第25話 お誘い

「ただいま~、なんとか終わったよ~」

「おかえり。お疲れさま」

 足を引きずりながら帰ってきた母に、料理の合間に用意した麦茶を渡す。

「ムリして働かなくていいのに。閉店作業だって、夕御飯の後に私がやるって言ったじゃん」

「閉店作業くらいやらせてよ。色々迷惑かけてるんだし」

「そうやってなんでも溜め込むの、怪我にもよくないと思うよ。ストレスで治りが遅くなったらその方が困るし」

 喉を鳴らして麦茶を飲んでいた結子が、みさきの何気ない一言に突然肩を落とした。

「ストレスといえば……。カットソーをお出しになった森園様、やっぱりクリーニングやり直しになったわよ」

「あ~……、例のドレープがどうこうってヤツだね」

 みさきが夕食を作る横で、結子が愚痴をこぼし始めた。愚痴といってもこの手の情報共有をしておかないと、いざカウンターに立った時困るので、これも大事な仕事の内だ。店員同士の情報の擦り合わせは重要で、みさきも宅配業務に行く前には必ず、連絡ノートに目を通すようにしている。

 森園様というのは、三十代半ば頃の女性だ。先日初めて来店した際、一枚のカットソーを持ってきた。家でも洗濯できるものだが、首元のドレープ加工の風合いが変わっては困る。なのでクリーニングをお願いしたい、という依頼内容だった。

 それを受けて、母は当然困った。クリーニングは万能ではない。ドレープ加工の風合いを僅かにも変えずに洗濯するなど不可能だ。さらに結子が困ったのは、森園様の人柄だった。静かで大人しそうな雰囲気だが、主張は強い。ドレープへのこだわりもやたらと強く、実際にどんな感じなのかをその場でわざわざ着て見せた程だったという。

 母はその当時、ばっちり予言していた。『あの人、ドレープの形状に寸分の狂いもなかったとしても、絶対出す前と違うって言ってくるよ……』と。

 予言は、見事当たったというわけだ。

「だから全く変わらないなんてあり得ないってあれ程説得したのに……」

「しかも、クリーニングやり直した所でどうにもならないしね」

 こういったストレスが多い職場だから、本当なら療養させてあげたいと思う。動きが鈍いのは怪我のせいなのに、理不尽に怒る人も中にはいるのだ。普段なら特に何とも思わないのに、貧乏が辛くなるのはこういう時だ。せめて父が生きていれば違ったのだろうが。

「それで、どうするの?」

「もう一度クリーニングしてもらって、クリーニングじゃどうにもならないってことを理解しているもらう以外ないでしょうね。ま、なんとかするわよ。あんたは心配しなくて大丈夫」

 鬱々とした思いが面に出ていたらしい。結子は憂いを払拭するように笑った。自分の方が疲れているだろうに、肩を叩いてみさきを励ます。

「こんなことは、おいしいご飯を食べてる内に吹き飛んじゃうから!そういえば、まだ千尋君来てないのね」

「あれ、ホントだ」

 今日は千尋が来る予定なのに、いつもの時間にも姿を見せない。きっちり時間を守る彼にしては珍しかった。

「―――こんばんは。遅くなってしまい、すいません」

 話していると、千尋がようやくやって来た。急いで来たのか僅かに息を切らしている。いただいたエアコンがしっかり活躍しているおかげでリビングは涼しい。少しでも彼の役に立ってよかった。

「いらっしゃ~い。大丈夫、もうすぐ夕飯ができる所よ」

 母と千尋の会話を聞きながら、みさきは料理の仕上げに入った。

 今日の夕食は、山芋に豚バラ肉を巻いて甘辛く味付けしたもの。豚肉を巻くのに少々時間がかかったが、千尋の到着が珍しく遅かったので本当にちょうどよかった。

 シャキシャキとした歯触りの山芋は、熱を加えるとホクホクした食感になる。火を通しすぎるとジャガイモのようになってしまうので、程よくシャキシャキ感を残しつつ焼くのがコツだ。

 ジュウジュウとタレを絡めながらフライパンを転がすと、何とも食欲をそそる匂いが漂ってくる。タレがある程度煮詰まるまで手が空くので、その間にキャベツときゅうりの浅漬けをお皿に盛り付け、上からごま油をかけた。ごま油によって、さっぱりした浅漬けがぐんと引き立つのだ。

 この二品だけでは寂しいので、ペンネと玉子、ウィンナーと彩りのいい野菜をマヨネーズで和えたサラダも作った。ボリュームたっぷりだ。

 後は簡単な玉子スープを添えて完成。できあがっていくおかずと炊きたてご飯を次々ダイニングに運んでいく。

「いただきます」

 三人揃って手を合わせると、千尋は早速パスタサラダに手を伸ばした。

「あれ?このパスタサラダの味付け、マヨネーズだけじゃないよね。何だかこう、複雑な味が……」

 訝しげに首を傾げる仕草に、みさきは思わずニマニマした。

 こういう細かいことに気付いてくれると、食べさせがいがある。手の込んだ料理も楽しくなるというものだ。

「フフ。実はこれ、隠し味にイタリアンドレッシングを使ってるんですよ」

 隠し味、といっても結構な量を入れている。ベーコンの旨みなどで、味わいが深くなるのだ。

 千尋は感心しながらも箸を動かす手を止めない。作り手として一番嬉しい反応。

「なるほど、イタリアンドレッシングか。マヨネーズと合わせるとこんなに美味しいんだね。みさきさんは本当に料理が上手だ」

 次に彼は、こんがり焦げ目のついた山芋の豚肉巻きを口にした。

「――美味しい。こういうの一つ一つ巻くのって、大変でしょう?」

「ものスゴく大変ってわけではないですよ。山芋で手が痒くなっちゃうのが少し辛いですけど。小麦粉とかなくてもほどけることがないから、本当に巻くだけなんです。多分山芋のでんぷん質のおかげなんでしょうけど、アスパラで一度試してみたら全部ほどけちゃったことがあります」

 過去の失敗を話すと、千尋は苦笑した。

「それは悲しいね。でも、アスパラも凄く美味しそうだ」

「じゃあ今度……だとアスパラが値上がりしてるから、また春先から初夏辺りに作りますね。こっちのお皿は、一緒に大葉を巻いてるから味が違いますよ」

 みさきはお皿を近付けて勧める。だが千尋は、僅かに目を見開いて静止していた。

「……あの?」

「え?え、あぁ、ごめん」

 我に返った千尋は、ゆっくりと口端を引き上げていく。とても甘い、蕩けた蜂蜜のような笑みだった。

「……来年の春も、こうしていられるんだなって、思って」

 恥ずかしそうに、けれど嬉しそうにはにかんだ笑顔に、胸を撃ち抜かれる。頬まで僅かに上気していて、まるで乙女だ。目映い。

 ――なに?この人、天然?天然のたらしなの?

 台詞も随分思わせ振りだと思う。好きな相手にしか言ってはいけない類いの殺し文句だ。

 母も流れ弾に被弾したのか、テーブルに額を当ててプルプル震えている。

「そ、そんなに感動していただけるとは、光栄です」

「何で敬語?」

 真っ赤になった顔を隠すように俯け、そう答えるだけで精一杯だった。

 夕食が終わると、母がいつものようにコーヒーを淹れに席を立った。

 千尋は二人きりになると、何やら改まったように姿勢を正す。何だろうかと見守っていると、真摯な瞳がみさきを射抜いた。

「実は、映画の試写会の招待券をいただいたんだ。二枚あるから、よかったら……一緒に行きませんか?」

「何で敬語?」

 先ほどの彼と同じツッコミを返しながらも、みさきは何とも言えない気持ちになっていた。

 これはもしや、再びデートのお誘いだろうか。あの時は素直に喜べたが、先日見かけた千尋の姿を思い出すと複雑な気持ちになる。一緒にいた男が何者なのか、二人はどういう関係なのか、ずっと気にしている癖に聞けていない。

「どうかな?」

 彼が取り出した関係者用の招待券は、ベストセラーになった小説を実写映画化したものだった。

 満開の桜の中で死ぬことに憧れる画家の話だ。

 ある日画家の男は、家の桜の下に、うずくまる小さな女の子を見つける。男の遠い親戚で、この家にしばらく泊めてほしいという。少女は年齢の割に物静かで、言動も大人びていた。他人に生活を干渉されるのは嫌だったが、この子どもならばと、男は気まぐれに頷く。そうして、ちぐはぐな二人の奇妙な生活が始まった。男は少女を、存在しないもののように扱う。少女はそれを当然のように受け止め、ひっそりと空気のように振る舞う。やがて興がのった男は、幼子に自分の夢を語る。少女が賛同し、どのように死ぬのが理想的か、美しいか、二人は相談を始める――。

 繊細で刹那的な物語だが、正直デートで見に行く映画ではないような気がする。千尋はなぜこの映画に誘ったのだろうか。デートという意図は全くなく、純粋に鑑賞目的なのだろうか。あくまで一人の友人として。

「それは―――」

「え?」

「……いえ。なんでもないです」

 以前のようにデートなのかと聞く勇気がなかった。声がしぼみ、みさきは俯いた。

「行きたい、です」

 好きな作家だし、本も購入している。CMで見て気にもなっていた。千尋に、試写会目当てで頷いた、と捉えてもらえればいい。下心も欲望もある身としては、彼の信頼があまりに眩しいから。

 後ろめたくて恐る恐る目を合わせると、千尋はとても幸せそうに、極上の笑顔を浮かべていた。


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