだろう、クロイツもボール箱を挟んだ差し向かいに腰を下ろし、紙を捌き始めた。その手つきには年月による慣れが見える。アザレアは一旦手を止め、守長の手付きを真似ることに集中した。

 まず人か物かを分け、月日順に並べ替えて目次インデックスを付け、最後に名前順に揃えてファイルに綴じる。母数が多い分煩雑ではあるが、そう難しい作業ではない。作業を再開したアザレアに話す余裕が出来るまでに、時間はさほど掛からなかった。


「あの」

「うん?」

「月の原駅から此処まで、徒歩五分で着くって言ってましたよね? 今日来てみたら十五分掛かりましたよ」

「その件に関してはすまない、大事なことを言い損ねていた。だが決して嘘を言ったわけではないんだ。普通は月の原駅から此処まで、確かに五分で来られる。初春の荒野に蜃気楼や逃げ水が立つこともない」


 仕分けの終わった書類に大型のパンチャーで穴を開けながら、クロイツはやや申し訳なさそうな声。

 アザレアは名簿の名前に目を落としたまま、語尾を上げて疑問を呈する。


「なら、どうして?」

「数年前からなんだが、景色が惑うようになったんだ。建物との距離がいつまでも縮まらないように見えたり、逆に遥か遠くにしかないはずのものへ数歩で近づけるように見えたり、時にはあるはずのものを消したり動かしたりもしてしまう。実際に地形が歪んでいるわけではないから、慣れてしまえばどうと言う現象ではないが」


 オンケルは心配性だと笑いかけて、クロイツはすぐに言葉を引っ込めた。

 彼が提示した不安の種は、人を惑わす荒野ではない。不慣れな場を一人で彷徨う少女と、それを狙う悪意なのだ。悪意の側も幻に惑うならばまだしも、オンケルの不覚によってそれも期待し難い。ならばせめてと考えるのは珍奇な思考ではないだろう。

 ファイルの表紙を閉じて新しいボール箱に仕舞い込み、別の紙束を出しながら、守長は自嘲気味に一言。


「雇い人の一人も護れない物が守長とは。聞いて呆れるだろうな……」


 アザレアは黙したままだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る