一日目 夜

もうすぐ日も落ちる。明日の日のなんと憂鬱なことか。頭が痛くて敵わん、医者失格か。今日は今日とて何もしていない。

世界タービン。どこにあるだろうか?

「速い車さえあれば……」ふと呟くのを献身の権化ヴィナスは聞き逃さなかった。間違いなく、窓の外で真っ赤なスポーツカーが通り過ぎていった。そうじゃないんだ、そうじゃないんだヴィナス。気持ちは嬉しいが。なんとなくここで起きることが理解できてきた。

多分、ヴィナスはなんでも出せる。

「卵」

ほら出てきた。せめて手で渡してくれなければ、見ろ割れた​──片付けてくれ、と言う前にヴィナスは片付け出す。そうか、知ってるのか、卵​────

どこからともなく物を出すなんて本当に有りうるのか?

「もちろん。丁度目の前で起こっているじゃないですか」

これには閉口する。テレパシストなんて考えてもない。とすると私の恋心も​──​─恋心?

恋心か、私も妙なことを言い出すな。この星の気にでも当たったか?馬鹿らしい。

しかし​────ヴィナスを見ていると​動悸が激しくなる。体は熱いしきっと顔は紅潮している。これも知れているとなるとこんなところには居ても立ってもいられない。心なしか吐き気もしてくる。思わず家を飛び出す。

ゲェ、頭が割れるように痛む。視界はぼやけて意識は朦朧とし、あっ、まずいな、と思うより早く体が前のめりに倒れる。

と、自身の意識が薄いにも関わらず両手が砂の床を押し返した。感覚はあるが自分の意思ではないことに疑問を抱くが、そんなことには目もくれず、「自分」は勝手に動いて喋る。

「恋心……?」自分の声であるはずなのに、まるで地の底から響くように低く邪悪だ。悪魔の声は続ける。

「蓮も馬鹿な奴だ。こんな男に心などあるはずがない。ああそうだ、お前だ、蓮」

「自分」は自身の右肩より後ろを目で追う。

「恋心など人間のエゴによって名付けられた感情のバグと相違ない。愛。友情。有り得ない。あのようなものはトチ狂い、忘れろ、忘れろ。忘れるが得よ」

「自分」は髪をかきあげると、どこかへと歩き出す。

解離性同一性障害の授業は申し訳程度に受けたが、本来別人格の意識はなく、記憶の共有はされないと習ったはずであったから、これがごく一般的な多重人格と違うというのは容易に想像できた。解離性同一性障害は過去のトラウマなどから起こるそうだが、私にはめっぽう心当たりがない。

この男、意思疎通はできないか?発言しようと試みる。

「あんた誰?」なんとか共通の声帯から発声した。

「お前は知らないだろうな」

「知るものか」

アレはそれきり黙ってしまった。私はどこへ向かっているのか?


少し歩いたところに2人の少女がうずくまっていた。数少ない生命体だ。しかしあたり一面真っ赤になっている。血かもしれない。いつもならいきなりなもので焦燥するところだ。しかしアレは違った。口角は痛いほど上がり目を見開いて、それはなんだか幸福そうだ。

急に顔の筋肉が一気に緩んだのがわかった。いかにも、真剣そうな顔つきになる。

「どうしたんだ」アレは至極冷静に歩み寄る。意外な行動だ。

「おねえちゃんが轢かれた」付き添っていた方は妹らしい。姉妹2人は気味悪いほど真ッピンクな髪を二つに高く結って、残った後ろ髪を降ろしている。妹はその結った髪の短い方だ。

ン、轢かれた?この星に人を轢くようなものはなかった。

いけない、さっきのスポーツカー。それ見たか!とアレは軽く口角を上げてみせる。

悪い、それより姉の状態を見せてくれ。アレに思うと、待ってましたとばかりに姉を覗き込む。

酷いものだった。左半身はぐちゃぐちゃに潰れており、何かの破片が飛び散ったのか右目は破けて半透明の液体が流れている。赤や紫の色鮮やかな内臓は、絡んで茶色く染まっていた。

この状態で活かすは可哀想だ、殺してやるが良いだろう​────などいう極めて真っ当な考えはこの熱心な妹の眼差しと、アレの行動の前でガラガラと崩れ去った。

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