第17話 二人でお茶を

 千尋は電気屋を出ると、どこかで涼みながらゆっくり話そうと提案した。みさきは即座に頷いた。

 美味しいコーヒーが飲める店を知っていると、連れていかれたのは雰囲気のいい喫茶店だった。壁は白、窓は焦げ茶色の木枠で素朴な外観だ。

 中に入ると、芳ばしいコーヒーの香りとさりげないジャズが体を包み、一気に別世界に迷い込んだような気分になる。温かみのあるオレンジの明かりが灯り、磨き上げられた木目のカウンターをつややかに照らしていた。

「確か、甘いコーヒーが苦手なんだよね?ここは本格的な美味しいコーヒーを出してくれるんだ。あと、チーズケーキもとても美味しいよ」

 店内は人がまばらだったので、自由に席を選べた。窓際のソファでメニューに目を通し、お勧めのブレンドコーヒーとチーズケーキを注文した。小腹が空いていたから丁度いい。

「今日はいい買い物ができたよ。みさきさん、ありがとう」

 ブレンドコーヒーのみを注文した千尋が、口を開いた。

「普段は買い物って、店員さんの勧めるものをそのまま買っていたから、新鮮だった」

「勧められるままに買っちゃう千尋さんが変わってるんですよ。自分の欲しい機能をちゃんと考えて選ばないと」

 高い買い物だからこそ、きちんと選ぶのだ。本当に素晴らしい物でも、自分が欲しい物とずれているかもしれない。押し付けられた物を買うなんてみさきの常識では考えられなかった。

 断れない性格だとか善良だとか、買ってしまう人にも色々な理由があるだろうが、千尋の場合常識からずれている点が一番大きい気がする。常々生活感が感じられない人だと思っていたが、それを今回痛感した。

 エアコンは基本、部屋の広さに合わせて買うものだ。六畳用の製品を広い部屋に設置しても冷房効率が悪いし、フルパワーで使用し続けるために電気代が跳ね上がる。ひどい場合はそのまま故障してしまうのだ。逆に狭い部屋に十四畳用では手に余る。なのでまず千尋のアパートの広さを聞いたのだが、彼の答えは衝撃的だった。

『部屋の広さなんて考えたことがなかったから、確認をとってみないと』。

 ……普通、住まいを決める時に広さを確認しないだろうか。というか、生きていれば大体の広さは体感で分かるようになるのではないか。そもそも確認とは誰にするのか。大家か。

 頭の中を様々な疑問が一気に駆け巡りすぎたため、何一つ言葉にならなかった。おそらくその間、みさきの意識は飛んでいただろう。

 その内に千尋がどこかへの確認を済ませており、『ダイニングとキッチンが繋がっているから、十六畳くらいじゃないかって』と微笑みながらスマートフォンをしまっていた。これで確認相手が大家でないことは判明したが、では誰だったのかなぜか怖くて聞けなかった。

 コーヒーとケーキが飴色のテーブル置かれ、みさきは一旦思考をやめる。

「うわぁ、おいしそう」

 出されたのは昔ながらのベイクドチーズケーキだった。表面の濡れたようなツヤが食欲をそそる。コーヒーも芳ばしさの中に華やかさのある豊かな香りだ。

 早速切り分けて食べてみる。なめらかで濃厚なのに、どこか懐かしい味がした。表面に塗られたアプリコットジャムの酸味とチーズのまろやかさが堪らない。中に入ったクルミの食感がいいアクセントになっている。

 ゆっくり味わってから、コーヒーを飲む。まず苦味を感じるが、コクと甘味が後からやって来る。鼻から抜ける香りも素晴らしく、芳醇な味わいだ。何よりケーキにとても合う。

「おいしいです!」

 店の雰囲気を壊したくなかったので小声で、けれど興奮ぎみに感想を伝えると、千尋は嬉しそうに笑った。

「どちらもスゴくおいしくて、お互いを高めあってるみたいですね!感動です!連れてきてくれてありがとうございます!ホント、テイクアウトをお願いしたいくらい!」

 言葉を尽くしても伝えきれない気がしたが、一生懸命感謝の気持ちを伝える。

「じゃあ、頼んでみよう」

「え」

「ブレンドは、粉から貰えると嬉しいね。そうしたらフィルターを用意するだけだし。豆からとなるとコーヒーメーカーを買わなくちゃ―――」

 言いながらマスターに合図を送ろうとする千尋を、みさきは必死で止めた。

「まま待ってください!私は比喩のつもりで言ったんです!できたらいいのにな、くらいの願望です!」

「だから、叶うと嬉しいでしょう?」

「そういうことじゃなくて………!」

 ちょっとした気持ちで言ったことを実行に移されるとは思っていなかった。しかもみさきが想像したテイクアウトと大分異なる。淹れられたコーヒーではなく、豆からって。しかもこのままでは家電量販店に逆戻りの気配だ。

「あの、あの、なら、また千尋さんが連れてきてください!」

 口を突いた言葉に、千尋は急に機嫌をよくした。

「そうだね。その方がいいか」

「ですね…………」

 何とかコーヒーメーカー購入を止めることができて、みさきはぐったりとテーブルにへばりついた。やはりこの人の世間ずれ、心配になる。

「……なんか、千尋さんって騙されやすそうですよね」

 コーヒーを飲んで一息ついてから呟くと、千尋が目を瞬かせた。ばつが悪そうにするから不思議に思って見ていると、こめかみを掻きながら口を開いた。

「実はそれ、友人にもよく言われるんだ。なぜなのか、自分では分からない」

「う~ん。スレてないってゆーか、全体的に箱入りっぽいんですよね。所作も洗練されてるし」

 どこかの財閥の次男坊とか言われてももう驚かない。

 貴族のような優雅さでコーヒーを飲んでいた千尋は、みさきの言葉に破顔した。

「箱入りではないよ。苦労なく育てて貰ったとは思っているけど、実家も物凄く裕福って程ではなかった。ただオレの場合、子どもの時分から外で遊ぶことに、あまり興味が持てなくて」

「あ~、ひきこもりだったわけですね」

「せっかく包んだオブラートの中身を思いきりぶちまけたね」

 千尋は拗ねたような口振りだが、根っからのインドアは確かに一定数いるのだ。別に恥ずかしいことではない。

「だからこそ今は、一人暮らしをしているんだよ。友人に、少しは社会を知った方がいいと言われてね」

「なるほど~」

 先程の確認相手はその友人だったのだろうか。相槌を返しながら、友人の気持ちを考えた。

 提案を何でも素直に受け入れるから、なおさら千尋が心配になるだろう。みさきにもとてもよく分かる。

「もしかして、千尋さんに女装を勧めたご友人って……」

「うん。同じ人だよ」

「やっぱり」

 女装をしろと言ったのも、おそらく軽い気持ちだったのだろう。けれど何でも鵜呑みにしてしまう千尋は、本当に実行してしまった。しかもお気に召したようで女装を続けているし、元来の彼の性格のためかクオリティは完璧だ。きっと頭を抱えたことだろう。

 千尋は、知れば知るほど変わった人だ。明晰な頭脳を持っていながら、やけに素直で純粋。これ程処世術に疎い人間が、よく今までまともに生きてこれたと思う。絶世の美貌と優れた知性のために気付かない者も多いのだろう。人によっては、彼の短所に映るのだろうか。

 ――私は……。

 目の前の人が決して完璧ではないことに、どこか安堵している。欠点だらけの自分でも、側にいていいんだと思える。もし様々な悪意が彼を襲うのなら、守ってあげたいとすら思う。

 ――もう、認めてしまおう。私は……。

 彼が『みさきクリーニング』に通うようになって、およそ一年。完璧な美女が美女ではなかったことを知り、親しくなってからはまだ半年も経っていない。けれど、時間の長さなど関係ないことを、知った。

 橘千尋が誰を好きでも、関係ない。好きな人がいても、それが例えば母親だったとしても、別にいいのだ。想うだけなら罪じゃない。

 ――私は……………この人が、すき。

 夢を見た時から。もっと言えば、買い物に誘われた時から気付いていた。多分自覚が遅かっただけで、ずっと前から、少しずつ想いが募っていった。なぜかするりと心を許してしまう、今では側にいることが当たり前になっている、この人を。……好きにならずになんて、いられないのだから。

 認めてしまえば胸が一杯になって、気持ちが溢れだしてしまいそうだ。心臓が痛い。顔は赤くなっていないだろうか。気持ちを落ち着けようと、みさきはコーヒーをグッとあおった。

 それが焦っているように見えたのだろう。千尋が小首を傾げた。

「もう、出たい?」

「あ、いえ、もう少し。……暑いの、苦手なので」

 ここを出たら今日のお出掛けは終わりかもしれない。焦ったみさきは涼みたいのを言い訳にする。

 彼はクスリと笑った。

「夏は嫌い?」

「そうですね、暑いから苦手です。冬の寒さは服を着込めばしのげますけど、暑さはどうにもならないですもん。全裸になっても汗はかくし」

「お、女の子が全裸とか言わないの」

 千尋の頬がなぜか少し赤らんだ。乙女か。

「……夏だって、楽しいことが沢山あるよ。海は綺麗だし、屋台の焼きそばはおいしいし、お祭りも、楽しいし……花火も、綺麗だ」

 海が綺麗まではともかく、後半全て同じことを言っているような。千尋はお祭り男だったのだろうか。

 みさきが内心首を傾げていると、何度も口を開いたり閉じたり不審な行動を繰り返していた千尋が、躊躇いを振り切るように顔を上げた。

「今度、花火大会、行かない?」

「え」

 今日何回目か分からない『え』が出た。

 花火大会に誘いたかったからこその、先程の前振りだろうか。しかし話の持っていき方が、千尋とは思えない程拙い。それが緊張のためだと思うのは、勘違いだろうか。

 色々考えた末、みさきは質問した。

「それって、デートのお誘い、ですか?」

 餌を求める金魚のように口をパクパクさせていた千尋が、熱のこもった眼差しを向けた。顔も金魚みたいに真っ赤だ。

「デートのお誘い……です」

 彼はまた、頼りなげに視線を落とした。

「……嫌、ですか?」

「行きます。ぜひ」

 母を誘わなくていいのか、とか気になることはあったが、みさきは自然に微笑んでいた。花火大会に誘おうと思ってくれた、その気持ちが嬉しい。

 驚きに目を見張る千尋を尻目に、みさきは話を続けた。

「でもお祭りって、花火より浴衣や甚平の方が気になっちゃうんですよね~」

 笑いながら言うと、彼もようやく緊張がほぐれたようで、少し笑った。

「職業病だね」

「ですね」

 クスクスと笑い合って、見つめ合う。相手と何もかも通じ合っているように感じられる、不思議と優しい時間だった。

「浴衣着て、行きますね」

「それは楽しみだな」

「千尋さんは、どっちですか?浴衣?甚平?」

「え……」

 笑顔で問うと、彼の表情は強ばった。

「私が浴衣を着るんですから、千尋さんもどちらかは着てくれるんですよね。いや~、楽しみだなぁ」

「う、ちょっと待って。考えさせて」

「もちろんいくらでも考えてください。待てば待つほど、期待も膨らみますから」

「……みさきさんて、たまに意地悪だよね」

「千尋さんがイジられやすいんですよ」

 浴衣を着た千尋は、とても美しいだろう。何を着ても似合う人だが、清涼な雰囲気やほっそりと長い首に浴衣はぴったりのはずだ。けれど。

 ……綺麗じゃなくてもいいから、甚平姿の千尋を見たいと思ったことは、秘密だ。


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