第15話 あくまでも。

 出掛ける予定はともかく、日程は決まった。その夜、日曜日は店を手伝えないことを伝えると、母は目を輝かせた。

「なぁに!?それってもしかして、デートじゃない!?」

「じゃ、ないよ。言うと思ったけどね」

 答えながらみさきは夏の定番⋅冷やし中華を食べた。細切り玉子ときゅうりとトマト、シャキシャキのカイワレ大根とウィンナーを載せるのが綿屋家の定番だ。ほんのり辛味のあるカイワレ大根は、さっぱりした中華ダレによく合う。

「ただ一緒に出掛けるだけだよ。行く場所だって決まってないし」

 千尋の買い物に付き合うだけだと言っても、母は全く信じようとしない。

 こうなることが分かっていたから言いたくなかったのだが、結子は母であると同時に上司でもある。日曜日に仕事を入れられては困るのだ。

「あんたが誤解してるだけで、向こうはそのつもりで誘ったのかもしれないじゃない」

 みさきを置いてきぼりにして、結子は勝手に盛り上がっていく。

「うわ~、デートかぁ。じゃあオシャレしなくちゃね。なに着てくのか決まってるの?」

「だから、デートじゃないってば」

「だからデートだってば。男女が連れ立って出かけるなら、なんだってデートになるの」

「……お母さんてホントに恋愛脳だよね」

 その困った性分が受け継がれなかっただけマシだと思おう。

「そういえば。今日、クリーニング持ち込んだお客様で、衣類に着いた虫の卵は完全に綺麗に取れるのかって」

 あからさまな話題変えだったが、仕事の話だったため結子も真面目な顔になった。

「取れると思うけど」

「思う、じゃなくて絶対?」

「なんでそんな100%を求めるのよ」

 鬼気迫る勢いで訪ねてきたのは、何度か来たことのある三十代の男性だった。普段は物静かで硬派な雰囲気だったのに、焦っていたのか口数も多かった。

「持ち込んだのは三橋様だったんだ。スゴく天気がよかった日、Tシャツを外に干したんだって。そしたらそこに、卵を産み付けられちゃって」

「どうでもいいけど、あんまり虫とか卵とか、食事中にやめてよ。食欲なくなっちゃう」

「もうとっくに食べ終わってるでしょ」

 親子の皿には中華ダレが残っているだけだ。みさきにもそれくらいの分別はある。

「それで、ホントにTシャツなの?あんまりクリーニングに出す人はいないけどね~」

 Tシャツは家でも洗えるものなので、持ち込む人は少ない。それでも男性が持って来たのは、それなりの理由があった。

「応援してるアイドルグループのTシャツらしいよ。押しメンごとにデザインも違うらしくて、スッゴく大切だから何とかしてくれってさ。しかも背中に本人のサインをもらえたから、マジ神なんだって」

「あ~、そういうこと。三橋様、アイドルの追っかけなんてするタイプだったのね~」

「相当コアなファンだと思うよ。熱意がスゴかったから」

 家宝にも近いTシャツに卵を産み付けられたら、確かにショックだろう。絶対落ちると断言してあげられなかったことが気にかかり、できるだけ不安を取り除きたかった。

 結子は少し考えた後、しっかりと頷いた。

「ちゃんと落ちると思うわ。だけど工場から帰ってきた品物を検品して万が一残っているようなら、もう一度クリーニングしてもらうべきね。その時は三橋様に、きちんと連絡しましょう」

 母の言葉にようやく安堵すると共に、三橋様にもそう話せばよかったと、少し落ち込む。まだまだみさきは半人前だ。

 神妙な顔をしていると、結子がテーブルから身を乗り出した。

「で?デートにはなにを着ていくつもりなの?」

 みさきはスッと目を細めた。この恋愛馬鹿、まだ引っ張るか。

「……あくまで買い物でしょ、買い物」

 麦茶を流し込んでごちそうさま、と手を合わせる。淡々と立ち上がり、台所のシンクに食器を片付けた。結子も食器を抱えながら背中を追ってくる。

「ホントに千尋君は買い物行こうって誘ったの?一言一句間違えずに教えてごらん」

「………『今度、よかったら、外で会わない?』だったかな」

 思い出したままを告げると、結子は鬼の首を取ったように大騒ぎを始めた。

「ほら~!やっぱり買い物なんて言ってないじゃん!デートじゃん!デートだよ!」

 隣から顔を覗き込む母と目を合わせられない。追及を淡々と、冷静にかわそうと思っていたのに。あくまで買い物だと思っていたはずが、こう何度も決めつけられては混乱してしまう。

「あんまり、デートとか、言わないでよ。……意識しちゃうじゃん」

 きっとみさきの頬は赤くなっている。俯いて、少し拗ねた口調で、唇を尖らせながら抗議する。

 結子は驚いたように一瞬動きを止めると、それ以上囃し立てることはせず、柔らかく微笑んだ。

「……ガンバらなくていいから、気負わず楽しみなさい」

それは、母親らしい慈愛に満ちた声だった。



 片付けは任せろと母が言うので、みさきは礼を言って寝る準備を始めた。

 夜も蒸し暑いため、みさきはブランケット一枚で寝ている。それにもぐり込みながら天井を見上げた。街灯の灯りが部屋に差し込み、室内をうっすらと照らしている。窓の外を時折行き過ぎる車の音が聞こえる。

 普段なら寝付きはいい方なのに、少しも眠くならない。どうせなら推理小説でも書ければいいのだが、掬い上げようとした言葉が水のように手のひらをすり抜けていってしまう。文章より鮮烈に、心に浮かび上がる人がいるからだ。

 ――ホントに、デートのつもりだったのかな。

 母のいい加減な言葉を真に受けてはいけないと分かっているのに、頭ではついつい考えてしまう。

 誘う時の千尋の様子は、どこかおかしかった。もしかして、緊張していたからだろうか。デートに誘うために?

 考えても考えても、みさきに都合のいい結論に傾いてしまっている気がする。千尋はただの買い物のつもりかもしれないから、あまり期待してはいけない。

 それでも少しでも可愛く見えるように、お洒落をして行くべきだろうか。

 ――イヤイヤ。私が少しでもオシャレしないと、あれだけ綺麗な千尋さんと釣り合い取れないからね。あくまでも他人の視線が気になるからであって、千尋さんにどう思われたいとかでは。そう、あくまでも。

 ただの買い物だったとして、ガッカリするのは自分だ。浮かれすぎては駄目だ。

 ――ガッカリするの?デートじゃないと?

 自分の心の呟きに混乱する。深呼吸して落ち着こうにも、押されているみたいに胸が痛い。

 ――あれ。私、なんかヘン……。

 おかしな思考を振り払うように、みさきは頭からブランケットを被った。


  ◇ ◆ ◇


 夢を見た。

 視界はぼやけていないのに、何だか判然としない世界。一目で夢だと分かる、オレンジとピンクが入り交じった黄昏時のような空間。

 みさきは可愛らしいミントグリーンのワンピースを着ている。仕事中は色気もなくまとめた髪は、サラリと背中を流れていた。いつもなら決して履かないヒール付きのパンプスが、みさきを特別なお姫様にしてくれているみたいだ。

 何もない世界を目的もなくぼんやり歩いていると、遠くにポツリと人影が見えた。

 フワフワとした足取りでその人に近付く。

 均整の取れた長身はスーツに包まれていた。後ろ姿でも分かる。とても素晴らしい王子様に違いない。振り向いて、笑ってくれるに違いない。

 その笑顔はきっと清水のように清廉で、切れ長の目は吸い込まれそうな黒瞳をしているだろう。そして涼やかな声で名前を呼ぶ。『みさきさん』、と。

 初めて名前を呼ばれた時から、その響きがとても心地よくてドキドキしていたなんて、この人は知らないだろう。勘違いで名前を呼ばれることはよくあるのに、あの時だけは顔が赤くなるのを必死に堪えていたなんて。

 みさきが彼を見つめながら立ち止まると、背中越しにフッと笑う気配がした。

 ゆっくりと振り向いたその人の顔は―――。

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