第30話 待ち合わせ
千尋は公園を指定した。
できれば静かで、人がいなくて、暗くてじめっと落ち着いた公園がいいと言われ、じめっとした公園は落ち着きません、と返した。千尋は本当に渋々といった感じで、なら人がいなければいいと妥協した。じめっとしている方が落ち着くなんて相当変わっている。
みさきが提案したのは、だだっ広い敷地内に遊具が一つもない、子どもに不人気の公園だった。すぐ近くにアスレチックが充実した公園があるため、子ども達はそちらに流れてしまうのだ。
夕方、待ち合わせの時間近くに行った公園には、想像通り誰一人いなかった。
東屋のベンチに腰を下ろしたみさきは、『本当の姿を見せたい』という千尋の言葉を、胸の内で反芻する。小説家だという秘密を打ち明けたから、勢いで全て話してしまおうということなのだろうか。言われた時は正直突然のことすぎて戸惑いの方が強かったが、今は喜びに変わりつつある。
どんな顔をしながら来るだろう、どんな姿で、どんな歩き方で、どんな気持ちで。想像するごとに、嬉しいという感情が体を支配していく。ベンチにじっとしていられなくなるくらいソワソワする。
待ち合わせ時間になり、みさきは周囲に視線を巡らせた。オレンジを帯びた日差しの中、遠くに人影を見つける。
千尋かと緊張が走ったが、人影は公園の入り口に立ったまま微動だにしない。さすがに怪訝に思って腰を浮かせた。すると人影は、動揺したようにその場を右往左往する。みさきは半眼になってサッと走り出した。20m程の距離をあっという間に縮める。
「ここまで来てビビらないでください!」
「うわぁ!」
今にも逃げ出しそうだった手をぐいっと掴む。悲鳴が上がるも無視だ。
「ま、待って。ちょっと、離して」
「離しません。逃げるでしょ?」
「にっ、逃げない!逃げないから!お願い離して!」
やけに切羽詰まった声に、拘束をゆるめた。素早く手を取り返されて複雑な気持ちになる。これでは婦女子に襲いかかる暴漢のようではないか。
「ちょっと、落ち着かせて………」
千尋は背中を向けてしまっているが、みさきは黙って見守った。普段の彼と比べ、言葉を覚えたばかりのように話し方がぎこちないし、声も上擦っている。
「まず、説明させてほしい。オレは…………女性と接することが、極端に苦手なんだ」
「え。そのまま話す気ですか」
千尋は背を向けたままだ。
「あの、もうちょっと待っ、」
「こっち向いてください」
「……せめてもう少し距離を、」
「顔を見て話したいの」
つべこべ言わずにこっちを向け、という圧を込めた。イラついているのに、みさきの口元はいつの間にか微笑を浮かべていた。母に似てきたのかもしれない。
「……………分かった」
ようやく覚悟を決めたのか、はたまたみさきの迫力のためか、栗色の頭が、ゆっくりと振り向く。
顔の印象は、あまり変わらなかった。線が細く、圧倒的な容貌。ただメイクを落としたためか、女性らしさは抜け落ちていた。男性的という程ではなく、月並みな言葉で表現すると王子様のよう。美術館や図書館が似合う静謐な美貌。
美貌は女装時と同じなのに、親しくなければ同一人物と気付かないかもしれないと思うのは、いつも口元に浮かべていた微笑みが消えているからだろう。たおやかで清楚だった雰囲気が、若干硬質なものに変化していた。
無地のワイシャツとデニムというラフな格好だったが、スタイルのよさが際立っている。そしてその顔は――――――体調が心配になるくらい真っ赤だ。
あまりの赤さに絶句していると、少しも目を合わせようとしない千尋はますます赤くなった。
「や、やめて。あんまり、見ないで。見られてると思うだけで、恥ずかしいんだ」
赤い顔を心配して見つめると、恥ずかしさからさらに赤くなる。さらに心配になって凝視する。さらに赤くなる。なんて悪循環だ。
口をあんぐり開けていると、千尋は弱々しい声で言った。
「じょ、女装を、始めたのも、このためだったんだ。緊張して、どうしても上手く話せない、オレを見兼ねて、恭矢が、女装の提案を、してくれたんだ」
そういえば、友人に女装を勧められたと以前話していた。恭矢がその友人だったと分かると、苦労しているのだろうと同情した当時の自分が愚かに思える。
たどたどしく、それでも懸命に千尋は話す。みさきも辛抱強く続く言葉を待った。
「女性の、格好をしていると、自分も彼女達に、近付いた気がして、滑らかに、話せるようになったんだ。それに味を占めて、何度も女装した。オレは、いつの間にか、どうしても必要な時……例えば、出版関係のパーティに、呼ばれた時とか、以外―――女装じゃないと、外を歩けなくなった。……怖かったんだ。本当の自分を、晒すことが。オレはひきこもりで、どうしようもなく暗くて、弱いから……ずっと自信が持てなかった」
夕方になり暑さも和らいでいるのに、千尋は沢山汗をかいている。それだけ必死なんだと思うと、ぎゅうっと胸が詰まった。年上なのに守ってあげたくなる。
「必要に迫られたわけでもなく、素顔を晒したのは、もう何年ぶりだよ」
汗を拭いながら千尋が笑った。凍える程寒い日、温かい家に帰ってきた子どものような、ホッとした笑顔。
「凄く、怖い。今も。でも―――君には、本当の自分を、見てほしかった」
嬉しい。千尋の真っ直ぐな気持ちがあまりに心地よくて、泣きそうになった。
二人の間を優しい風が吹き抜ける。
ひどく温かな気持ちになって、みさきは微笑んだ。
「……髪は、どうしたんですか?バッサリいきましたね~」
あえて話題を変えるように、容姿について訊いた。少し長い前髪をいじりながら、千尋が答える。
「これは地毛。あっちは、ウィッグだよ」
「え!それにしては、髪色が全く同じ……」
「地毛と、全く同じ色のウィッグが、なかったから、作ったんだよ」
「え」
完璧主義だろうな、とは思っていたが、想像以上に徹底している。赤面事件と同じくらいあんぐりしてしまった。
「わざわざ?」
「……悪かったね。変な所にお金をかける男で」
別に責めた覚えもないのだが、彼の地雷だったようで急に落ち込みだした。
「どうせオレは、面白味のない人間なんだ。服にもお金はかけたくないし、食事は最低限おいしければ十分だと思うし、お酒も嗜む程度だしギャンブルも興味ないし、夜の遊びも好きになれないし。こんなことくらいしかお金の使い所がないんだ」
「うんまぁ、後半はハマッたらマズいと思うので、面白味どうこうの問題じゃないと思いますけど」
みさきは笑ってしまった。落ち込みすぎて、本人は気付いていないのだろうか。
「よかったですね。緊張がほぐれたみたいで」
小首を傾げておどけてみせると、千尋は呆け、ゆるゆると口元を手で覆った。
「………あれ?オレ、普通に喋れてた?」
「多分、意識しすぎるのがよくなかったんですよ」
みさきを全く女と認識していないということなら、それはそれで複雑になるのだが。
「……オレ、女の格好ならうまく喋れるかなって、みさきさんに話しかけたんだ」
「それって……初めて色々話した時の?」
微妙に顔をしかめたのは、みさきにとって複雑な感情を呼び起こす出会いだったからだ。『コマネズミ』のようだと言われたことは忘れていない。
「私あの時、バカにされてるんだと思いましたけど」
「馬鹿に?」
「ネズミみたいだって言われましたよ」
少し恨みがましく言うと、千尋は困ったように首を傾げた。
「コマネズミって、知らない?白くてフワフワで……オレは動物の中で、一番可愛いと思うのだけど」
「かわいい……?」
「みさきさんはいつも明るくて、クルクルとよく動いていて、コマネズミみたいだ。悩んでいる時とか、君の笑顔に随分励まされたよ。だから、仲よくなれたらいいな、と思ったんだ」
まさか褒めていたとは。というより、過分に評価されすぎて恥ずかしい。一番可愛いという言葉が頭の中で反響して、つい赤くなってしまった。今さら彼の真意を知って、何だか面映ゆい気持ちになる。
みさきは悟られないように俯いて話題を変えた。
「さ、さっきの話ですけど、楽しいことなんて人それぞれだと思いますよ。千尋さんは、小説が好き。それでいいんじゃないですか?」
落ち込むことはないと励ますと、千尋ははにかみながら頷いた。
「……うん。実は、明治⋅大正の文豪の初版本を古書店で見つけたら、幾らだろうと買うようにしてるんだ。これだけはお金がかかるけど、有意義な趣味だと思ってる」
「うわぁ……」
初版本といえば、高いものではかなり高額になる。有名な文豪の作品全集の初版本など、全巻セットで数百万はくだらない。
「まさにお金持ちの道楽ですね~」
「悪かったね」
「今度それ、見せてくださいよ」
「いいけど、達筆過ぎて読めないと思うよ?絶対汚さないでほしいし」
達筆すぎるだろうし、使用される言い回しも難解すぎて分からないだろう。みさきの場合、ただ雰囲気を味わいたいだけだ。
「そんな高いもの汚せませんよ。というか、本当に好きなんですね」
好きな物の話だからだろうか。千尋はますます滑らかに喋る。
「だって、すごいと思わない?人の一生は一瞬で、創造した物も束の間で消えてしまう。けれど歴史に名を残す文豪や思想家の言葉は、千年経っても色褪せずにそこにある。―――オレもいつか、そういう作家になりたいんだ」
少年のように瞳を輝かせる姿に、みさきは笑った。
「なれますよ。私もなりたいです」
「……君は、ちょっと、うーん」
「失礼すぎませんか!?」
怒っていたら、夕方の鐘が鳴った。そろそろ帰って夕飯の支度をしなければ。
「そうだ。千尋さん、今日はどうします?うち、食べに来ます?」
公園を出て、くるりと振り返る。
食事会の約束はしていなかったけれど、このまま別れるのも寂しい。
千尋は渋い顔で煩悶した。
「う~ん………。ぜひ、と言いたい所だけれど、君のお母さんとも、きっと上手に話せないよ」
「少しずつでも慣れた方がいいですよ。うちの中でリハビリすると思って」
みさきが押すと、彼は迷いながらも頷いた。
「……そうだね。それに、君と一緒なら帰り道は辛くないかも」
「辛かったんですか?」
「視線も向けられたくなくて、ほぼ競歩で来た」
普通、競歩している男の方が奇異な目で見られる所だが、そう言い切れないのが千尋だ。彼の端整な容姿は、視線を惹き付けずにはいられない。
「……道のりは果てしないですね」
二人して遠い目をしながら歩き出した。
そういえば、みさきは最も気になることを質問していない。
千尋がもしかしたらゲイかもしれないと気付いた時は、衝撃で立ち直れない程のダメージを負ったけれど、今はまた前向きに努力を続けようと思っている。みさきだって女装している千尋を好きになったのだから、性別を越えたようなものだ。
何より、彼が恥ずかしい気持ちを飲み込んで、全てをさらけ出してくれたから。みさきは思いきって口を開いた。
「ちなみに、貴司恭矢さんとは仲がいいんですか?」
何気ないふうを装って聞く。ちらりと横顔を盗み見ると、千尋はハッとする程綺麗に微笑んでいた。
「恭矢は友人だよ。とても、大切なね」
「……………」
何とも微妙な返答に、みさきの疑念が払拭されることはついぞなかった。
―みさきの想いが実るのは、もう少し先のこと。寂れた公園の唯一の取り柄とも言える桜が、美しく舞う季節。正しくこの場所で。
……けれどそれはまた、別のお話。
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