第22話 宅配業務
『みさきクリーニング』では、クリーニングを終えた品物の配達だけでなく、希望があれば洗濯代行も行っていた。
洗濯代行とは、その名の通り洗濯を代わりに行うことだ。
洗濯物を入れる専用のネットを預け、そこにお客様自身が洗いたい物を入れていく。中身が見えないようになっているため、下着でも何でも構わない。個々に包装して返却するので、ホテルのクリーニングを想像すると分かりやすいかもしれない。
仕上がった洗濯物を届ける時、また洗濯物を預かって帰る。その際新たな洗濯ネットを置いていき、お客様はそこにまた洗濯物を入れていく、というシステムだ。
洗濯など誰が業者に頼むと思うかもしれないが、お年寄りや一人暮らしの男性にそこそこ需要がある。ワイシャツもアイロンをかけて返却されるので、サラリーマンには意外と便利らしい。
母の捻挫は結構重症だったようで、完治には二週間から一ヶ月程かかる。癖になってしまうものなので、痛みが治まったから完治、とはいかないらしい。
とにかく、長ければ一ヶ月は宅配業務を任されることになったので、それなりに下準備が必要だった。宅配を頼んでいる人達の家族構成や人柄はおさえておきたいし、集荷にまわるルートも頭に入れなければならない。その際の駐車スペースの確保も。
運転免許がありながらあまり運転をしてこなかったので、技術面での不安も多分にあった。平日の昼間はそれ程混雑していないし、狭い道もないと母が断言したことで、ようやく引き受けることを決めたのだ。そもそも結子は断るという選択肢など用意していなかったと思うが。
そうして迎えた宅配業務第一日目。
みさきがまず向かったのは、車で五分の距離にある渋澤様のお宅だった。
広い庭のある一軒家で、築何年くらいだろう、屋根瓦の光るどっしりした佇まいの古い家だった。
最近リフォームでもしたのだろうか、古い家の割に玄関にはスロープがあった。みさきは深呼吸をしてからチャイムを鳴らす。リフォームの時一緒に取り付けたのだろうか、カメラ付きのインターホンだった。
『はい、どちら様でしょうか?』
「こんにちは、『みさきクリーニング』です。洗濯物をお届けに上がりました」
『あら、今日はみさきちゃんなのね。ちょっと待っていてちょうだい』
しばらくするとドアが開き、品のいい老婦人が顔を出した。
「カメラで見てもすぐに分からなかったわ。久しぶりね、みさきちゃん」
「お久しぶりです渋澤様」
「さぁどうぞ、ゆっくりしていって」
仕事の途中だからゆっくりするわけにもいかないが、招かれておきながら玄関で退散するわけにもいかない。これの積み重ねで母の帰宅時間は遅くなっているのだな、と思った。
恐縮しながら荷物を中に運び込む。廊下に手すりがあったり、やはり幾らかバリアフリーの設備が整っていた。
「あらあら、何年ぶりかしら。なんだか随分大人びて」
「高校生の時以来ですので、四年ぶりくらいでしょうか」
たまに店の手伝いをやらされていた高校生の頃は、渋澤様も店に通っていた。最近顔を見ないなと気付いた時には、洗濯代行の顧客に変わっていた。
みさきは高校生の頃から、渋澤様が好きだった。シワを刻んだ顔に浮かべる、年齢を感じさせない可愛らしい笑顔。それでいて教養と知識に培われた深みのある言葉。旦那さんと仲がよかったことも、尊敬する理由の一つだった。
「ご主人――亡くなってらしたんですね。なにも知らず、すいませんでした」
リビングに置かれた小さな仏壇に、見知った顔が微笑んでいた。いつも渋澤夫人に見せていた、旦那さんの優しい笑み。
この広い家で一人過ごすのは、さぞ寂しいことだろう。何かあった時に助けてくれる人が身近にいないならば、このバリアフリーも頷ける。怪我をしないための事前投資だ。
「あら、いいのよ。若い子がそんなに気を遣わないで。それに当時ちゃんと、あなたのお母さんから、おくやみをいただいているのよ」
紅茶とクッキーを用意しながら、夫人は楚々と笑った。
「ただ主人が亡くなってから、なんだか家事が億劫になっちゃって。洗濯機を回すにも、一人分の洗濯物だと何日も溜めないと勿体ないし。だから洗濯代行をお願いするようになったの」
みさきの正面の椅子に座り、渋澤様が微笑む。
「こうしてお客様が来て、話し相手になってくれるのって、とっても楽しいわ。結子さんもいつも気にかけてくださるのよ。このサービスがあってよかったと、本当に感謝しているの」
夫を亡くした彼女に何と言えばいいのか分からずにいたが、少女のような笑顔を見て、みさきもまた微笑みを浮かべた。
高校卒業後どうしているのか、どんな小説を書いているのか、何かと話が尽きず、結局随分長居してしまった。
家を出る頃には一時間近くが経っていて、一日に三、四件しか回らないのに、などという母への不平不満を、今後は絶対言わないと固く誓った。
――そういえば、最近ちゃんと小説書けてないなぁ。
渋澤様に訊かれてようやく思い至った。
気持ちの上では千尋のことで手一杯だったが、それとこれとは話が別だ。感情に振り回されて夢を諦めるつもりは毛頭ない。むしろこの恋さえ肥やしにしてみせるくらいの根性がなくては。
――前に考えた、千尋さんが主役の小説でも考えてみるか。
自分の頭の中だけで解決してなかなか説明してくれないから、探偵には不向きな人だけれど。
荷物を積み終え、車に乗り込む。次の配達前に休憩を取る予定だったが、午後一時の指定まで三十分しかない。どこかの公園でのんびり昼食を食べる程の時間はなかった。渋澤様には申し訳ないが、このまま車中で昼食にさせてもらおう。しばらく駐車場を借りることになるが、渋澤夫人は車を持っていないから問題にはならないはずだ。
みさきは膝の上でランチボックスを広げる。節約のために手作り弁当を持参していた。内容は玉子焼きにウィンナー、ブロッコリーのナムル、ミートボールなど、何の変哲もないものだ。自分用の弁当に気合いを入れることは中々難しい。
「自分で作ると具を知ってるから、開ける時の楽しみが全然ないんだよね~。人が作ればどんなお弁当でもおいしく感じるのに」
一人言を呟き、ペットボトルのお茶を飲む。お腹を膨らますためだけの栄養摂取という感じだ。
満足に動き回れる状況ではないので、結子の昼食もみさきが用意していた。今頃ハムとチーズを挟んだホットサンドを焼いていることだろう。
「あ~、いいなぁ。熱々トロトロのチーズ……カリカリのパン……」
モグモグと口を動かしながら、大通りを挟んだ向こうにある大型スーパーに何気なく視線を移した。駐車場が通り沿いにあるため、とてもよく見える。スーパーの前の歩道に、やけに人目を惹く二人連れがいた。
美しい立ち姿、風になびく栗色の髪。見間違いようもない、千尋だった。残暑厳しい時期にもかかわらず、やはり羨ましい程暑さとは無縁に見える。淡い水色のチュニックに白い細身のパンツ、デッキシューズがとても似合っていた。
その隣を、ダークグレーのスーツを隙なく着こなした男性が歩いていた。すっきりした黒髪が清潔感のある男性だった。スーツを着ていても筋肉質の程よく締まった体型をしていることが分かる。笑顔も爽やかで屈託がない。しかも長身の千尋よりなお背が高かった。180㎝を越えているのではないだろうか。
二人は愉しげに言葉を交わしていて、千尋も時折笑顔を見せている。距離も近く、明らかに親密そうだった。
車が多く行き交う大通りを挟んでいるし、みさきは車中の人だ。千尋がこちらに気付くことはなかった。ふざけたように肩を叩きながら、彼の後ろ姿が小さくなっていく。
みさきは衝撃のあまり、渋澤様が庭先に顔を出すまでひたすら呆然としていた。
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