第29話 千尋の正体
井上様宅を辞し、階段を下りきると、みさきは息をついた。
「やっぱり、全然いい人でしたね」
「そうだね……彼なら本当に、心配する必要なかったね」
実直そうな眼差しを思い出し、息をつく。前方をノロノロと歩いていた千尋も頷いた。
「お知り合いなんですか?」
「え」
「『彼なら』って、以前から井上様を知っていたような口振りです」
みさきは答えを分かっていながら聞いた。井上様を訪ねた時の挙動不審さは、おそらく知り合いだったからなのだろう。必死に隠れた理由も想像がついた。
――女装時の知り合いじゃないんだな。だから見られたくなくて、隠れた。
先日二人で行ったレストランも女装していない時の行きつけだったが、あのシェフ達の前では堂々としていた。そこから察するに、井上様はおそらく、彼らより近しい関係なのだ。
しばらく狼狽えていた千尋だったが、返事をじっと待つみさきに観念した。
「うん……まぁ。顔見知り程度だけれど」
普段滑らかに歯切れよく話す彼が言い淀むということは、これは彼の素性に関することなのだろう。千尋は秘密が多い。
今までは、彼が話したくなる時まで待とうと思っていた。けれど、心にずっと引っ掛かっている光景がある。それすら我慢すべきなのだろうか。
「あの、」
車に向かう途中、みさきは立ち止まった。千尋が振り返る。
「この前、配達途中で、千尋さんを見かけたんです。その時千尋さんは……………一人じゃなくて」
「―――あぁ、恭矢といた時か」
顎に手を当て考え込んでいた千尋が頷いた。
恭矢。とても親しげな響きだ。聞くのが怖くなってまた気持ちがしぼんでしまう。
――でも、知りたい。
こぶしを握り、みさきは顔を上げた。覚悟を決めた眼差しが千尋を貫く。
「あの人は―――…」
「よぉ千尋!」
質問は第三者の声によって阻まれた。声のした方を振り向き、みさきは目を見開く。笑顔で近付いてきたのは、件の男性だったのだ。
短い黒髪に精悍な容貌、細身のスーツがとてもよく似合っている。遠目には分からなかったが、清潔感の中にも大人の魅力を感じられる男だった。笑うと下がる目尻に何とも言えない色気がある。
近くで見るとやはり大きく、180㎝くらいありそうだった。女性の平均身長はあるのに、この二人に囲まれていると、みさきは小人にでもなった気分だ。
存在感を消して見守っていると、恭矢という男が千尋の肩を親しげに抱いた。ちょっと距離が近すぎやしないだろうか。
「お前、こんな所で何してるんだよ。なんだ、デートか?」
「お前こそ……あぁ。もしかしてお前、井上さんも担当してるのか」
「担当は別のヤツなんだけど、千尋の家と近いから様子を見てきてほしいって頼まれちゃってさ。まぁ井上さんとはそこそこ面識あるしな」
井上さん、というのは、もしかしなくても井上陽一のことだろうか。なぜ彼の名前が、と驚いたが、軽やかなやり取りに口は挟まなかった。挟むタイミングもなかった、というべきか。
「で?なにこの子は」
会話の矛先がみさきに向いた。恭矢の視線に縫い止められたように固まってしまう。
じろじろと無遠慮に全身を眺め回される。セクハラだと感じないのは彼の清潔感と、視線に一切いやらしい感情が含まれていないからだろう。
このイケメンに見つめられれば喜ぶ女性は多いかもしれないが、みさきは不愉快だった。小馬鹿にしきった空気をひしひしと感じるからだ。
「ふーん。普通なカンジがいいね」
下された評価にこめかみがひきつった。自分が十人並であることは十分承知しているけれど、全く知らない人間に馬鹿にされる覚えはない。みさきはぬるい笑顔を作り、千尋を見上げる。
「……千尋さん。何ですか、このいちいち癇に障る方は」
初対面であることと千尋の知り合いであることを十分考慮した上で、相手の非礼に上品な無礼を返す。
意外な反応だったのか、恭矢は吹き出した。笑いの沸点が低そうな男だ。
「すいませんね。俺はこういう者です」
お前には聞いていない、と思ったが、差し出された名刺をごく自然に受け取ってしまった。有名な出版社の名前と、編集部という字を目で追う。そして彼の名前に視線を移した。
「……………貴司、恭矢?」
覚えのある名前、なんてものではなかった。
「これ………え?どういうことですか?」
貴司恭矢。それは先日千尋と観に行った映画の、原作者の名前だった。
「あなたが、貴司恭矢先生?小説家の?」
病的なまでに潔癖な文章を生み出す、いつか自殺してしまいそうな雰囲気プンプンの、あの貴司恭矢?物凄く気に食わないこの人物の小説を、自分は今まで嬉々として読んでいたのか。
目の前の人物とのイメージがどうしても一致しなくて、混乱しながら千尋を見た。
「……映画の試写会に招待されたのは、貴司恭矢先生と知り合いだったから?あれ?でも名刺には編集部って………」
千尋は非常に困った顔をしている。それは説明しあぐねているからか、まだ話したくなかったからか。
勝手に推理を始めようとしていた思考が停止する。彼を困らせることはしたくないと、頭が考えることを拒否する。
――でも、このままじゃ嫌だ。
みさきはもう一度、こぶしを握った。
「千尋さん、教えてください。私、知りたいです―――あなたのことが知りたいんです」
千尋はゆっくりとめを見開く。
いつか推理してみせると豪語していた少女がみせた、初めての歩み寄り。
千尋は一度強く瞑目し、覚悟を決めた。
「オレは―――――オレが、貴司恭矢だよ。小説家の、貴司恭矢だ」
みさきは呆然と千尋を見返す。彼は恭矢に視線を送った。
「こいつは、高校の同級生なんだよ。ペンネームが『貴司恭矢』なのは、小説を投稿する時適当に恭矢の名前を拝借したら、うっかり入賞してしまったからでね。まぁ訂正することもないかとそのまま使っているんだ。たまたま出版社に就職したこいつは、今はオレの担当。みさきさんが偶然見かけたっていうのも、打ち合わせで会っていた時だよ」
まだ理解が追い付いていないみさきを置き去りに、説明が続いていく。綺麗な声が右から左に流れていく。
――千尋さんが、小説家の『貴司恭矢』。
チャラそうな貴司恭矢本人よりも、よほどしっくりくる。千尋は繊細で、どこか浮世離れしているから。
それは試写会にも招待されるだろう。原作者本人なのだから。あの日は『貴司恭矢』欠席ということだったが、本当は会場にいたのかと思うと少し面白い。
――挨拶に来ようとしてた男の人は関係者だったんだ。でも女装時だったから、気付かなかったんだな。
正真正銘の小説家相手に『小説家になりたい』と宣言していたこれまでを思うと何やら気まずいが、メディアへの露出を避けるあの『貴司恭矢』が目の前にいる興奮の方が大きい。みさきが感動に浸っていると、本物の恭矢が千尋の肩を叩いた。
「よく分からんが、俺は行くぞ。井上さんにもう連絡入れてあるんだ」
「あぁ。色々苦労しているようだから、あまりいつもの調子で馬鹿なことばかり言うんじゃないぞ」
「分かってるよ。――またな。えっと、みさきちゃん?」
みさきに片目をつぶってみせて、恭矢は颯爽と去っていく。
千尋との会話から名前をバッチリ拾っているし、いきなり『みさきちゃん』。もうチャラ男確定だ。『また』なんてあり得ない。絶対二度とお近づきになりたくなかった。しかも千尋との関係も、まだはっきりしていない。高校の同級生以上の関係という可能性は十分にある。嫉妬など様々な感情を込めて、やっぱり好きじゃないな、と思った。
アパートの階段を上っていく軽快な後ろ姿を睨みながら、そういえば、と千尋に向き直る。
「井上様とは、結局どういう知り合いなんですか?」
「あぁ。彼も物書きなんだよ。芹沢陽一って、知っている?」
「知ってます!え、井上様が!?」
『貴司恭矢』程有名ではないが、一定のファンがいる作家だ。彼の心理描写は凄まじく胸に迫ってくるので、登場人物にもれなく感情移入してしまうと評判だった。
もっと沢山顔を見ておけばよかった、いやこれからも配達がある、とみさきが再び興奮していると、千尋が心細げに俯いた。
「……オレのこと、嫌じゃない?」
「? なにがです?」
憧れの小説家だったという事実の、どこを嫌えばいいのか。ずっと黙っていられたことは少し悔しいが、話してくれたのだからもう構わない。
心底不思議そうに問い返したみさきに、千尋が頬をゆるめた。
「嫌われていないなら、いいんだ。……何だか散々な言われようだったから、正体を明かしたら引かれてしまうかもと思っていたよ」
みさきの脳裏に、千尋本人の前で繰り広げた批評の数々が走馬灯のようによぎった。頭がおかしい。狂ってる。精神病院を紹介したい。
ざぁっと音を立てて血の気が引く。
「すすすすすいません!あれは、ホントに大ファンで、悪い意味では決してなく!」
「いいんだ。自分の批評を間近で聞くっていうのも新鮮だったし」
「あぁぁあぅうぅう~」
最早言語にならない後悔が唇からこぼれる。死にたい。夜中のテンションで書き上げたラブレターの朗読を、好きな人に聞かれてしまったくらい恥ずかしい。
「本当に、気にしないでほしいな」
「でもでも、」
「じゃあ……一つだけ、お願いを聞いてくれる?」
「日本に自生するトリュフを見つけてこいと命令されても遂行してみせます」
「え。トリュフ?あるの?よく分からないけど、混乱しすぎて思考が迷走してない?そんなこと言わないし、命令もしないよ」
見たことはないが、日本でもトリュフは自生しているらしい。意外にも公園など街中で発見されるとか。
千尋が言うならトリュフハンターになったつもりで探し回ろうと悲壮な覚悟でいたが、『お願い』は意表をつく内容だった。
「明日、時間があったら、外で会いませんか?」
「……………へ?そんな簡単なことでいいんですか?」
配達を急いで終わらせれば、夕方には時間ができるはずだ。
呆けたみさきに、千尋が柔らかく微笑んだ。いつもの清水のような笑みなのに、瞳の奥に強さが見えた。
「明日、男の姿のオレと、会ってほしい」
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