「君の寝顔は知ってたよ?」
置田良
「君の寝顔は知ってたよ?」
秋の夜長と言うけれど、一年中夜遅くに帰宅する聡司には関係ない。
別に誰かと飲んで来たというのではなく、ただ残業を終えて帰ればこんな時間になってしまうのだ。
昨年、中間管理職になったため残業代も出るわけでもなし。とはいえ昇給もほとんどなく、管理職に進む選択をしなかった同期の方が、残業代を含めた場合は高い給料を貰っているともなれば、愚痴りたい気持ちで一杯になるのも当然だ。
けれどそれでもやっていけるのは、彼にとってとても愛しい妻、
本当のことを言ってしまえば、聡司は悪いなあと感じることがしばしばあるし、「毎日起きて待ってなくていいよ」と喉元まで湧いてくることもしょっちゅう。けれど、一度でもそう言ってしまえば、もう二度と待っていてくれないのでは感じてしまい、結局シボシボ萎んでしまうのだ。
少し意地悪な言い方をしてしまえば、佳奈恵のことを信じきれていないのだろう。
とまあそんな前情報はともかくも、今日も今日とて、既に二十三時をとうに過ぎたころ、聡司は家に帰ってきた。
――ピぽオ~ンとチャイムを鳴らす。
聡司の住むアパートのチャイムの音は独特で、ピとポの間がやたらと短く、ポーンの音が不自然に上がるので字に起こすと「ピぽオ~ン」といった風に聴こえる。
これが聡司の住む部屋だけの話なのか、このアパートでは全部がそうなのかは定かではないが。
再びチャイムの音が鳴る。さらに続けて、またピぽオ~ン。
それでもドアは開かない。
おかしいな、と部屋の外では部屋の主である聡司がマフラーに包まれた首を傾げる。
首を包むマフラーは去年の冬、佳奈恵がプレゼントしてくれたものである。聡司は今日は今年一番の寒さになると朝のニュースで聞き、取り出してきたのだ。これを見て佳奈恵は大変機嫌を良くし、今日の夕飯は聡司の好物を準備すると言っていた。
――そう、部屋の中には彼の妻である恵がいるはずなのだ。もちろん恵が眠っていてもなんら不思議はない時間ではある。
とはいえ前述の通り、妻の佳奈恵は毎日起きて待っているはずなのだ。
聡司は不安に襲われる。
考えられる説は二つだ。
まず一つはいよいよ愛想を尽かされ、早々に寝入ることにしたという説。だが朝の様子を思い返す限り、この可能性は低い。
もう一つは、体調を崩すなどして鍵を開けることができない、もしくは体を休めているという説。聡司にはこの可能性の方が高いように思えた。最悪の場合、強盗などに襲われて……いやいやこれは余りに突飛な想像に過ぎる、と聡司は首を横に振る。
そして、自ら鍵を開け、聡司はそろそろと部屋に入っていった。
静寂に、ドクンドクンと自身の心臓の鼓動が響く。
廊下から、ドアの曇りガラスを挟んだ向こうにリビングが見える。
リビングは電気がついていない。けれど、奇妙なリズムで点滅する光が見えた。
抜き足差し足忍び足で、そっとドアに近づいて、これまた慎重に開く。
――佳奈恵は通販番組のテレビを無音でつけたままで、ソファーで横になっていた。耳を澄ませば、穏やかで規則正しい寝息も聴こえてくる。
聡司は胸を撫で下ろしながら「ただいま」と声をかける。けれども、起きる様子はない。
聡司は体調が悪いのかと心配になり、彼女の額に手を当てるも、先程まで寒空の下にあった彼の手は、ひんやりと冷えており体温を測るには適さなかった。
そこで、聡司は少しの気恥ずかしさから目蓋を閉じて、額と額を合わせて熱を測る。
「よかった。熱はないみたいだな」
そう言って彼は安堵の表情を浮かべると、隣の寝室から毛布を持ってきて彼女にかける。
そのときふと、妻の幸せそうな寝顔が、真顔を作ろうとしながらもどこか口元が笑っているような表情が、聡司の目についた。
聡司は微笑むと、柔らかく、軽く、梳かすように佳奈恵の頭を撫でた。「いつもありがとう。愛してるよ」との言葉を添えて。
そうして聡司は、静かな鼻歌とともに、用意されていた晩御飯を温めて食べ始める。
それは朝の宣言通り、彼の大好きなロールキャベツであった。
その二時間後、聡司が眠ったことを確認し、佳奈恵はゆっくりとソファーから身を起こした。
「びっくりした。目を覚ましたら、顔が目の前にあるなんて」
先ほど撫でられた頭をさすりながら、確認の意味を込めてか、そう口にする。
実のところ彼女は、額で熱を測られたときに目を覚ましていた。その後は、なんだか照れくさく、かといって目も冴えてしまい、彼が寝るまで寝たふりをしていたのだ。
佳奈恵は布団が敷かれた寝室への扉をそっと開く。そこには当然、聡司の寝姿がある。
「あ、かけ布団をソファーのとこに忘れちゃった……。まあいいや、いーれーてー」
小声で入れてと言いながら、彼女は心底楽しそうに、夫の布団に潜り込んでいくのだった。
(寒い……)
翌朝、聡司は寒さで目を覚ます。気づけば布団がかかっておらず、横にはロールキャベツよろしく布団にくるまった妻の姿があった。
眠っているうちに、彼女に剥ぎ取られたのであろう。
少しムッとしながら、聡司は彼女を眺める。そこにはちょっぴり間抜けな寝顔が――口を少し開けてニヘラと笑っている寝顔があった。それを眺めているうちに、彼は昨夜のことを思い出し少し顔を赤らめる。
ところで、聡司は奥さんの寝顔など、よくよく知っていたはずなのだった。
「君の寝顔は知ってたよ?」 置田良 @wasshii
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