第三章

第14話 変化の兆し

 夏本番がやって来た。

 蝉の鳴き声がどこからともなく聞こえてきて、空には鮮明な陰影の入道雲が浮かぶ。暑さは最高潮で、動かずとも汗が吹き出してくる程だ。

 この時期、みさきは仕事が好きになる。正確には好きになるわけではないが、率先して受付業務を引き受けることにしていた。

「あ~……、お店は天国だ」

 冷房の風がみさきの心を癒した。

 店舗は冷房が効いている。出入り口に扉がないので、店舗に通じる休憩スペースも涼しい。

 だが住居スペースは地獄のような暑さになる。築三十年超の建物は夏暑く冬涼しいという、季節を体で実感できる造りだし、冷房と言えば扇風機が一つあるのみだ。よもぎ蒸し風呂や岩盤浴なんか行かなくても、居ながらにして勝手に痩せていくと思う。

 暑さが苦手なみさきは家から逃げ出すために、店頭に立っているのだった。

「ありがとうございました~」

 子ども連れの若い母親に、笑顔で頭を下げる。無邪気に手を振る少女に手を振り返した。

 母親が預けていったのは、大人と子どもの浴衣が一点ずつだった。母親のものはモダンなストライプの浴衣に深紫の帯。少女のものは朝顔柄の浴衣にフワフワしたピンクのへこ帯だ。夏祭りが近くなり、浴衣をクリーニングに出すお客様が少しずつ増えている。

 タグ付けしようと作業スペースに向かう途中、再び来客があった。


 チリンチリン


「いらっしゃいませ~って、千尋さん」

 来店したのは千尋だった。ノースリーブのワンピースと、いつも通りさらさらの髪。そこだけ別次元のように清涼な風が吹いている。

「こんにちは、今日も暑いね」

「こんにちは。そうは言っても汗一つかいてないじゃないですか。羨ましい」

 千尋に会うのは久しぶりだった。暑くなり、我が家に人を招けるような状態ではなくなったため、食事会がご無沙汰なのだ。

「クリーニングですか?」

「うん。またスーツをお願いします」

 千尋が持って来たのは、仕立てのいいダークブルーのスリーピースだった。ジャケット、スラックスに加えて、同じ生地のベストがあるものをスリーピースという。

 スリーピースといえば堅苦しくなりがちだが、千尋のものは細いラインの入ったグラフチェック柄になっており、若々しく洒落た印象になっていた。

「スリーピースが一点ですね」

 確認作業をしていた手をふと休め、みさきは顔を上げた。

「そうだ、汗抜きクリーニングはお試しになられますか?」

「汗抜きクリーニング?」

 今まで勧めたことはなかったが、夏にぴったりなプランだ。

「スラックスの太もも部分って、夏場はよく白くなったり、ごわついたりしますよね。あれ、汗が原因なんです。ジャケットは下にシャツを着ている分マシなんですが、スラックスは肌に直接触れるものなので、汗が染みやすいんですよね」

 商品説明は幾度となく繰り返しているため、立て板に水のごとく考えなくても言葉が出てくる。

「クリーニングというのは基本ドライ洗浄なので、こまめに出していたとしてもごわつきはなくなりません。この汗抜きクリーニングは、ドライクリーニングと水洗いの両方を行うので、ごわつきが取れてかなりスッキリしますよ。ドライクリーニングの料金に+300円と消費税でできます」

 自信を持ってお勧めできる、リピーター率が極めて高い汗抜きクリーニングなのだが。

 ――って、千尋さんのスラックス、全然ごわついてないな……。やっぱり美人は汗をかかないってホントなんだな。

 妙なことに関心していると、千尋はすんなり頷いた。

「じゃあ、お願いしようかな」

「ありがとうございます」

 ここで頷く人は、余裕のある人が多い。金銭的な余裕だけでなく心にゆとりを持っている人。心にゆとりがある人は、大抵金銭的にも余裕があるのだが。

 笑顔で返しながらも、その理論が一概には当てはまらない者がいることを思い知った。

 ――この人の場合、お金に余裕があるとかより、単に素直すぎるって気も……。

 頭がよくて超然としているのに、千尋はやけに素直な一面がある。母が勧める食べ物なら疑わずに何でも口にするし、否定や断りの文句をほとんど聞いたことがない。

 少し高いコースに誘導しておいてなんだが、一人でまともに生活ができているのか心配になってくる。高い壺とかうっかり買ったりしないだろうか。

 会計を済まし、引き換え券を渡す。これで千尋の用件は終わった。そのまま話していくことはよくあるが、今日は特に何も言わない。かといって立ち去ることもしないため、みさきは首を傾げた。

 なぜかいつもより硬い表情をしている千尋についみさきまで緊張してしまう。しばらく二人して間抜けに立ち尽くしていたが、彼は意を決したように口を開いた。

「――今度、よかったら、外で会わない?」

 みさきは目を瞬かせた。あまりの意気込みに思わず肩を揺らしたが、言われた内容は拍子抜けだった。

「はい、いいですよ。私も外で会いたいと思ってました」

「え」

「マジでいい加減うんざりですよね、母のあのニヤニヤ笑い。ホントすいません」

 期待に満ちて瞳を輝かせる千尋に、深々と頭を下げた。

 暑さが限界になる前、数度はいつものように食事をした。食卓には毎回、暑さが和らぐような食事が並んだ。オクラと豚肉を梅肉とゴマだれで和えた物。ポン酢をかけた唐揚げや、手羽元とジャガイモをお酢で柔らかく煮込んだ煮物などだ。

 その席で結子は、千尋を名前で呼ぶみさきにすぐに気付いた。『いつ』『なんで』『どこで』と根掘り葉掘り聞かれ、正直辟易としていたが、おそらく千尋もそうだったのだろう。これでは話もままならないと、誘ってくれたらしい。

 千尋もゆっくり話したいと思ってくれているのなら、嬉しかった。みさきは満面の笑みを浮かべる。

「用事があるならどこでも付き合いますよ。何か買いたい物でもあるんですか?」

「そうだね……うん。考えておくよ」

「?」

 お出掛けに誘っておいて、買う物が決まっていないとはこれ如何に。

 瞳から輝きが失われた千尋が肩を落とす姿に、みさきはキョトンと首を傾げるのだった。

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