三日目 朝
生物のいないBLUE LIMBOの星で蓮を目覚めさせるものはささやかな日光だけだった。蓮は広いダブルベッドの上で天井を見つめて、上体を起こした。頭がクラクラして、もう少しだけ眠りたくあった。そういえば先ほど起きる時に腰が痛んだ気がする。あれ、確かに昨日は…………
蓮はふと俯いた。裸に白衣という身なりが目に止まる。自分の異様な服装に疑念。と、ようやく昨夜のことを思い出す。隣を見れば既に服を着たヴィーナス。滑らかな肌。今朝はどこへも行かないのか。
突然脳裏に雷鳴が起こった。私は重大な間違い、それも世で間違いと呼ばれる間違いをしでかしたのではないか。さっき見たヴィーナスをもう一度───さっきよりも素早く───振り向いて見た。しかしヴィナスの顔を見ているうち、過ちを犯した危機感や焦燥感など取り払われてしまった。頭はもうとっくに冴えている。
ヴィナスは見計らったように瞼を開けた。その表情に眠気は見えない。
「ヴィナス、ヴィナスもしかして……」
「大丈夫ですよ」すっかり言葉に詰まったが、ヴィナスはすぐに返した。まだ何も言っていないというのに……「私の体なら妊娠をするもしないも私の意志に依存しますわ、蓮さんに負担はかけません、人の子でしたら産みませんわ……」
と実に献身的なヴィナスの肩を引き寄せて、私は密かに囁くのだ。
「いや、もう私は地球へ帰ろうとは思わん。三人で生きていこうじゃないか」
今日こそタービンを見つけるのだ、と意気込んで部屋を出るとファクタがいた。そういえば、家族はあと2000体もいるのだった。
「博士、さっき仮面を被った子供が来てましてね。何か物を売っていたようですけど」ファクタが言う。「こんなものを渡していったんです」といってファクタが出したのはカメラである。カメラのこちら側には数字が書かれていて、ここはネジ式で数字が変わるようだ。
「ファクタ、これはインスタントカメラではないかな。この星にもそんな文明があったんだな」と眺め回している。ファクタといえば、テクタイトの恩恵も空しくこれがなんだかわからない様子である。
「残りフィルムは……10か、まずまずだな。ファクタ、これで私を撮ってみたまえ……そうだ、このボタンを押すんだな」
ファクタにカメラの使い方を教えていると、寝室からヴィナスが来た。せっかくだ、お前もカメラに写ってはみないか、と聞くと二つ返事で横に並んだ。
二人は廊下の奥に立ち、カメラから音がするのを待つ。としばらくするとようやくカシャッと言う。このカメラといえば、レンズの下が開いて写真が現像されてくる。なんとなく知っているのと違う。
「ほら、カメラっていうのはこうして写真というのが撮れるってわけだ。見てみろ、すっかりさっきの通り……」
写真に目をやると急に言葉が出なくなった。この写真に写っているのはヴィナスと、それから身体にはあまりにも大きすぎる白衣を着た少年である。目の下に暗い隈を取り、眉間に深い皺を刻み込んだ、どこかで見たような、あるいは見たことのないはずの顔の……イヤ、確かにそれは若き日の私ではないか。物事を理解するに時間は掛からなかった。このカメラは人の過去を写すのだ。試しにネジ式を回して100に合わせてファクタを撮ってみたところ、やはり老朽化していたので、ネジ式の数字が年を表しているのもわかった。
と、考えたまでは良いのだが、最初の写真を見ると気がかりなことがあった。それといえば、変わらぬヴィナスの姿である。幼さの残る顔に娼婦の如き身体は10年早めても100年経っても変わらない。私はこの女がいくつなのか知らなかった。18そこらだと思い込んでいたのだが、まさかタービンの止まった日から生きていたとは考えられない。
しかし……考えても仕方の無いことだった。もしそうでも、私にどういう障壁もない。私は昨日のことを思い出して、部屋を掃除しなければならない、とブードゥー教徒のいた部屋へ足を運んだ。昨日に散乱した土塊は、なぜだか今日にはなくなっていた。 それは実に恐るべきことなのだが、もし昨日のものがマーキュリーの幻影なら、それもありえなく無いと納得することにした。代わりに部屋の真ん中には昨日気づかなかった─────あるいは今日、唐突に現れたのか─────一冊の分厚い本が落ちていた。近づいてよく見てみると表紙は茶色くて、黄色い線で魔法陣のようなものが描かれている。魔導書だろうか。手に取ってパラパラと捲ると、日付の下に少量の文が書かれており、なんということはない、ただの日記のようだ。
と、目の端に「拉致」の字が映った。普通の日記で書かれる単語ではない。少しばかり驚いて、そのページに戻ると、日付は確かに2月15日、つまり、一昨日。私が拉致された日に相当した。それにしたって日本の暦を使うのか?
2月15日
双児之星、今太陽之日也。
蓮の子休不、只CHEMICALを手に。
青之辺獄へと拉致、双人殺め爲。
獄中死不免。賢人生まれし。
2月16日
暗石、時を変える有。
清石鉱、鉄化のMACHINEに生産。
成るは人の愛也。
熟し期、之日の昇る仁。
これがまたなかなかわからない。どういう意味だろうか。一日目のものは私のことを書いていると考えられるが……双児之星とは地球だろうか。それで太陽之日とは。そうだな、その日は日曜だった。双人とはあの双子のことで、賢人とはマーキュリーのことではないか。
そういえば、この本を日記だと思い込んでいたのだが、この下には今日の日付が書いてあった。私はこの本がヴィナスの言う「神の書」であることを理解した。非科学を信じない私ではあるが、予想程度なら誰でもできるのだから予言の書の存在くらい否定しない。これだってそれらしいことを曖昧に書いているか、あるいは寄って集って私をだまくらかそうとしているだけなのだ。それで、今日の内容とはこうである。
2月17日
日は東、歩むは朝日の方角有。
蓮の下、MOTHERの眼差し在。
解離せざる暗人、汐満つる也。
青之辺獄、西に終結、之人為。
仮に、仮にこの予言が正しいとすると、私は今日一体何をするべきなのか、あるいは今日何が起こるか分かるはずなものだが、これもまたなかなかわからない。意味の通らない詩か何かだろうか。かえって難解にしている。もしもこの文章が本当に予言しているというなら、私は今日中にこれの意味がわかっているはずだったが、しかし、にも関わらず、到底理解できそうにない。
主語くらいはっきりさせてほしいものだ、などと小言を言っていると、丁度そこへヴィナスが来た。ヴィナスに問う。
「文章通りにしてみるのはどうですかね」
冗談を言うなこんな状況で。と、思ったが、他は抜きにして最初の一文くらいは再現できそうなものである。そもそも、この環境下でヴィナスと違った考えを持とうということ自体が間違いなのだ。そういうわけで、私はタービンの場所を突き止めるために、あらゆる手を尽くそうと考えたのだった。
「ヴィナス、東はどっちだろうか?」
「あちらです」
と言ってヴィナスの指したのは日の少し傾く方向、それも、このフローズン・ビーチ沿いの家とは反対の方向である。これはつまり、海とは真逆の、要は、私が来た方向のことなのであった。
「なるほど、つまり歩むは朝日の方向、私が来た道を戻れば良い、ということか。しかし、私は来る途中にそんなものは見なかったぞ…?」
「私はホピのものですけれど」おもむろにヴィナスが喋る。「ナヴァホ族の言い伝えではこう言われます。『救世主は日の昇る方向からやってくる』と」
「……それがどうした?」
「東から来たものはどこへ行くと思います」
あきれたものである。
「わかっているなら最初からいえばいいものを、なぜ一度私に恥をかかせる」
ヴィナスはそのとき初めてすぐに返答しなかった。クスクス笑った後、ようやく「蓮さん、私が知っているのはもうここまでですわ」と返した。
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