第28話
(また、失敗しちゃった……)
ほとんど走るように、噴水の広場から離れていく。泣いてはいないけど、似た心地ではあった。ぎゅうっと胸の奥が締め付けられて、お腹の奥がぐるぐるとねじれるような気持ちになる。
(わたし、まただ……)
耳の奥にはあの時の怒鳴り声や、冷ややかな声が聞こえてくる。遠ざかって、街の喧騒も相まって聞こえにくくなっていた笛や太鼓の音が、そして意味のわからない言葉の歌が、頭の奥で反響して、自分をなじっているように感じてしまう。
俯いて、早足で歩いていると、どしんっと目の前に何かが落ちてきたように感じる。けれど顔を上げてみても何もなかった。空から凍った人が降ってきたように感じたのだけれど。
ただ、顔を上げたおかげで違うものが見えた。それは公園だった。
いつの間にか、ハスラットの家の方角に向かっていたらしい。その途中にある公園で、ネノンは立ち止まっていた。
なんとなしに覗いてみれば、砂漠のような公園の中には、遊具のあった場所に変な顔の像が建っている。おかげで遊具で遊ぶ子はいない。遊具がないのだから、遊べないのは当然だ。代わりに砂遊びをする子が何人か見える。
それと、端っこで集まって話をしている三人の小さな女の子。ネノンと同じくらいだろう。みんな思い思いに、ピンクや黄色の可愛らしい服を着て、スケッチブックを見せ合っていた。
「なにをしてるんだろう?」とネノンは不思議に思って、公園の中に入っていった。木もなくなっているから、近くの変な人型の像に隠れる。すると声が聞こえてきた。
「ほらほら、これ描いたのっ。昨日見た、変な犬みたいな猫」
「わ、上手! 私は今日の夢に出てきたお魚を描いたんだけど、ちょっと失敗しちゃった」
「そんなことないよー。足のところとか、すっごい上手いよー」
どうやらみんなで、スケッチブックに描いた絵を見せ合っているらしい。そしてみんなで褒め合って、楽しそうに笑っている。
楽しそうだった。とても、楽しそうな笑顔だと、ネノンは心からそう感じた。像の陰からこっそり覗きながら、ぼんやりと見つめながら。
やがて女の子のうちの誰かが、「そうだ!」と声を上げた。
「今からみんなで、一緒に絵を描きに行かない?」
「あ、いいかも! どこに行く?」
「川はどうかなっ? あそこなら色々いるし」
提案にみんなで頷き合う。それもやっぱり楽しそうだった。笑顔のまま、女の子たちが駆け出そうとする。ネノンはそれを見送ろうとして。
「あ……」
けれどその直後、女の子たちの足が急に止まった。そしてみんなで、ネノンの隠れている像の方向を見つめてくる。
ただ、ネノンを見ているのではなかった。それよりもっと後ろを見ている。ネノンがそれに気付いて振り返ると、丁度それは横を通り過ぎていくところだった。
ひとりは冬だというのに牙の絵が描かれた黒いタンクトップにズボンという姿の、大柄な男の子。もうひとりはそれに付き従って歩く、茶色のダウンジャケットにジーンズを履いた、小柄な男の子。
ふたりとも見たことがある。ゴッスとテリシシだ。
そして女の子たちも、彼らのことを知っているんだろう。今まで楽しそうだった顔を急に曇らせて、明らかに避けるために、別の方向へ足を向けようとしていた。
けれど、ゴッスが声を荒げる。
「おい、待てよ! なんで逃げんだよ」
「…………」
明らかに呼び止められて、女の子たちは観念したように立ち止まった。みんなで身を守るように身体を寄せ合い、肩を縮めながらゴッスたちの方を向く。
「な、なにか用?」
尋ねる女の子の声は震えていた。反対にゴッスはニヤニヤとした、余裕の声だ。
「今なんか見せてただろ? 俺にも見せろよ」
「別に……みんなで描いた絵を見せ合ってただけよ」
ぎゅっとスケッチブックを強く抱き締める、女の子。けれどゴッスは大股で近付いていくと、
「いいから見せろって言ってんだろ!」
声を荒げながら、無理矢理にそれを奪い取った。女の子は「きゃあ!」と悲鳴を上げて、思わず後ずさる。おかげで他の子が批難の声を上げたけれど、ゴッスたちはそれを全く無視してスケッチブックをぱらぱらとめくりはじめた。
そして批難に対するものとは違うものを返してきた。それは馬鹿にした大笑いする声だった。
「うわっ、なんだこれ? へったくそな絵だな!」
「ほんとだ! キヒヒ、下手くそにも程があるよ!」
「な……そ、そんなことないよ!」
「そうだよ、上手に描けてるよ!」
スケッチブックを取られたのは真ん中の子だったけれど、その子ではない、周りの子が反論に叫ぶ。真ん中の子は……笑われてショックだったのか、目に涙を浮かべていた。周りの子が、その子の肩を支えている。
「そんなに言うんだったら、あんたたちもっと上手く描けるんでしょうね!」
「そうよ! 馬鹿にするなら描いてみなさいよ!」
「はあ? 自分で描けなくても、上手いか下手かなんてわかるんだよ!」
「キヒヒ! 絵が下手な上に頭も悪いのか」
女の子たちが必死に反論するが、ゴッスたちは余裕の顔だった。何を言っても、それがまた女の子たちを批判する材料になってしまう。
ネノンは像の陰から、それを見ていた。ほんの少し前まで楽しそうだった女の子たちの顔が、もう今ではみんな、泣きそうなものに変わっている。スケッチブックを取られた真ん中の子は、実際に泣いてしまっているのかもしれない。顔を両手で覆って、しゃがみ込んでしまっていた。
ネノンは、それを見ていた。見ていて……すぐに助けに入らなかったのは、そうできなかったのは、やっぱり失敗が怖いからだった。自分が助けに入ったせいで、余計に嫌がられるのかもと思ってしまったのだ。
ただ、やっぱりそのまま見ていることもできなかった。もうひとりのスケッチブックが取り上げられて、それも笑われ始めたのを見て、ネノンは像の陰から飛び出した。
「あ、あのっ!」
二組の間に割って入る。そしてそのうち、男の子たちの方を向いて、言う。
「返して、あげて。そのスケッチブック」
「あ? なんだ、お前」
背後の女の子たちを庇うように手を広げると、ゴッスは訝しげに顔をしかめてきた。それは大きな狼が威嚇するような顔にも見えて怖かったけれど、なんとか堪えて続ける。
「それに……一所懸命に描いたものを笑うなんてひどい、と思う」
「いきなり出てきて、何言ってんだ? だいたい、一所懸命ならいいってもんじゃねえんだよ!」
「キヒヒ! そうそう。人に見せるんだから、上手いか下手かだけだっての」
ふたりとも、馬鹿にしたように笑いながら言い返してくる。
さらに、ネノンが「でも……」と反論しようとしたけれど、それより早く、ゴッスがなにかを思い出したようだった。
「そういやお前、この前も俺たちの邪魔してきた奴だよな」
「だって……悪いことしようと、してたから」
「へえ、悪いことねえ」
ゴッスはそれを聞いて、不気味にニヤニヤ笑ってきた。テリシシも同じような表情で、ふたりで顔を合わせている。ネノンはとても嫌な予感がした。ふたりが次になんの話をしてくるのか、わかった気がしたのだ。
そしてまさに、その通りだった。
「聞いたぞ? お前、家に入ろうとしてただけの人を泥棒扱いしたんだってな」
「あ……! そ、それは」
「うわ、最低だな! 冤罪なんて、一番悪いことだぞ!」
ネノンが弁解しようとするのを遮って、テリシシが煽り立ててくる。さらにそれに乗せられてしまったのか、背後で女の子たちが少しざわつくのが聞こえた気がした。
だから余計に慌てて声を上げる。
「あ、あれは、間違っちゃっただけで!」
「間違えるなんて結局悪いことじゃないか。そんなの言い訳にならないんだよ!」
テリシシがますます煽り立てる。ネノンはそれで、言い返すことができなくなってしまった。
なにしろ実際に叱られているのだから。そんなの悪いことだと、あの場でも多くの大人たちから言われたことだ。
「それにひきかえ俺たちは、本当のことを言ってるだけだからな。下手くそには下手くそって言ってやるのが本人のためだ」
「自覚させてやってるんだから、感謝してほしいくらいだよ。キヒヒ!」
反論できなくなってしまったネノンに、ゴッスたちはそのあとも「お前は褒められたかっただけだろう」とか「そんなのは自分勝手だし、自分勝手なのは悪いことだ」とか、次々と言葉をぶつけてきた。
そのどれにも、やっぱり言い返すことができない。
何も言えなくて、ネノンは俯いて唇を噛み締めるだけになってしまう。泣き出すのを堪えることが精一杯で、息をするのも辛いくらいだった。
「はんっ! 俺たちがどれだけ正しいか、わかったか?」
「二度と調子乗ったことするなよ、偽善者!」
ふたりは最後にそう言うと、言い負かした高揚で上機嫌に去っていった。放り捨てられたスケッチブックが、ネノンの頭にばしんっとぶつかって砂の上に落ちる。
それでもネノンはなにも言えなかった。俯いたまま、落ちたスケッチブックに描かれた楽しそうな絵を見下ろしながら、ぐしぐしと涙の出ていない目をこする。そうしながらスケッチブックを拾い上げて、それを女の子の手に返してあげた。
女の子たちがどんな顔をしていたかはわからなかった。だってその時もずっと、俯いたままだったから。顔を見ることができなかったし、見たくなかった。
お礼を言われたかどうかもわからない。だって渡してからすぐに、走り出してしまったから。
公園の砂を蹴って、街の石の道を蹴って、原っぱの草を蹴って。
ネノンはそのまま、家に帰ってしまったから。
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