第四章

第21話 ちょっとトラブル

「あれ、みさきちゃん。なんだか綺麗になった?」

 常連客にそう言われ、みさきは目を瞬かせた。

「やだなぁ加奈さん。いつもとなんにも変わりませんよ~」

 里崎加奈は元々実家がこの辺りなのだが、さらに超ご近所婚を果たしたため、親子二代に渡って『みさきクリーニング』を利用しているありがたいお客様だ。母親同士の仲がよかったため親しくなり、今ではみさきのお姉さん的存在になっている。専業主婦で小さな子どもがいるにもかかわらず、メイクばっちりオシャレばっちりで女子力がかなり高い。しっかり者でパワフルでとても尊敬している。

「いや!なんかやってるでしょ!絶対お肌綺麗になったもん!いい化粧水でもあったんなら教えてよ~」

「マジでなにもやってないですって。ホラいつも通り、メイクもしてないでしょ?」

「そうなんだけどー、なんか雰囲気?いつもと違う……あ!分かった!恋してるんでしょ!」

 加奈の言葉に、ぐはっと血を吐きそうになった。固まった笑顔のまま、みさきは震えながら俯いた。

「死にたい……」

 漏らした呟きにぎょっとしたのは加奈だ。

「ちょっと!なんで恋する乙女がそんな不吉なこと言ってんのよ!」

「そんなに分かりやすく恋するオーラを振り撒きながら生活してるとか死にたい……」

「落ち着いてみさきちゃん!気を確かに!」

 最近の乙女思考がかなり気持ち悪いと我ながら思っていたので、ダメージが大きい。

 恥ずか死ぬ。これが恥ずか死ぬというヤツだ。思い詰めて接客中だということも忘れていたみさきの肩を、加奈が揺さぶった。

「態度に出て分かりやすいわけじゃないわ!あくまでさっき言った通り、肌がワントーン明るくなったから気になっただけ!それくらいで分かるなんて私くらいだと断言するわ!」

 みさきはようやく顔を上げた。

「本当ですか……?」

「私が保証する!全然恋してるなんて分からないから!」

 安堵の息をついたみさきに、加奈まで脱力した。

「でも、恋してるのは否定しないのね」

「……この年なんですから、いいなと思う人くらいいてもいいでしょ?」

「よかったじゃない。ガンバりなよ」

「まぁ、色々問題はあると思いますけどね……」

 どうやら母を好きらしいし、女装してるし、その女装が自分より女性らしいし。

 みさきの今度の呟きは聞こえなかったらしい。加奈は明るく質問を重ねた。

「ねぇ、その人のどんな所が好きなの?」

「どんな、所……?」

 聞かれて、思わず狼狽えた。自分は一体、彼のどこを好きになったのだろう。

 ――もしかして、顔?だとしたら自分の薄っぺらい人間性にショックだ。

 頭がよくて、でも生活力が低そうで、しっかりしているかと思えばちょっと抜けていて。そんな所も放っておけないと思うけれど、これと断言できる部分がない。

 悩みだしたみさきに、加奈は眉を寄せた。

「自分で分かんないの?」

「待って、もう少し考えれば分かると思うんです」

「そんなムリしてる時点で」

 加奈が呆れて苦笑を漏らした。

 だらだら話していると、時計が四時を報せた。

「ありゃ、こんな時間。そろそろ帰って夕御飯作らないと。って、そういえばおばさんは?今日は遅いのね」

「あ~。多分また宅配先で、話が盛り上がっちゃってるんだと思います。ひどいと閉店時間すぎても帰って来ないんですから」

 そんな話をしていたからか、噂に引き寄せられるように結子が帰ってきた。ベルの音を響かせてドアをくぐる母に、遅い帰宅への文句をぶつけようと振り返る。が、みさきは言葉を呑んだ。

「ただいま~。あら、いらっしゃい加奈ちゃん」

 にっこりいつもと変わらぬ笑顔を見せる結子。だが足元に視線を移すと、痛々しい包帯が巻かれているではないか。

「ど、どうしたんですか!おばさん!」

「あはは。ちょっと自転車にぶつかっちゃって~」

 目を丸くして訊ねる加奈に、母が苦笑いで答えた。普段は車で回っている母だが、今日は荷物が少ないからと、体力作りの意味も込めて自転車で配達に出たのだ。

「他に、怪我はない?」

 みさきが真剣な顔で聞くと、結子が振り向いた。

「私はこの通りピンピンして――」

「そうじゃなくて、相手の方は大丈夫なの?」

 遮るように言ったみさきに、母は半眼になった。

「あんた……ケガして帰った母親への第一声がそれ?」

「だって、病院行って来たんでしょ?お母さんそんなに綺麗に包帯巻けないもんね。病院でちゃんと診てもらったんなら大丈夫でしょ。それより示談だなんだって話になるのが一番ヤバい」

 ただでさえ貧乏なのに、示談金の支払いを命じられたら我が家の生活は一気に崖っぷちだ。

「全く、あんたらしいわよ」

 相手は男子高校生で、出会い頭に正面衝突したらしい。だが若者はさすがの反射神経で、転ばずに何とか踏みとどまった。なので怪我をしたのは、尻餅をついた結子だけだったという。

「向こうはえらく気にしてたけど、足は捻挫で大したことなかったから、その場で別れたわ。事故の原因はお互い様だしね」

「そうだね。相手に怪我がなくて本当によかったよ」

「あんたは少しくらい母親の心配をしなさい」

 結子と一緒になって頷くみさきの頭を、加奈がぺしりと叩いた。

 結子の心配をしながらも、本格的に急がないとまずい、と加奈は帰っていった。

 二人きりになると、みさきは小さな声で呟いた。

「……お母さん、本当に気を付けてね」

「まだ言うか、この子は」

「もしお母さんがいなくなったら、私、一人になっちゃう……」

 憔然と俯くみさきの頭を、結子が優しく撫でた。娘の顔を覗き込む温かな眼差しには、まさしく母親の愛情が宿っている。

「大丈夫。私がみさきより先に死ぬはずないでしょ?あんたが八十歳まで生きるなら、私は百歳まで生きるから」

「……頼もしすぎる」

 まだ萎れていたみさきにも、ようやく少し笑うことができた。

「そんなわけで、頼もしいお母さまから辞令を発表します。あんた、明日からしばらく宅配係に任命ね」

「へ」

「この足じゃ、運転できないから」

 満面の笑みで包帯の巻かれた足を叩く結子を、みさきは呆然と見つめた。


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