第27話 気まずい距離

 千尋とは、ケンカ別れのようになってしまった。あれから食事会もないので一度も話していない。

 みさきはキャベツをぶつ切りにしながら、盛大にため息をついた。胸にわだかまる感情はあれど、手の動きには一切迷いがない。

 仲直りするべきとは思っている。歩み寄るべきだとも。

 だがみさきには、自分の落ち度が分からなかった。どちらかというと、急に不機嫌になった千尋に問題があると思っている。悪いことをしていないのに、なぜみさきが謝らねばならないのかと、どうしても釈然としない。

 ――そもそも、そんなに必死になって仲直りする必要、あるのかな。私と千尋さんの関係って、言ってみればただのスタッフと常連客、だし。

 ビニール袋にキャベツを投入し、塩昆布と浅漬けの素を振りかける。後はこのモヤモヤを晴らすように揉み続ければ完成だ。袋が破けないよう気を付けねばならない。

 一緒に夕食を食べる仲だし、今ではもう連絡先も知っている。ただの客よりは親しいだろう。だが特別でもないと思うのは、母の結子だって同じように親密だからだ。

 冷蔵庫から取り出した鶏肉を、フライパンに並べる。焼き色が付くまで放っておけるから、思う存分ビニール袋を揉みしだく。

 ――大体私、あの人のどこが好きなのか、自分でも分からない。加奈さんにも答えられなかったし!

 理論立てて考えれば、結論は一つだ。これからは千尋を一人の顧客として扱う。適切な距離に戻る。そうすれば、心の平穏は保たれる。あの男は何者なのかと気にする必要もなくなるし、傷付かずに済むのだ。

 なのに最近気分が晴れない。仕事中でも、ふとした瞬間に千尋の顔を思い出してしまう。本当はただ逃げているだけだと分かっているからだ。

 ――自信が持てないから、相手のこと疑って。そんな自分、自分でも嫌なのに……。

 出口のない森をぐるぐるさ迷っているみさきの後ろで、人の気配がした。

「ただいま~。締めの作業終わったわよ。最近浴衣やハッピを出す人がちらほらいるから、ようやく売り上げも上がってきたわ」

 結子が住居スペースに戻ってくる。言葉数の多い母といると、いくらか気が紛れる。

「おかえり。これで寒くなってくると、慌ててコートを出しにくるお客様も増えるから、一月くらいまでは売り上げも安定するね」

「は~。冬にまた閑散期がやって来るわね。今年は無事冬を越せるかしら」

「大丈夫。今日もバッチリ節約ごはんだから」

 手を洗った結子が、後ろからフライパンを覗き込んだ。

「メニューは?」

「鳥むね肉の塩麹漬けとキャベツの浅漬けと豆腐のお味噌汁」

「え~、それだけ~?」

「なにか欲しいなら冷奴でも食べて。冷蔵庫に残ってるオクラと鰹節でも載せればおいしいんじゃない?豆腐のお味噌汁があるのに、さらに豆腐が食べたければ、だけど」

 昼食にとろろと納豆、半熟玉子にオクラ、そして安売り時に買って冷凍保存していたマグロのたたきを載せて作ったねばねば丼の残りだ。めんつゆとわさびで美味しくいただいた。

 けれど娘の素っ気ない返しに、母は唇を尖らせた。

「あ~あ。千尋君がいないと、我が家の食卓は寂しくなるなぁ。感情的にも物理的にも」

「なんか言った?」

「別にぃ」

 小馬鹿にしているとしか思えない顔で、結子は肩をすくめた。訂正。言葉数が多いために平気で地雷を踏んでくるので、気を紛らわす相手として母は全くの不適切だった。

 不機嫌になる娘を尻目に、結子は夕食作りを手伝いはじめた。十分揉んだキャベツをお皿に移していく。

「あんたはすぐわけ分かんない理論で行動するから失敗するのよ。自分の気持ちにちゃんと向き合って、答えが出るまで動かない。これも結構大事なことよ」

 何もかもを見通すような訓示に、みさきの手が止まった。母は何事もなかったかのようにすいすいと料理を運んでいく。その背中が振り返り、結子はいたずらっぽく微笑んだ。

「だから今は、クリーニングの宅配に集中していればいいの。ね?」

「……結局それが言いたかっただけじゃん」

 ちょっとでも感動した自分が馬鹿だった。


  ◇ ◆ ◇


 土曜日。みさきは今日も今日とて宅配に出ていた。

 千尋と気まずくなってしまった原因、井上様への配達もある。事前連絡で、今日は一日在宅しているとも聞いていた。

 順当にルートを回り、仕事をこなしていく。一番最後が井上様だった。

 ボロボロのアパートは相変わらず今にも傾きそうな佇まいだ。けれど家賃が安いからか、部屋は全て埋まっているようだった。

 井上様の部屋は二階にあった。電車が通過したばかりなのか、駅前にも関わらず閑散としており、何だかやけに緊張する。

 ――なんか、千尋さんが変なこと言うから、妙に不安になってきたじゃん。

 洗濯代行で何度も一人暮らしのサラリーマンの元へ通っているのだ。今さら怖がるなんて馬鹿げている。

 連れ込まれる、なんてないと思う。だが、扉の向こうに複数の男が潜んでいたらどうしよう、とも考えてしまう。

 ――か、壁が薄そうだし、万が一の時は叫べばなんとかなるよね。

 駐車場に車が一台も見当たらない点が不安を誘うが。

 みさきはその時、既に疑い始めている自分に気付いた。雷に打たれるように罪悪感が全身を貫く。

 井上様の姿が脳裏に甦った。誠実そうでいかにも真面目そうだと、行動の端々で感じた。クリーニングの知識はまだ浅いけれど、今まで伊達に沢山の人を見てきていない。井上様は、絶対悪人じゃない。みさきは自分の目を信じる。

 肺から全ての息を吐き出してから、荷物を持って階段に足を掛ける。手すりは錆び付いているため掴まることができない。金属製の足場が、みさきの体重にギイと音を立てる。

 そして、もう一歩と、足を踏み出した時―――背後から腕を掴まれた。

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