第20話 おいしい真実
千尋に連れられてやって来たのは、隠れ家的なレストランだった。
赤茶色のレンガと白の漆喰が洒落た雰囲気だが、小ぢんまりとした外観から、レストランがあると知らなければ見逃してしまいそうだ。看板もないため民家と言われても疑わないだろう。
「いらっしゃいませ」
優しそうな笑顔で出迎えたのは、三十代のほっそりした女性だった。鼻が高くまつ毛が長い。横顔がとても綺麗だ。
「予約をしていた橘です」
「橘様、お待ちしておりました」
千尋は以前にも来たことがあるのか、慣れた様子だ。
飲み物だけはメニューがあり、ディナーはシェフのおすすめが振る舞われるというスタイルだった。一度に一組のみをもてなすレストランなので、コース料理でも然程緊張しないで済む。
「うわぁ、おいしそ~」
まず前菜の盛り合わせが出された。
鱧の梅肉あえと茄子の煮びたし、カボチャとししとうの天ぷら、季節の食材をふんだんに使った彩り豊かなものだ。前菜だけでこれなら、メイン料理はどうなるのだろうと今から期待が高まる。
「ここで使われてるのは全部有機野菜らしいよ。新鮮でとても美味しいんだ」
「上品な味付けですね。お箸で食べられるのも助かります」
注文したジンジャーエールも手作りのもので、スッキリした後味がとても料理に合った。スープはキノコとカボチャのポタージュ、肉料理は厚切りのローストビーフが提供された。
ローストビーフは工夫すれば作れる料理だが、綿屋家では上等な牛肉のブロックを用意できないため、決して食卓に登場することがない。家庭では再現できない料理を食べるのは、外食の楽しみの一つでもある。
しばらく料理の話で盛り上がっていたら、千尋がゆっくり箸を置いた。見惚れるような仕草でワイングラスに手を伸ばす。
みさきも普段はお酒を嗜まないが、途中から白ワインを飲んでいる。いつもより思考がぼんやりしていて、なんだか夢心地だ。目の前の綺麗な人をつい眺めてしまう。
「そろそろ、あの話を始めようか」
「……え?」
「例の、トレーナーの」
トレーナー、という言葉でようやく我に返った。
「あっ、そうでした。ぜひ教えてください」
「ではシェフを呼ぼう」
「え?」
目を瞬かせるみさきを尻目に、千尋は給仕をしていた先程の女性に声をかける。女性は微笑んで頷くとフロアから出ていった。
「あの……?」
「うん、少し待っていてね」
千尋がみさきの質問を封じた。
しばらくすると、奥からコックエプロンを着た男性が颯爽と歩いてきた。その姿に、みさきは目を見開く。
「あなたは……」
「いらっしゃいませ」
シェフの優しげな容貌には見覚えがあった。何時間か前に会ったばかりだ。あちらも記憶にあったのか、すぐに驚いた顔になる。
「あなたは確か、クリーニング屋さんの」
「はい、先程はありがとうございました」
思わず仕事の顔で頭を下げると、男性は慌てて手を振った。
そう。シェフの男性が、トレーナーのシミ抜きを依頼したお客様だったのだ。
一体どういうことなのか千尋とシェフ――確か三原様を見比べていると、千尋が状況の説明を始めた。
「実は彼女、あの血液の量がとても多かったので、誰かが大怪我しているのではないかととても心配しているんです」
本当は殺人事件なのではと疑っていたのだが、そこはうまく誤魔化してくれた。
三原様は恐縮そうに頭を下げる。
「これはどうも……開店前に急いで駆け込んだものですから、焦って説明不足でしたね。大変申し訳ございませんでした。あれは、獣の血なんですよ」
「獣の血……」
料理人だったということで、みさきにも事の全貌がぼんやり見えてきた。
三原様は昨日、友人の別荘に招待されたらしい。
その友人の所有する山で、たまたま大きな猪が捕まえられた。すぐに捌いて欲しいと目の前に差し出され、三原様は断れなかった。野生の獣はすぐに臭みが出てしまうから、一秒でも早い血抜きが必要だとよく分かっていたからだ。
「でもこのトレーナー、以前妻にプレゼントしてもらったもので……。彼女は気にしなくていいと言ってくれたのですが、私は何とかまた着られるようにしたくて」
そう言って三原様が視線を投げ掛けたのは、部屋の隅に控えた給仕の女性だった。静かに微笑み合う姿は傍目にもお似合いだ。
「ご心配おかけして申し訳ございませんでした。これからはゆっくりと、お食事をお楽しみください」
頭を下げて去っていく三原様を見送り、千尋に視線を戻した。
「……つまり、千尋さんがあの場で事件性がないと断言できたのは、三原様がシェフだと知ってたから」
「そういうこと。人となりも分かっているから、事件を起こすなんて考えられなかったしね」
千尋の答えに、みさきはガクッと肩を落とした。
「知人とは聞いていましたけど……あそこまで断定的に言うから、もっとスゴい推理があるかと思ってました」
「例えば?」
聞き返され、ジト目で見上げる。
「例えば……こういう場合事件ものだと、包丁を握り続けてできたタコの位置とかがヒントになるんですよ。特徴的な日焼けの仕方とか、歩き方の癖とか」
「そんな、漫画や小説じゃあるまいし。ちょっと変わった場所にタコがあるくらいで目くじら立てて騒ぐ昨今の読み物には、冷静さと思慮深さが足りないと思うよ。何事も決めつけはよくない」
「だってこんなのズルじゃないですか~!」
最初からみさきより多くのヒントを持っていたようなものだ。これがもし探偵同士の推理合戦だとしたら、読み手からすればガッカリの結末である。
不満一杯で頬を膨らませているというのに、千尋はにっこりと微笑んでみせた。
「君ならそう言いそうだと思ったから、ここに連れて来たんだよ。おいしいでしょう?」
「う」
確かに文句の言葉も出てこなくなるレベルの美味しさだ。基本みさきは、美味しい物を食べていれば機嫌がいい。付き合いを重ねている内にしっかりバレてしまったようだ。
性格を把握されたばつの悪さから、悔しまぎれに口を開いた。一連の流れで、みさきにだって分かったことがある。
「よくここに来るんですか?」
「まぁね」
「その割に三原様、千尋さんに挨拶しませんでしたよね。今思えば奥様も」
千尋が悠然と動かしていた箸が止まった。
行きつけの店で、名字を名乗っているにも関わらず、千尋だと認識されなかった理由。
「――いつもは、男の格好で来るんですね」
みさきとは逆に、女装姿の千尋を知らなかったから、『橘』という名字だけでは本人に結び付かなかった。おそらく普段の千尋とはギャップがあるのだろう。
――私は、分かる自信あるけど。
どんな格好をしていても、千尋ならばきっと分かる。何をしていても、一人だけ際立って見えるのだから。
千尋はワイングラスを傾けながら苦笑した。
「……そういう所は鋭いね」
「そういう所はってどういう意味ですか?」
自分では結構鋭い方だと思っている。
鈍くないからこそ、千尋が素を見せることを躊躇っていると分かるのだ。その気持ちを尊重して、これ以上この話題でいじめるのはやめてあげよう。
美味しい料理は、一緒にいる人と楽しんでこそだ。
「このガレット、おいしいですね」
みさきが矛を納めると、千尋は目に見えて安堵した。
「うん。初めて食べたけど、チーズと半熟玉子が絶妙だね」
「確かガレットって、そば粉でできてるんですよね。こういうのは家じゃ難しいから嬉しいです。―――色々諸々のお詫びに、またここに連れてきてください。そしたら許してあげてもいいですよ」
今度の言葉は、千尋を笑顔に変えた。
「……うん。絶対、また一緒に来よう」
綺麗な笑顔に思わず見惚れる。
こうして一つずつ約束を重ねて、ずっと一緒にいられればいい。
笑い合いながら、心からそう思った。
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