一日目 深夜
「アレ」はできるかぎり漏らさず姉を抱き上げた。どうやら、研究所へ持って帰るつもりらしい。妹はアレに問う。
「先生、なんて名前?」私は白衣を着ている。先生、と呼ばれるのも無理はない。
「
聞いたことのない名前だ。
自分の名前を迷わず言ったところを見るに、偽名は使っておらず、おそらくこの清という人格は、私の知らぬ間に形成されたものだろうという予想は簡単であった。
「お前は」清は勝手に聞く。
「マオ。おねえちゃんはセレ」
しかし、今は清の人格が主であるとはいえ、私にも意識と感覚はあるわけで、その、私も慣れているにしたって、清ががっちり掴んだ内臓の感触や血の臭いは不気味なほどに強烈だ。
蝶と潜水服という話があったが、意識はあるが体が動かない男はこんな気分だったのだろうか。
こんなに人間の形をしていないものを持っていては正気が保てない。なんども気を失いかけたが、清は構わず突き進む。
清が研究所に着く頃には、地球でいう午後8時頃を回っていただろう。朝見た上弦の青い月は、今なお砂漠を照らし、煌々と光っている。ああ、あれは一体なんなのだろうか───────
そんなことを考える私をよそ目に、清は廃墟、もとい研究所に入るなり、石のベッドの上にセレを投げ出して手術器具をセットする。
────それ、どうするつもりだ?
「無論、手術、するのさ」
流石は自分の人格である、思ったことは筒抜けだ。口で喋る手間は省けた。
「マオ、聞き手はどっちかな?」
「両利きなんだ」
「へぇー……それはいいね」
清はニッガと口の端を歪めた。私はそれから伝わってくる感情が恐ろしくてたまらなかった。
「おねえちゃんを助けるためなら、もちろんなんでもするだろう?」ゲェ……!私にそういう趣味はないぞ。
「するよ」
「おねえちゃんの隣に寝たまえ」
「わかったよ!」
ああ、思うより穏便に物事は進んだ。もっとも、その後に起こったのは決して穏便ではなかったし、その時のマオの笑顔と、最期の言葉は何をもってしても、忘れることはできないだろう。
「おねえちゃん、もうすぐ助かるんだよ!」
そうして手術は始まった。これをどうするつもりだろう。もう生きる術はないだろう。私が動かせたのは口や声帯の共通の音源器官だけであった。術中何度もやめろと喚いた。清は私の声を振り切るように幾度も鋭くかぶりを振ったが、アレの手は止まるところを知らない。
しかし─────こう目の前に、少女の裸があるのを見ると─────ある種の情感────いわば、リビドーの昂進なるものを感ずる。性情?ウゲ、気持ちの悪い。
「お前って変態?」
馬鹿野郎、お前には言われたくない。しかし、しかし───この男の腕の正確なことといったら────私以上に、上手い────首筋にメスが立てられると、華麗に飛び散る血で顎は真っ赤に染まり──────細い腕を伝って──────脚は赤く濡れ──────HOW SEXUAL──────意思は喪失される───────
手術、またの名を人体実験は、清が血に汚れた白衣を脱ぎ捨てることで終わった。白衣の落ちる音で目覚めた私は、急な肩の軽さと目の前の光景に驚いた。
「ハラショー、新人類たちよ!見てくれ蓮、成功だ、成功したぞ、ハハハ!」
私の表情筋は緊張しきって満面の笑み。だが私自身は信じることができない。つまり、この姉妹は、清、あるいは私の手によって、人工シャム双生児となったのだ。
人工シャム双生児──────古くナチスでは、何人もが犠牲にされた、いわゆる、モルモットの成れの果てである。しかしこれが─────たった一回の、それもほとんど素人の手で、成功するのか?人工シャム双生児が生きながらえたという話は聞かない。できるものか。それにこんな環境では、じきに感染症かなにかで死んでしまうに決まってる。
と、そのとき双子は目を覚ました。
「やったよおねえちゃん!おねえちゃん助かったんだよ!」
ああ、憐れな。マオは何にも知らぬのだ。あの表情からは、微かな痛みもないのだろう。清の腕の良いことといったら。
だが────セレはきっと、すべてわかっていたろう。自分がこの男、清ではなく、私に何をされたのか。自分たちは普通に生きることができるのか─────なんだってわかっていたろう。
セレの失明した右目は、清の手によって白い部分を黒く染められ、真っ赤な虹彩を施されている。その眼から漏れ出る憎悪の色は、清を、私を恨んでいた。確実に、後少しのところで喉笛をやられていただろう。
「おねえちゃんやめよう。おねえちゃんは助かったんだから。先生、ありがとうございました」
すんでのところでマオは牽制し、それから私に一礼した。体の構造上、セレも軽く一礼。
と、その瞬間研究所の戸を叩く者があった。清はしぶしぶながらも戸に向かう。
「こんにちは。あの、ここが救世主の」
戸の向こうにいたのはまるで日本軍のような格好をした若い青年だった。
丁度その時、姉妹が研究所を出ていこうとしたところを、青年は目で捉えた。
「彼女たちは?」
「さっき治療したのだ。お前は誰だ?」
「僕は禅六といいます。以後よしなに。彼女たち、もらってもいいですか?」
意外な言葉を聞いた。だがそれは憐れな彼女らのため。引き取ってもらうが吉だろう。
「好きに持っていけ」
清は身を翻す。その時私は目の端で、姉妹が安堵の笑みを零すのを見た。禅六は2人を連れ、戸を閉めた。
これでよかったのだ。これがよかったのだ。彼女らはもう親に見放されて死ぬしかなかったろう。どんな形でも、愛を受けられるのが幸福だろう。
清はベッドの周りを掃除すると、その近くの石にどっかりと腰掛けた。そうして身を投げ出すと、指先から力が抜けていくような気がした。清の意識が消えていったのだろう。
そうしてすぐにヴィナスは帰ってきた。
あんまり疲れたのでしばらくは微睡んでいたのだが、ヴィナスに聞いておきたいことを思い出し、夢現に聞いた。
「ヴィナス、あの青い月は、一体なんなのだろうか」
ヴィナスは自身が座っていた石机から立ち上がって「じゃあ、外に行きませんか?」と聞いた。
「疲れているんだが」
「いいですから、ほら、すぐですよ」
ヴィナスが急に手を引っ張るから、私は強制的に外に出された。
「あっ」
思わず声を漏らす。
砂漠は光を受けて青光りしている。上は満点の星空。深く黒い海の中を、いくつもの星雲が泳いでいて、さらにその星たちはプラネタリウムのように砂漠に映し出されている。なんと麗しいことだったろう。私は急に涙がこぼれそうになったので、手の甲に爪を立てるので精一杯だった。
「それで、青い月は?」
ひどく美しいのから目を背けようと、半ば強引に問うた。
「あれは月などではないのですよ」ヴィナスはおもむろに足元の砂を避けて何かを取り出す。「これで覗いてみてください」
渡されたのは細長い8面体の、ただの綺麗な結晶のように思えて、黒くて半透明のそれは、空にかざせば溶けてしまいそうだ。
言われるがまま、結晶を覗き込む。
「そんな……」
形状から月だと思っていたそれは、私の故郷である、地球だったことがわかったのだ。
「どうして……こんなにも近く……私はこの星を知らないはずだ」
「もちろんのことです。この星は、そもそも存在しないはずの楽園だったのです。」
「楽園……」ああ、この星もまた、かつては栄えていただろう。それらはすべて、タービンの恩恵か─────
「蓮さん」ヴィナスは私に向き直った。「この星の自転は正確ではありません。ホピ族の伝統では、こう、手を叩くことで正確な自転にすることができます」
二度手を叩いてみせる。そんなことが有り得るのか?いや、この星のことだ。
「……こうか」手を叩く。
それと同時に、青い月は見えなくなってしまった。
「消えたのか」
「いいえ、今は見えなくなっただけです。きっとまた見えますよ」
ヴィナスの顔を見ていると、先程の出来事を隠してはいられないような気がした。
「ヴィナス、ヴィナス聞いてくれ。私は、私はさっき人を悲しませたんだ」
「そうですか……それは悲しいですね。あなたは悲しいですか」
私はヴィナスの頭に軽く顎を当てる。
「ああ悲しい、とても悲しい。私は気狂いだ。ああ、詳しくは後で話そう。今は無理だ」
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