三日目 昼

日は高く昇る。私はようやくタービンへの道を築く決意をした。朝日の向かう方向、つまり西方へ歩けば、私の歩いてきた向きとは逆に、まったくの海であった。とはいえ、海は全て凍っており、飛沫さえ宙に浮いて落ちない。雫一つ押しても動かない。それはまるで凍っているというよりは、時が止まっているという方が正しい文法と思った。事実、潮風の代わりに冷たい空気が流れており、それを首筋に受けた私はほんの少しだけ震えた。

「ヴィナス、手順通りにしたぞ。何も起こらんではないか」

振り向いてヴィナスに問う。ヴィナスは浜辺、私は凍った海の上に立ち、その距離およそ30m。それでヴィナスは、手に予言の書を持って読んでいる。

「次の手順をしましょう。『蓮の下、MOTHERの眼差し在』と言いますからには、蓮さんの下にその『MOTHER』があるのでしょう」

「MOTHER……?」

すくみ上がった!私の、それも真下には巨大な海溝があるのだが、暗く深い奥底で、また極大の神殿が静か且つ荘厳に佇んでいる。ほんの少しだけ見える金の装飾がかった丸屋根の上に、魚眼のように大きな、黒い石と白い石がギロリとはめ込まれている。あれがMOTHERの眼差しというものだろう。

それを目に捉えた瞬間、パシッと音がして私の身体が一瞬軽くなった。足元の氷が割れたのだ。氷の下にはしばらくの空間があり、少しの間を置いて身体はバッシャと冷たい水に沈んだ。叫ぶ間もなくごぽごぽと泡が昇って光が遠のく。ああダメだ!私はカナヅチなのだ!氷の上には手が届かない。腕で水流を僅かに生んで視界は歪んでジッと暗くなった。前髪が揺れて幾度か額に触れたのを覚えている。


蓮の体は静か水流に乗って無力のうちに落ちていった。魚雷のように頭を落とした長身は、自身が起こした水流に救われ背中を下にゆっくりと降ろされた。眠りついた子を床に就かせる母に似て、水流は蓮を抱き空気の接吻を継いで臀部から順に地に誘う。事実、蓮は眠っていた。水流はそのうちの身を残らず離すと、しめやかに人を象った。



確実に死んだと思ったのだが。目を覚ましてみると、大理石の床の上に仰臥していた。前髪は普段通りしなやかにひねくれている。それでその先からはシタシタと水滴が落ちている。白衣の重さと冷たさで、自分がびしょ濡れだということに気が付いた。震えるようにかぶりを振る。耳の奥でトプリと水の音がする。数度横に振って両耳から水を出し終えると、自分の姿の反射する床を伝って、その後ろから微か重厚の音を聞いた。振り向けばそれこそが。

「世界、タービン…………?」

高くは50m、幅に30m、長い胴に地球に存在する全ての金属を継いで合わせて巻き付けたほどの数の導線が何重ともなって厚く重なっている。このコイルの両端には直径30mのギアスを2000、3000と重ねてあり、さらにその歯車の先に何万枚もの鉄羽が貼られていて、これが所謂タービンになっている。ただ、このタービンの羽はそれぞれ表裏と逆になっていて、骨竜の脊椎の捻るような動きをしている。このタービンが回るのと同じように、タービンもまたメリーゴーランドのように胴を中心に螺旋で回っており、惑星の公転するのに似て軌道は複雑になっていた。さらに回るタービンの軌道に避けて動力源の不明な、3mほどの黒い球体が縮小と拡大を繰り返しタービンの方向と逆に回っていた。私はしばしその光景に見とれていたが、ヴィナスの姿を探して振り向くと、やはりそこにヴィナスがいた。不思議にも濡れていない。

「ヴィナス、これのどこが悪いっていうんだ?」

「自転の向きです」

自転の向き​────ここでは、タービンそのものが回る方向​────は、この向きでは合っていないらしい。

「それで、これをどう直せばいい」

「そこに扉が見えますでしょう」

ヴィナスの指し示す方向にコイルの胴があり、そこに薄くて長い扉が一つ見える。ヴィナスの体ではあまりにグラマラスで通れないだろう。

「蓮さんなら、通れますでしょう」

なるほど、それで私を拉致したというわけか。薄い私の身体なら、なんとかして通れる。でも、お前ならどうにかできそうなんだが……?いや、あんなものは口実の一つだろうか。さあ、早く中に入って作業をしなければ。


突然背中が熱くなった。何か熱した、鉄のような、なんだかそういうもので背中を切りつけられたような……事実、手を当てるとベッタリと赤い血が付いた。つまり、何か鉄の、刃物のようなもので切りつけられた…………振り返れば死神、マーズがホバリングしていた。

「…………………………?……なんで」

「これ以上貴方に動いてもらっちゃ困るんですよ」

「…………?」

私が床に崩れ落ちると、マーズも地に足をつけ、大鎌の柄の先で切り傷を突いて体重を掛ける。あまりに痛くてどうしようもないのだが、ここでは割愛することにする。床に伏す頬の視界から水と血の混ざるのが見えた。この鉄の臭いが鎌なのか血なのかわからない。だがきっと、おおかた血だ。マーズは喋る度に体重をかける方向を変えるので、私はその都度遮るように呻かねばならなかった。

「……一度冥界で貴方のことを調べさせてもらったんですよぉ。そうしたら貴方、一昨日死んでいたそうじゃないですか。それが何故生きているのです」

「そんなはずは…………!」

……私が、死んでいた?そんなはずは。だって、あの時私は眠っていただけだ。私は…………私は……

「死んでなんか……いない……!」

「これを見てもそう言えますか?」

マーズは私の背の中から肉を一つ千切って顔の前に落とした。だが千切られた瞬間に大した痛みはなかった。肉塊は赤黒く、所々茶色く腐れて酷い腐臭がする。この3日間で嗅いだものと同じだ。私は死んだまま生きていたのか?いやいや、こんなことじゃ納得できないぞ。

「返す言葉もないようですね」

マーズは鎌の柄を深く押し入れた。私がまだ生きているのが不思議なほどだ。

「貴方が生き返ったことは法律違反ですよ。少なくとも我々の世界ではね。運命に逆らうことは神に背くことですから」

お前が殺すことは法律違反にはならないのか、と言い返したかったが痛みでそれどころではない。このまま生きていても酷だ。息を潜め静か死の時を待つしかなかった。目の端に映るのは私に駆け寄る漆黒の助手。ああ、すまない……私はキミの願いを聞き届けられなかった。

「さあ、お嬢さん。これで貴方の身を縛るものはありません。さあ私と共に楽園へと参りましょう」

混沌する意識でこんな会話を聞いた。

「ヴィーナスよ。それに私を縛るって?」

「ヴィーナスさん。もしかして貴女はお分かりでない。この男の罪を、貴女は背負っていたのですよ。自力で帰ってきたんだか、どこぞの不届き者がコイツを蘇らせたんだか知りませんがね、これでは私の仕事がなくなるというものですよ。それに、貴女はこの男といる限り地獄行きは確実、それほど罪なのですよ、死人が生き返るというのは!」

「貴方、役職は?」

「死神で、ですか?私は持っていませんよ。だからこういうの​がのさばっていると、随分と迷惑​で。さあ、こんなものはもう私がどうにかしますから、あなたは私と一緒に​───────」

ああ、意識は破滅する​───────​─────



目が覚めるとまだ生きている。しぶといやつだ、私は。しかしそういうわけでもなかったようだ。背中の痛みがスッカリと消えている。というか、さっき意識がなくなってから数秒と経っていなそうだ。視界の端に黒い人影が映る。

「ヴィナス?」

上体を起こそうとすると、ヴィナスが私の顔の横に立ち膝で「シッ」というジェスチャーをする。まだ完全に治ってはいないらしい。これではしばらく口も利けなそうだ。ヴィナスは私のもとを離れ、死神に歩み寄る。

「……その程度の下級死神では、知らないのも無理なさそうね」

「はっ?」

「これは神の手によって、4億5千2百と14年前から決まっていたことよ」

「え、え」

マーズの額に汗が滲み出す。

「確かに初め、蓮さんは死んだわ。でもそれは正しく決められたことではなかったの。だから神に背かぬよう、私が生き返らせたのよ。それを報告しに毎日冥界に降りていたのに、殺すというのは」

マーズは酸欠の金魚のように口を開閉する。汗は鼻の先や顎からもダラダラ垂れ出す。

「法律違反よ」

「し、しかし、まだ殺したわけでは……」

「未遂も十分罪だわ。これが上層に知れたら、貴方どうなるかしらね」

「それは……」

「クビ、クビもクビね」

マーズは今にも叫びだしそうな表情で汗まみれの首を掻きむしった。

「でも安心するといいわ。クビじゃなかったとしたって、貴方が処分を受けることも4億5千2百と14年前から決まっていたことよ。運命に逆らうことは、神に背くことですもの」

「しかし……しかし、しかし!人間を生き返らせるとは!この不届き者め!どんな理由でも人を殺していいことにはならないように、どんな理由でも人を生き返らせることが罪ではないとは言えない!女だからって甘く見やがって!」

マーズは怒りとも悲しみともつかないような声を上げてヴィナスに掴みかかろうと走った。

「また罪を重ねるのね。言っておくけれど、私の感情次第では、貴方が私の前にいるだけで不敬罪よ」

「この尼、偉そうな口を聞きやがって!」

「神聖ホムンクルス、神に創られし5億と19の年を生きる者」

マーズは一瞬立ち止まり、虚空を睨むと、またヴィナスに疑念の眼差しを向けた。

「ああ……あのBLUE LIMBO伝説の」

ヴィナスがズイと一歩踏み出す。

「そのホムンクルスこそ私よ」

マーズは吃驚して、汗も出ないほどに青ざめた。

「さあ、どうするの?神に背くか、運命を受け容れるか」

そう言い終わらないうち、マーズは床に伏す私に大鎌を振り上げ走り寄った。どうやら神に背くことを選んだらしい。私は殺されてはたまらないので、横に転がると頬骨すれすれに刃が降りてきて床に刺さった。なんとか立ち上がるとズキッと背が痛むが構わずマーズに体当たり。マーズはよろけ、鎌を放って床に倒れた。すぐに立ち上がろうとしたが、その真上から何か聞こえてきた。

「博士ーーーーーーーーーッッ!!!!」

その声と共にファクタが落ちてきてマーズの上にのしかかる。マーズは思わず吐き出しそうになった。ファクタはマーズをぶん殴ると、その体を高く上空の水さえ超えて投げやってしまった。

「ファクタ、泳げたのか?」

「ええ、ちょっと勝手に改造したんです」

ファクタが両腕からアクアジェットを張り出させて見せびらかす。相変わらず余計なことをする。しかし、余計が迷惑というわけではない。現にこうして助かったのだし。しかし……

「ヴィナス、お前は……」

「黙っていてごめんなさい、蓮さん。そう、蓮さんはあの日に死んだのです。それで、私は蓮さんよりもずっと年上なんですよ」

「……私は、それを特にどう思うわけではない。……それに正直よくわからん。私が死んでいたのは意外だったが、そんなことで今更驚いていられるか。第一お前がいくつだろうとわたしが構うことではない。だって、それでお前が何か変わるわけではないだろう」

ヴィナスは一瞬クッと目を開いた。

私は言いたいことは言い尽くしたつもりだ。さあいよいよ、この星とヴィナスのためにも、タービンを回さなければならない。

邪魔されたが、今度こそタービンの塔の中に入り込んで登る。螺旋の階段を何度も駆ければ、タービンの羽の根元に着いた。ゆっくりと回る羽に乗りつつ、歯車を確認する。


​───SSSNNSNSNNNSNSN​───


歯車に書かれたアルファベットはどれも煩雑だ。どう意味なんだ?しかしあまり回るので酔ってきた。意識が混濁してくる​─────


「……Sが南ならNは北、N軸から反転して時計回り……ン、速すぎるのか?」

そんなこと思いもしなかった。この声は​───────清だ!

「おいヴィーナス、南はどっちだ?」

「あちらです!」

ヴィナスの指した方向は回る向きと逆を表した。

「やっぱりそうだ!これは逆に回っているんだ!」

「なんのことだ?何故わかる!」

「考えてもみろ!東から来たものは何処へ行く?」

「ああ…………!」

タービンの方向は、確かに西回っていたのだった。

「いいか蓮!この星は、BLUE LIMBOはある年突然、急速な砂漠化を始めたんだ!それもそうだ、タービンの回転が逆で、それも速すぎたんだ!それが何故かって?わからん!機械にも誤作動の1つや2つくらいあるだろう!」

清の脚は正確に塔に走った。塔の内部の中心には、黒い石が溶けて流れた跡のある、手のひらほどの窪みがあった。もうこれが何か理解するのは私たちにとって容易かった。

「ほう、これが疲労して溶けたのがよくなかったんだな」

清は再びタービンに登る。私は叫んだ。

「ファクタ、テクタイトを増幅してよこせ!」

ファクタは口からテクタイトのコピーを吐き出して、その驚異的な腕力で私に投げた。タービンは回るが、相手の正確なピッチングによって私はそれを手に掴めた。そして窪みへ戻ると​…………それを強く叩き込んだ!

「ハハハ、神に祈れ、蓮!」

私は勝手に動く口に呼応するようにそこに一礼して立ち尽くした。

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