第16話 お出掛け
「こんにちは、迎えに来たよ。ちょっと早かったかな」
「こんにちは。私も丁度準備が終わった所です」
気もそぞろでいたら、あっという間に日曜日になってしまった。
待ち合わせ時間の十分前に『みさきクリーニング』を訪れた千尋に、みさきは微笑んだ。
おかしな夢のせいで、気合いの入った格好が無性に恥ずかしかったため、今日のみさきは無難な装いだ。白いコットンのブラウスに、ストライプのショートパンツ。髪だけはいつもより手間をかけてシニョン風にまとめている。
だがこの選択は間違っていなかったようだ。千尋はネイビーのシャツにベージュのロングスカートと隙のない着こなしだが、いつも通り女性の格好だ。普段と変わらぬ装いの彼に、ガッカリするやらホッとするやら。
「いってらっしゃ~い。二人とも楽しんできなさいよ~」
明るく見送る母に手を振り返して、早速出発した。
「そういえば」
電車に乗ると言う千尋に従い、駅の方角にゆったり歩いていると、彼はおもむろに口を開いた。
「光咲って、綺麗な名前だよね」
「……いきなりですね」
みさきは思わず足が止まりそうになったが、何とかポカンとするだけで堪えた。なぜか周囲の目線が気になって辺りを見回してしまう。人通りが少なくてホッとする。
対照的に、千尋は至極冷静に続けた。
「あの時は、驚きの方が大きくてきちんと言えなかった。でも、ずっと綺麗だと思っていたよ」
「アハハ。ありがとうございます」
――わざわざ褒め直すなんて、ホントに律儀な人だなぁ。
でもそれだけで気分が浮上するのだから、みさきも現金なものだ。打って変わって軽快な足取りになり、歩いて五分の駅に向かった。
◇ ◆ ◇
千尋の目的地は、二駅先の大型家電量販店だった。
住宅街が広がる綿屋家の最寄り駅と違い、多くの店がある駅前は日曜日ということもあって、人でごった返している。
色とりどりの服が並んだ駅ビルを出ると、すぐ目の前に全国チェーンの電気屋があった。五階建ての敷地面積が広いビルで、各フロアごとに扱う家電が違う。
千尋は迷うことなく大物家電のフロアに向かった。特に気になる製品もないので、みさきは大人しくついていく。
「なにを買いたいんですか?」
「うん、エアコンをね」
「新しくするんですか?」
「ううん。君の家のエアコンを買おうかと」
「……………はいぃぃぃぃぃい??」
混み合う店内でみさきは立ち止まった。後ろの人に嫌な顔をされるが、構っていられる心境ではなかった。頭の中は普通に大混乱だ。なぜ千尋が、綿屋家にエアコンを買う?
呆然としている間にも、彼はすいすいと人の波間を泳いでいく。見えなくなりそうになった所で我に返り、慌てて追いかけた。
「ちょ、ちょっと待ってください。あの、なんで千尋さんが我が家のエアコンを?」
「暑さが和らぐまでは、食事に行かせてもらえないだろう?でも、それだと大分先になってしまいそうだから」
「そんな理由!?ムリです!エアコンなんて高価な物、絶対いただけませんからね!」
千尋が立ち止まる。諦めてくれたかと安心したものの、自分の現在地を確認してギョッとした。既にエアコン売り場だった。
「いつもお世話になっているし、食事代だと思ってくれればいいんだよ」
「思えません!」
「大丈夫、あまり高い物は買わないから。それならいいでしょう?」
「よくないです!母も絶対困りますよ!」
母の威光は絶大らしく、千尋は途端に狼狽え始めた。こんなだから、みさきの目には結子を好きなように映るのだ。
――やっぱりデートじゃなかったみたい。
色んな感情が入り交じったため息をつき、みさきは顔を上げた。
「あの、ちなみになんでまた、そんな物を買う気になったんですか?食事なんて、どこで食べたって一緒じゃないですか」
「一緒じゃないよ。だって、」
「だって?」
「……だって、みさきさんの家に、ずっと行けないし」
どうやら彼にとって、あの食事会はとても大切なものだったらしい。
千尋は、あまりにも悲愴な顔をしていた。声も拗ねているというより、とにかく情けなくしょげきっている。成人男性であっても外見は美女そのものなので、罪悪感が凄まじい。心なし周囲の視線も痛い気がする。
頭痛を堪えながら、みさきはスマートフォンを取り出した。
「……妥協策を提案します。母に、連絡しても?」
了解を取ってから『みさきクリーニング』に電話する。結子がすぐに出たということは、現在お客様はいないのだろう。
仕事中に電話したことへの謝罪を済ませ、手短に状況を伝える。母も耳が痛くなる程の大声を上げていたが、みさきの提案を聞くと渋々ながら頷いた。
「……どうしても、千尋君は諦めそうにないのね?」
「なんならお母さんが説得して。ウサギみたいにプルプル震えるだけで、なにも喋らないかもしれないけど」
「……………分かった。みさきの案でお願いします」
みさきが通話を切ると、期待の眼差しの千尋と目が合った。会話のニュアンスから結果の予想が付いているのだろう。
「……OKだそうです。ただし、新品のエアコンは千尋さんのアパートに設置してください。払い下げになった古いエアコンの方を、綿屋家で譲り受けます。その際の設置費用はもちろん自分達で支払いますし、千尋さんが購入するエアコン代金の半額を私達が支払わせていただきます」
「五年くらい前の型だから、買う分にはいいけど……オレが買うエアコンの半額を、みさきさん達が負担するのはおかしくないかな?だってこれは、オレの我が儘だし」
「これでも相当譲歩した結果ですよ。私達の出費がご不満ということでしたら、この話はなかったことに、」
「すいません!その案を全面的に受け入れます!」
焦った千尋がみさきの台詞を遮った。荒く息を吐きながら、驚愕に満ちた顔になる。
「みさきさん、凄い交渉力だね……」
「クリーニングの受付は、いかに機転を利かせられるか、ですから」
みさきは重々しく頷き返した。
何年かけてでもこの恩は返さなければいけない。当面できることと言えば食事会だけなので、これまで以上腕によりをかけて美味しい食事を作ろうというのは、親子の共通認識だった。
それから機能などを比べ、店員のお勧めをじっくり聞いて、千尋は本当にエアコンを購入した。後日自宅に届くように手続きし、店を後にする。
結局、彼が購入したのは十六畳用の最新機種だったので、協議の末、半額負担ではなく五万円負担で落ち着いた。そうでなければ新品のエアコンが買えてしまうから、と千尋が譲らなかったし、十万円以上の出費は極貧綿屋家にはさすがに痛い。彼の主張につい甘えてしまった。
なんだか出だしからどっと疲れた。大変なお出掛けになりそうな予感が、ひしひしとした。
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