第18話 猟奇的事件?
花火大会当日。
浴衣を着たみさきは、休憩スペースで母に髪を結ってもらっていた。
浴衣の着付けは何とかできるが、髪のアレンジは断然結子の方がうまい。どんな髪型にすればみさきがより可愛くなるか熟知しているため、美容院に行くより確実だ。
所々編み込んだりしながら、甘すぎないまとめ髪にする。仕上げに蝶の飾りが可愛いかんざしを挿した所で、母が満足げに立ち上がった。
「あ~、最高の仕上がりよ!やっぱり私って天才かもしれない!」
「娘が可愛いって結論にはならないんだね」
「これでせっけんがほんのり香る整髪料を付けたら完璧ね!」
「聞いてないね。いいけどね。私も自分が可愛いなんて思わないしね」
結子の十八番⋅スルーが繰り出され、みさきはぼやいた。可愛いなんて言ってしまった自分が居たたまれない。
けれど母は、思いの外優しい眼差しでみさきを見つめた。
「可愛いわよ、今のあんたは」
「へ?」
「恋をしてる女は、可愛いものなんだから」
百戦錬磨の結子は、何でもお見通しみたいに笑った。みさきは頬を赤くして睨みながらも否定しなかった。
「そうだ。みさき、悪いんだけどうちに資料取りに行っていい?」
「え。私浴衣だから、店番できな……」
「ごめ~ん、すぐ戻るから!」
有無を言わせぬ勢いで喋ると、母は了承も得ずに住居スペースに向かっていく。みさきは逆らわず、着崩さないよう気を付けながら浴衣の上にエプロンを装着した。
そんな間抜けな状態に陥っていると、千尋が迎えにやって来た。
「こんばん……あれ?」
浴衣にエプロンを付けたみさきに、千尋は首を傾げた。
手短に状況を説明し、ノロノロと頭を下げる。
「……本当にすみません。忙しい人で」
「大丈夫だよ。気にしないで――…」
チリンチリン
会話の途中でお客様がやって来た。柔和な表情をした三十代半ば程の男性だ。
みさきはすぐに笑顔を作った。
「いらっしゃいませ」
三原様というその男性は、過去に一度来店したことがあるらしい。みさきに覚えがないので、おそらく母が担当したのだろう。
「すみません。クリーニングをお願いしたいのですが、これ、落ちますか?」
そんな言葉と共に差し出されたトレーナーを見て絶句した。
前身頃部分全体に広がる細かな飛沫―――どう見ても血液だった。
入店の瞬間からいい人そうだなと感じていた笑顔も、一気に胡散臭く思えてきた。顔が強ばっていくのを感じる。
「どうしても、綺麗にして欲しいんですけど……」
みさきは意識を切り替え、何とか笑顔を作った。トレーナーを手に取り、汚れの具合を確認する。赤褐色の血液は乾ききっていないようだ。
「お客様、こちらは血液ですかね」
「そうです」
勇気を出して聞くと、男性はすんなり頷いた。その様子には全く後ろめたいことなどないように見える。
「血液というのは時間が経ってしまうと特に落ちにくく、もしかしたらクリーニングから戻って来ても完全には落ちきっていないかもしれません。こちらはいつ頃の汚れになりますか?」
「昨日です。あの、シミ抜きとかもあるんですよね?」
「はい、ございます。ですが、シミ抜きも万能ではないので、やっぱり汚れが残ってしまう可能性があります。こちらは特にブランド品になりますので、万一にも生地を傷めないために、シミが残った状態でシミ抜きを断念、ということがあり得ると思います。ですがその場合もシミ抜きにかかった費用をお客様に請求しなければなりませんので……」
いつもの説明を淀みなくすると、細面の男性は少し考えながら口を開いた。
「シミは残っていてもお金は取るということですね」
「そうなります」
ここで難色を示して断ってくれればと願っていたのだが、男性はすぐに頷いた。
「ではお願いします。大切な物なので」
「……かしこまりました。シミ抜きには少々お時間がかかりますので、仕上がりましたらこちらから連絡を差し上げる、という形になります。よろしいでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
男性が出ていくと、腕に収まるトレーナーを見下ろし、みさきは手を震わせた。
「これ……警察に通報するレベルなんじゃ……」
「間違いなく、生物の血管を切断した際の血飛沫だろうね」
「ですよね!ってすいません、千尋さん。放置してしまって」
一人言のつもりが返事があって、心臓がドキリと跳ねた。正直奥の作業スペースに下がっていると思っていた。
「大丈夫。君が働いている姿は気持ちがいいから、見ていて飽きない」
何かさらっと恥ずかしいことを言われた気がしたが、今のみさきはほとんど恐慌状態で、どんな言葉も肌の表面を滑っていくだけだ。
店の隅にいた千尋が、みさきの手の中のトレーナーをしげしげと眺めた。
「それが普通の血の跡じゃないって、よく分かったね」
「血のシミって普通、出血した所から垂れてできるから、大きい輪ジミが多いんです。なのにこれは、霧吹きでも使ったみたいに点々としてて……」
嫌な予感にどんどん血の気が失せていく。明らかに飛び散った血痕。推理小説は好きだが、現実にこんな事態が起こるとただ混乱することしかできない。誰かがどこかで傷付いているかもしれないなんて、考えたくもなかった。
「これやっぱり、事件の証拠かも知れないし、保存の必要があるんじゃ……」
「事件?」
「だってこれ、どう見ても殺人事件じゃ、」
「違うと思うよ」
凛とした声に遮られ、泣きそうだった気持ちが不意に静まる。歪んでいた視界に千尋の真っ直ぐな瞳が映り込み、自然と肩の力が抜けた。
「……なんで、分かるんですか?」
「うん。そうだね……」
千尋は少し考え込んでから、真っ直ぐみさきを見た。
「彼とは、知らない仲じゃないんだ」
「そう、なんですか……?」
「うん。彼の人間性はオレが保証する。とにかく何の心配もないことだけは絶対だから、このトレーナーは普通にクリーニングに出して、依頼通りシミ抜きをしてもらってほしい」
「でも……」
「ここは、オレのことを信じてくれる?絶対事件性はないし、その理由は後で必ず教えるから」
怖かった。何を信じていいかも分からなかった。けれどあまりに真っ直ぐな千尋の視線に、みさきはいつの間にか頷いていた。
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