《√2/いっぱいあってな》

 “羊の皮を被った狼”という言葉はよくできた言葉だと思う。世界は常に化かし合いであり、それぞれが姿を偽っている。それが上手くできない人間は馬鹿にされてしまう。でも年齢に関係なくそれさえできれば大人だと言われるのだ。だから所詮この世界は人の皮を剥いでしまえば獣しかいない。みんな種類の違う獣なのだ――


 子供には邪気が存在しない。だから無邪気。なんて言葉遊びがある。だけど私はこのところの子供に対して自らが子供であるという立場を理解して悪さをしている様に感じることが多い。するとそれは有邪気とでもいえばいいのか。というのも一つの言葉遊び。ただ目の前の毛玉においては本当に邪というものが微塵も存在していないのだろう。だから悪びれることもなく壁に落書きをして私を呼びつけたり、簡単に「だーいすき!」と言ったりできるのだ。

 そうした素材は粘土に似ている気がする。つまりは私が教え込んだ邪で形を変えていく。自動的に学習してしまう部分の方が教えることよりも多いので自分の動き一つ一つ気を付けなければならないとも感じるが、兎に角、真の無邪気は厄介で悩ましい。叱らなくても溜息交じりにこうして壁を掃除していると背後で耳をぺたんとたたんで目に涙を溜めている。きっとこの子が壁に落書きをすることはもうないだろう。そして子供によってはもう絵すら描かなくなる子もいるのだろうな。

「ねぇ、フゥ君。さっきの絵、もう一回この紙に描いて欲しいな」

 将来どうなるにせよ、できないよりはできた方が良い。そしてそれを決めるのはこうした些細なこと。私は初めて今、あの何が描いてあるかわからないド下手クソな絵を飾ってある家庭が多いのかわかった気がする。それが一つの評価になり、自信に繋がるからだ。才能なんて簡単にはわからない。でもそうした些細なことがこの柔軟に変わっていく素材の形を決めていくのだろう。もしも私の両親も……いや、今はそのことは考えないでおこう。

 ペンと裏の白いチラシを渡すと子オオカミはチラリとこちらを見る。別に怒ったつもりも、無断で壁の絵を消してるつもりもないけど、やはり自分の作品が潰されるのはショックなのだろうか。私は良い言葉を探す。


「うーんとね、フゥ君。この壁は私の物じゃないんだ。私の物だったら消さなかった。でも私はこの壁の持ち主さんと綺麗に使うって約束をしてるから、その約束を守る為にフゥ君の絵を消してる。だけど、フゥ君が一生懸命描いた絵を私は置いておきたいと思うから、こうして私の物である紙を渡してる。ここならこうして消さなくて良いから。私、ワガママ言っちゃってるかな?」


 子オオカミは溜めてた涙を袖で拭くと、目を輝かせいつもの無邪気な顔で笑顔を見せる。その笑顔が何とも眩しすぎて昔のようにヒヅメがあれば目潰ししたくなった。大人になる為に捨てた物だけれども、あれはあれで良さがあったと感じるときがある。まあこの目玉相手なら今の指でも十二分に威力はあるだろうけど。

 無駄なことを考えてるうちにも子オオカミはチラシ裏に思い切りよくペンを走らせていく。おかげでそれは紙をはみ出して机にまで線が伸びる。

「……目玉のシロップ漬け。いや、目玉の酢漬け」

 昔カレに対しても思わされたが、無邪気とは本当に恐ろしい。うわ言のようにこぼれた言葉だったのに「ねぇねぇ、なにそれ? おいし?」と子オオカミは食いついてきた。

「さあ。どうだろね」

 少しぶっきら棒な返事だったけれども、もう機嫌を良くした子オオカミはそんな空気を読まない。本当にこういう点、父親にそっくりだ。

「ぼく、シロップのほうがいいー ノビノ作れる?」

「さあ。どうだろね」

 鼻歌混じりの子オオカミの隣に座って、ダイナミックに汚れていく机を見ながら、自分で自分の目が死んでいっているのがわかった。わたしは子オオカミに顔を見られない様にしながら思いついた言葉を口にする。

「多分、フゥ君のお父さんなら作れるから今度会ったら頼むといいよ。そのときにはね『新鮮な黒ヤギの目玉が今すぐに食べたいな』っていうんだよ」

 皮肉めいた笑みを浮かべた私の助言に対して無邪気な「うん!」という返事が返ってきた。後から考えれば、このときの私はかなりの苛立ちを感じていたのだろう。独身のわたしが何故こんなに育児の苦労をしなければならないのかと。

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