第37話
どこへ向かったつもりもなかった。ネノンはただ考えながら歩いていて、ようやく気付けばそこが見たことのある場所だったというわけだ。
前に見た時と同じで、人通りはほとんどない。だけど前よりは少しだけ増えている。真っ黒なローブで頭まで覆った人が、裾を引きずりながらのそのそと何人か連なって歩いていた。
家ばっかりの通りなのは相変わらずで、少し形が変わっているかな? というくらいの変化しか感じない。
そしてネノンが立ち止まった一番近くにある建物は、前とちっとも変わっていない。
そこは人の住む家ではなくて、お店だ。『不動産』と書かれた、オウイの経営するお店。
ネノンはぼんやりその建物を見上げてから、ふらふらーっと吸い込まれるように近付いていった。入り口のガラス窓にびっしり貼られた紙の群れの隙間から、店の中を覗いてみる。そこにオウイがいないかなと思ったけれど、見える範囲には誰の姿もなかった。ついでにお客さんもいないようで、大丈夫なのかな? と無駄に心配になってしまったけれど。
そんなことをしていると。
「何しとるんじゃ?」
と背後から低い声が響いた。
思わず「ひゃあ!」と悲鳴を上げて振り返れば、そこにいたのは店の経営者、オウイだった。
彼は慌てて振り返った小さな少女を見て「なんじゃ、ネノンか」と笑いかけてきた。
ネノンも同じようにオウイであることを確認して、ほっとしながらその姿を見つめた。前に見たのと同じようなスーツを着ている。けれど端々に葉っぱや草をくっ付けて、汚く見える。
でもどなんで葉っぱが? と思って首を傾げていると、オウイが視線に気付いて言ってきた。
「そっちに行っとったけえの。くっ付いてしもぉたんじゃろ」
と言って指差したのは、前にも見た空き地だ。
ただし今は草木が生い茂っている。前に見た凹みはすっかり埋まってしまい、森の一部を切り取って持ってきたような姿をしていた。
もちろんそれは空き地だけのことで、隣の建物はレンガ造りの、いかにもな町の民家だけど。
オウイは「見て回るんも仕事のうちじゃけえの」と言いながら、草葉を摘んで取り除いていた。そして最後にぱたぱたと埃をはたいてから、貼り紙まみれのガラスの扉を開けて店の中へ入っていく。
ネノンはそれを少しの間、ぼーっと見送っていたけれど、やがてオウイが顔を出して、「入らんのか?」と聞いてきたので、慌てて自分も店に入った。
店の中は前と同じ。テーブルにソファーがあって、ネノンは前と同じソファーに座ることになった。今はコーヒーしかないみたいで、オウイは白いマグカップに半分くらいのコーヒーと、同じくらいミルクを入れて、砂糖の瓶と一緒に出してくれた。
お礼を言いながら瓶から砂糖を取り出していると、オウイが心配そうに言ってくる。
「何か悩んどるようじゃのお」
「わかるの?」
ネノンはびっくりして、スプーンいっぱいの砂糖をドサッとコーヒーに落としてしまった。まあそれは、元々入れるつもりだったからいいんだけど。
「がっはっは! まあのぉ。これでも人を見る商売じゃけえ」
豪快に大口を開けてから、そこへ流し込むように、コーヒーを飲んでいく。ミルクも砂糖も入っていないはずだけど、オウイは苦そうな顔もしないで一気に全部を飲み干したようだった。
そうしてオウイはまた、怖い顔には似合わない、どこか心配そうな、真っ直ぐな目でネノンを見つめてきた。何も言わないけれど、何かあるなら話すといいと言っているような目だ。
ネノンはそれを向けられて少し俯くと、ミルクと砂糖をかき混ぜながら口を開いた。
「わたし、たくさん間違えて、失敗しちゃって……それは悪いことだって怒られたの」
最初は泥棒じゃない人を、間違えて泥棒だと言ってしまったこと。それに人を助けようとしたら、いらないと言われたこと。それからゴッスたちにそれを咎められたこと。
すがるつもりで来たわけじゃないけれど、ネノンは自分ひとりじゃなにもできない気がして、話していった。ゴッスたちの名前は出さないけれど、彼らに失敗を咎められたことも。
「だけど警察の人に言ったら、失敗は許されないけど悪いこととは違うって言われて、じゃあなにが悪いことなんだろうって、よくわかんなくなっちゃって……」
言いながら、ネノンはやっぱり自分でも混乱した。何が違うんだろう、どう違うんだろうと。
けれどオウイはそれを聞くと、なぜかまた豪快に笑い出した。
「嬢ちゃん、いたしいこと考えとるのお。おっちゃんより頭ええよ。将来は女大統領じゃ!」
「だいとーりょー?」
よくわからなくて聞き返すと、「ここは王様しかいないがの!」と言ってまた笑う。ただしそれもやっぱり、ネノンにはよくわからなかった。
ただオウイは、笑い終わると目を優しくして、ニカッと歯を見せた。それもまた笑った顔だったけれど、真面目で優しい声をして言ってくる。
「間違ったことはいけん。じゃが、それは”間違えてしもぉたこと”を怒っとるんじゃあない。嬢ちゃんでいやぁ、泥棒じゃない人を捕まえたなぁ悪いことじゃが、泥棒を捕まえようとしたなぁ誰にも怒らりゃあせん」
だから悪いけど悪くない、怒られるけど怒られない。オウイは親指で自分の胸を指した。
「ダメなことじゃったら、おっちゃんらがちゃんと教えちゃる。怒られるんは嫌なことじゃろうが、そんでだんだん、間違えんようになってったらええ」
そしてまた、歯を見せながら笑って、
「それがおっちゃんらの役目やし、おっちゃんらもそのために、嬢ちゃんらのやることがええことか悪いことか、ようけぇ悩んどく」
オウイの話したことは、ネノンにはやっぱり半分くらいわからなかった。
いいけど悪い、悪いけどいい。どれが怒られて、どれが怒られないのか。自分はいったい、何をやってよくて、何をしちゃダメなのか。結局はわからないままだ。
だけど、少しはわかったこともあった。
オウイが最後に、ぽんっと頭を優しく叩いて言ってくる。
「じゃけぇ嬢ちゃんは、ええことや思うたら、思いっ切りやりんさい」
「……うん!」
ネノンは大きく頷いた。
頷いて、それでなんとなく、自分が今からやらなきゃいけないこともわかった気がした。
だからネノンはお礼を言うと、ミルクのたっぷり入った甘いコーヒーを、ぐいっとひと息に飲み干した。さっきのオウイがやったようにしてみせて、ニコリと笑う。オウイもそれに応えてくれたから、ネノンは頭を下げて店を後にした。
外を出ると、そこにはたくさんの人が歩いていた。出るのと入れ替わりにオウイの店に入っていく人もいて、お得意様のような話し声が聞こえてくる。
空き地はいつの間にか、すっかり綺麗な芝生になっていて、凹んでもいない真ん中に看板がしっかり立っていた。
だけどネノンは不思議と、それが当たり前のことに思えて、そんなに気にせず駆け出した。
見たことはないけれど、見たことのある大人たちの間をすり抜けて、ネノンは”一番見たことのある人”を探した。
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