第28話 彼の理由
「ヒャアッ!」
「うわぁ!」
みさきの悲鳴に返ってきた声は、とても馴染みのあるものだった。
目を見開いて勢いよく振り返る。そこにいたのは想像通り、千尋だった。
「千尋さん!?」
「びっくりした。驚かせないでよ」
「驚いたのはこっちですよ!なんで千尋さんがここに!?」
マスタードイエローの五分袖ブラウスにネイビーのロングスカート、日差しが強いからかつばの広いストローハットを被っている。いつも通りの彼だが、どこか気まずげだ。
千尋は何やら遵巡していたが、迷いを振りきるように頭を下げた。
「ごめん」
突然の謝罪にみさきは戸惑う。帽子の陰で、千尋の端整な顔が苦しげに歪んでいた。
「君は、大丈夫だって言ったけど……どうしても不安で。お母さんに連絡をして、例の配達が今日だって、教えてもらった」
千尋はもう一度頭を下げた。今度は先ほどよりも深く。
「ごめん。みさきさんが何と言おうと、やっぱりオレは君が心配なんだ。でもこれは、オレが勝手に心配しているだけだから……君を怒る権利なんてなかった。この間はオレの我が儘で嫌な気分にさせて、本当にごめん」
これだけ真っ直ぐに謝罪をされては、素直になるしかない。みさきは胸のモヤモヤが和らいでいくのを感じた。
「私の方こそ、あの時は真剣に聞かなくてごめんなさい。……今さら、千尋さんが言ってた意味が、分かりました」
仕事人としての矜持がみさきを奮い立たせていたが、本当は不安だった。彼の顔を見た途端肩の力が抜けて、それを思い知らされた。井上様がいい人だと信じているが、それとこれとは別だ。世の中善人ばかりじゃない。何事も注意深く行動するに越したことはないのだ。
みさきの言葉に、千尋の表情もパッと和らいだ。
「なら、よかった。他になんて言えばいいのか分からなくて、もう常に付きっきりでいるしかないのかもって思っていたから」
「それは……思い止まってくださって、本当によかったです」
もし理解しようとせずにいたら、この目を引く美女がどこに行くにも一緒、という罰ゲームのような事態になっていたかもしれないらしい。想像だけで怖すぎる。
千尋が手を伸ばし、そっと頭を撫でる。その手付きのあまりの慎重さに、みさきは自分が小動物になってしまったように感じた。大切に大切に守られる、小さい生き物。
ふと、分かった。
どこが好きなのかと問われ、答えに詰まったけれど。
例えば、頭を撫でる優しい手。柔らかな笑顔。そっと包み込むような、温かい声。澄んだ黒瞳。丁寧な物腰。生真面目な所。世間知らずだけれど、嫌な顔一つせず教えを請える所。挙げていけばきりがない。
――簡単な、ことだった。
どこが、なんて絞りきれない。一つじゃなく、全てがみさきの琴線に触れる。この人の何もかもが、全体的に好きだと思う。
自覚するとたちまち胸が一杯になった。溢れる想いを言葉にしないとパンクしてしまいそうだ。
「スゴく、心細かったけど―――千尋さんの顔を見たら安心しました。来てくれて、ありがとうございます」
みさきは、存在を主張する心臓を押さえながら笑った。ドキドキしすぎて、頑張っても表情筋が締まらない。
ふいと千尋が顔を背けた。
「……………殺し文句」
「へ?」
「―――いや。何でもない。行こうか」
聞き取れなくて首を傾げたが、千尋は背中を向けてしまった。気になるが、彼の言葉で仕事中であったことを思い出す。
「そうですね。行きます」
ギイギイと軋んだ音を立てる階段も、もう怖くない。しっかりとした足取りで進んでいく。そして突き当たりのドアの前に立ち、古ぼけたチャイムを押した。
「はい」
井上様が顔を出した。その瞬間、なぜか千尋から息を呑む音が聞こえた。
「あぁ、スーツですね。ありがとうございます」
「あ、はい。『みさきクリーニング』です。こちらお届けに上がりました。お品物の方ご確認ください」
千尋に気を取られそうになったが、慌てて井上様に笑顔を返す。
「スーツの上下が一点と、ネクタイが一点ですね。お間違いありませんか?」
「はい、ありがとうございます。すいません、引き換え券がいりますよね。持ってきます」
わざわざドアにストッパーをしてから、井上様は玄関を離れる。やはり第一印象で思った通りの人だった。完全に不安も去っていき、みさきは肩で息をついた。
ふと、背後の気配が消えていることに気付いた。千尋がなぜか、扉の向こう側に移動しているのだ。
「……どうしたんですか」
「いや、お構いなく」
さらに聞き返そうとした時、室内から話し声が聞こえた。内容までは分からないが、確かに井上様以外の声だ。
みさきは目を瞬かせた。どうやら一人暮らしですらなかったらしい。
「すいません、お待たせしました」
その内に井上様が戻ってきたので、みさきは思いきって質問することにした。
「あの、どなたかご在宅なんですね。すいません、少しだけ声が聞こえてしまって」
不審な人物が潜伏、ということはあり得まい。もう一人の声は明らかに―――しわがれていた。
「……あぁ、母です」
「お母様でしたか。お二人で暮らしていらっしゃるんですね」
みさきの言葉に、井上様はほんの少し陰った笑みを浮かべた。
「それもいつまでになるか、分かりませんけどね。……老人ホームに入れることに決めたんです」
井上様は沈痛な面持ちだったが、断固とした口調だった。
これ以上立ち入ったことを聞いていいのかと焦るが、自分から話し出したということは、もしや誰かに聞いてほしい事情でもあるのかもしれない、と思った。みさきは壁になったような気持ちで静かに聞き入る。
「たった一人の母親ですからね。今までは、できないなりに精一杯面倒をみていたんです。ですが、ボケが進行して―――先日、目を離した隙に外に出て、階段を踏み外して怪我をしてしまったんです」
確かに、痴呆症の老人が僅かな隙にいなくなる、というのはよく聞く。すぐに見つかることが多いが、最悪の場合、事故で亡くなってしまうこともある。そんな痛ましいニュースを聞く回数も増えていた。
どれだけ大切に思っていても、一人の力の限界はある。このアパートで年老いた母親と暮らすには無理がある。井上様の決断は、誰に責められるものでもない。
そんな事情があったとも知らずに色々不審に思ってしまって、身の縮こまる思いだ。
「老人ホームに入れるにしても、できれば評判のいい所にしたいですからね。そういう所は入居者が一杯だから、もし空きが出たら連絡していただけることになっているんです。幸い自宅でできる仕事に就いているので、それまでは少し外出を控えようと思っていました。なので、クリーニングの配達があると知った時はとても嬉しかった。少しの間、面倒をおかけしますが、よろしくお願いします」
みさきは唐突に気が付いた。
きっと井上様は、誰かに愚痴に付き合ってもらいたかったわけではなく、ただこの一言を言いたかったのだ。わざわざ事情を全て明かしてまでも。
井上様の強固な精神に、優しい心に、胸が打たれた。
「――こちらこそ、よろしくお願いします。なにか力になれることがあれば、できる限り尽力させていただきますので、不都合な点などございましたらお気軽にご相談ください」
深々と頭を下げると、井上様も頭を下げた。こちらが恐縮してしまう程、長いお辞儀だった。
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