第26話 映画鑑賞

 宅配業務を滞らせるわけにはいかないので、千尋の帰宅後すぐ結子に相談した。無理なら諦めようと考えていたが、母は辣腕をふるって見事日程を調整してみせた。

 午前中に一件だけ外せない配達をすると、みさきは出掛ける準備を始めた。

 迷ったが、前回同様あまり気合いの入りすぎない格好を選んだ。古着屋で買った小花柄のTシャツに、スカイブルーの膝丈スカート。真っ白のスニーカーを履いている。

 一方、千尋はキャメルのフリルブラウスにデニムのロングスカートを合わせて登場した。華奢な足は木目調のサンダルに包まれていて、どこまでいってもみさきより女性らしい。

「さぁ、行こうか」

 試写会の会場までは電車を乗り継いで行かねばならなかったが、一時間もしないで到着した。

 中は多くの人で賑わっている。冷房が効いているはずなのに、人の熱気で外と同じくらい暑く感じた。ベストセラー小説が原作だから、熱烈なファンもいるのだろう。

 指定された座席はスクリーン正面のとてもいい位置だった。隣り合って座ると、距離の近さに少し緊張する。素肌の腕同士が触れてしまいそうだ。ちらりと千尋の横顔を盗み見ると、彼の頬もうっすら赤い気がした。

 しばらく無言でいたら、年配の男性が千尋に近付いて来た。同じく気付いた彼は、それを身振りで押し止める。

 一礼してから素直に去っていく男性の背中を見つめながら、みさきは呟いた。

「……千尋さんて、ますます何者なんだろ」

 試写会の招待券を入手できるということは、業界の関係者かもしれない。

「もしかして、芸能人?」

「だったら、こんなにのんびり映画なんて見ていられないでしょう」

 そう言われればそうだ。

 エアコンを買いに行った時も夏祭りの時も、視線を集めはしたものの人に囲まれることはなかった。テレビっ子のみさきも、メディアで彼を見たことはない。男の姿の彼、となると分からないが。

 ではやはり、物凄い大富豪なのではないか。以前否定されているが、それが一番あり得ると思っている。

 考えている内に司会者が現れ、色々な人が舞台上で挨拶していく。原作を書いた小説家が現れることはなかった。露出を嫌うことで有名な作家なのだ。

 映画に出演していた芸能人が現れた時、会場が揺れる程の歓声に包まれた。今をときめくイケメン俳優を間近にしてみさきも少なからず興奮したが、千尋は全くの無反応だった。テレビを見ないのだろうか。

 やがて会場が暗くなり、映画が始まった。叙情的な音楽と雄大な自然の映像美は、原作のイメージを決して損なわなかった。それどころか鮮やかに彩りを添え、臨場感を持って胸に迫ってくるようだ。

 物語は進み、男は少女と約束をする。考え付いたやり方で、来年の春、共に死のうと。

 田舎の家に、静かに季節が通りすぎていく。二人きりで過ごす、何も起こらない日常。朝目覚め、食事をし、絵を描き続ける。男の側にただ寄り添う少女。

 暗い冬が終わり、温かな春が近付く頃、男の絵が完成する。最高にして最大の遺作になると思っていたが―――最高の駄作だった。

 誰も近付けない、侵すことのできない、闇を切り取った色に。精神の病んだ部分を絞った、悲鳴のような作風に。

 ――――光が、射していたのだ。

 いつの頃からだろう。降り積もる時の中、寄り添う存在に触れ、救われてしまっていたことを、知る。

 ラストシーン、男は涙を流しながら微笑み、満開の桜の根本に倒れていく。隣には動かない少女がいる。彼女を愛情ごと抱き締めるような眼差しで見つめ、ゆっくりと瞳を閉じていく。

 二人の上に、ハラハラと桜の花びらが舞い続ける――――。


  ◇ ◆ ◇


 まだ夢の中にいるような心地で、みさきはぼんやりと歩いていた。映画の余韻が抜けなくて足元が覚束ない。

「面白かった?」

 歩調を合わせてくれる千尋が静かに聞いた。みさきは陶然とした目で答えた。

「面白かったです。あのラストシーン、色んな解釈ができるんですけど、私は二人とも死んでいないといいな、と思いました」

 夢を叶えて、二人でこの世から去っていったのか。ただ眠っているだけなのか。

 もはや信者の域に達している原作ファンは、願望通り自殺することによって救われるのだと、ネット上で熱弁を奮っていた覚えがある。崇高な死こそ、この小説の本筋なのだと。みさきは難しいことは分からない。けれど、生きている方がよっぽど救われると思ってしまう。崇高な死って何、だ。

「かなり原作に忠実でしたね。雰囲気も壊してなくて、スゴくよかったです」

「原作、読んだことあるんだ」

「ありますよ~。スゴい作家さんですよね、貴司恭矢って。絶対頭おかしいと思います」

 千尋の反応も気にせず、みさきは滔々と語った。好きな作家の一人なのでいくらでも語れる。

「文章は綺麗で緻密なのに主人公の性格とかヤバイですよね。潔癖で孤高で、偏執的っていうか、静かに狂ってるカンジ。でも物語にどんどん引き込まれて、読み終わった時には自分までおかしくなっちゃったような気がしました。世界が間違ってるような、悪夢を見てるような感覚に陥る読後感でしたね」

「それって、褒めてるの?酷評?」

「絶賛ですよ~!でももし作者に会ったら、いい精神病院でも教えてあげたいです」

 こぶしを握って力説すると、千尋は微妙な顔で苦笑していた。

「楽しかったなら、よかった」

「はい!連れてきてくださって、ありがとうございました!」

 お礼を言った後、歩道沿いにあるケーキ店が目に映った。店内には宝石のような色とりどりのケーキが並んでいる。

「おみやげ買って帰ろうかな。今日来れたのも母のおかげだし」

 足を止めて呟くみさきに、千尋は首を傾げた。

「そうなの?」

「はい。母が怪我してるから、配達業務を代わってるんです。本当は今日も何件かあったんですけど、母が調整してくれて」

「あぁ、あの足じゃ運転できないもんね……」

 千尋の腕が背中に回り、みさきをそっとケーキ店に促す。見上げれば、にっこり笑って頷いた。

 水色のヨーロピアンな扉を開けると、エプロン姿の店員が出てきた。

「いらっしゃいませ」

「えっと……ショートケーキとチーズケーキください」

「あと、ショコラスフレもお願いします」

 綺麗で手の込んだケーキもいいが、つい好物を頼んでしまう。ほとんど迷わず注文すると、横から千尋が追加した。

「オレの分も、いい?」

「もちろんです」

 このまま別れるのは名残惜しいと思っていたので、みさきは即座に頷いた。映画についてももっと語り合いたい。

 店員がケーキを箱詰めしている間、千尋が先ほどの会話を続けた。

「クリーニングの宅配って、どんな人が頼むの?」

 場繋ぎの質問だろうが、訊かれたことで気になっていた案件を思い出した。

「そういえば、またちょっと不思議なことがあったんですよ」

 みさきは宅配を頼む客層に該当しない井上陽一の話をした。しかし話が進むごとに、なぜか千尋の顔が強張っていく。

「みさきさんが届けるんだよね」

「はい」

「その男は、いくつくらいなの」

「二十代後半に見えました。健康そうに見えましたし、ホント不思議ですよね~」

 みさきがのんびり答えると、千尋はくっきり眉間に皺を寄せた。

「もし変な目的があったらどうするの?」

「変な目的?」

「若い女の子が、一人暮らしの男の家に行くんだよね。連れ込もうとか、不埒な考えがある可能性だってあり得るよね」

 あまりに予想外な言葉に、みさきは一拍置いて吹き出してしまった。

「なに言ってるんですか~!そんなの絶対あり得ない!千尋さん心配しすぎ!」

 笑いながら否定するも、千尋は至って真剣だ。どころか、少し不機嫌そうですらある。

「なぜあり得ないなんて言い切れるの?」

「だって、」

「みさきさん、ちょっと無防備すぎるよ。というか、そういうことはもっと早く教えてほしかった」

 一方的に叱られ、みさきはカチンとした。なぜ怒られなければいけないのか分からないし、不機嫌の理由も分からない。

 ――大体、そんなふうに言うけど、千尋さんだって私に言ってないこと、あるじゃん。

 見知らぬ男と楽しげに歩く千尋の姿を思い出して、胸のモヤモヤがドッと膨らむ。

 微妙に気まずい沈黙が流れる中、ケーキの箱詰めが終わった。

「――行こうか」

「はい」

 結局、千尋が綿屋家に寄ることはなかった。ぽつんと余ったショコラスフレは親子で分け合って食べたが、不思議と味が分からなかった。

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