第13話 小さな秘密

 謎がすっきり解けた翌日は、梅雨の晴れ間で天気までからっとしていた。そろそろ梅雨明けが発表されるかもしれない。

 ぷっかり浮かんだ雲が風に流され、形を変えていく。手を休めてぼんやり眺めていると、来客があった。岡様だ。

「いらっしゃいませ、岡様」

 ベージュのジャケットに水色のポロシャツ。スラックスはネイビーだった。

 ――うぅ。やっぱりどっちか分からない。

 みさきはにこやかに挨拶をしながら、内心緊張していた。どちらがどちらなのかはっきり分かるようにならなければ失礼になる。

「先日お願いした礼服を取りに来ました」

 そう言って胸ポケットから引き換え券を取り出す。口数の多さからも、比較的穏やかな方の『岡様』のようだ。ただし名前は『英一』なのか『恵一』なのか分からない。三ヶ月前にスラックスを出し、二重線でクレームを上げたのは『岡英一』様だ。初めての来店ということで氏名や住所を用紙に書いてもらったから間違いない。

 だがそれ以降の来店は、果たしてどちらであったのか分からない。もしかしたら『岡恵一』様だったかもしれないのだ。

「少々お待ちください」

 みさきは引き換え券を受け取り、礼服一式を探した。すぐに見つけ出して岡様の元へ戻る。

「お待たせいたしました、岡恵一様。礼服上下とフォーマルのネクタイでよろしいでしょうか?」

 故意にフルネームで呼んだが、否定されるかもしれないと冷や冷やしていた。

 だが岡様は、こくりと頷いた。

「ありがとうございます」

 みさきは肩に入っていた力を抜いた。よかった。これで比較的話しやすい方が『岡恵一』様と確定した。


 チリンチリン


「いらっしゃいませ――…」

 ベルの鳴った方を見て微妙に挨拶が途切れたのは、入店したのが千尋だったからだ。

「――こんにちは橘様。申し訳ございません、もう少々お待ちくださいませ」

 千尋に頭を下げてから岡様に向き直る。礼服一式を丁寧に袋に入れてお渡しする。

「結婚式、晴れるといいですね」

 言い添えると、岡様は頬をゆるめた。

「ありがとうございます」

 心のこもったお礼の言葉に、みさきも胸が温かくなる。店を出ていく岡様の背中を、笑みを浮かべて見守った。

「こんにちは、みさきさん。もしかして今の方が、『岡様』?」

 店の隅に控えていた千尋が近付いてくる。今日の彼はシャーベットのように淡い色合いのワンピースを着ている。

「名前で呼んでみましたから、間違いなく『岡恵一』様ですよ。橘さん、今日はクリーニングですか?」

「うん。またスーツなんだけど、お願いします」

 千尋が取り出したスーツを受け取り、検品を始める。他にお客様がいないため、丁寧にチェックしていく。

 ――そういえばこのスーツ、橘さんが着てるんだよな……。

 当初は女性という認識だったため、旦那様か恋人のスーツだろうと推理していた。だがこうして改めて見ると、サイズは完全に千尋のものだ。

 事実を知った時のあの衝撃を思い出していると、千尋が口を開いた。

「確かによく似ているけれど、昨日の人とは微妙に色々と違ったね」

「え。そうですか?」

 僅かなやり取りで性格の違いを見抜いたのだろうか。驚いて顔を上げると、思案げな千尋は岡様の背中を視線で追っていた。

「身長も、顔立ちもちゃんと違いがあったよ。特に体型はかなり見分けがつくね。昨日の『岡英一』様は、少しお腹が出ていた。けれど『岡恵一』様は、何か運動をなさっているんだろうね。健康的な体をしていたよ」

「へ~!よく見てますね~!」

 言われてみればそうかもしれない。だがその場では気付けなかったみさきは、単純に驚嘆の声を上げた。

 だが千尋からは、問題のある生徒を見るような視線が返ってきた。

「というか、君達親子が見なすぎるんじゃないかな。はっきりとした違いだったよ。多分君達は、顔立ちなんかは大まかに覚えておいて、服装ばかりに目が行ってしまうんだろう。ある意味職業病だ」

 思わず目をそらしたのは、図星だったからだ。クリーニング業を手伝うようになってからというもの、すれ違う他人の衣服の毛玉具合が気になるようになってしまった。会話をしている相手の袖の、ほんの小さな虫食いに目がいってしまう。これらの行動に全く悪意はなく、ただ観察しているだけということは理解してほしい。そう、まさに病なのだ。

 それでもお客様の顔をしっかり見ないというのは、接客業としてあり得ない。みさきは自分の駄目さ加減にがっくりと落ち込んだ。

「うぅ……以後気を付けます」

「これから頑張ればいいんだし、そんなに落ち込まなくても。岡さんて方、君の最後の一言、とても嬉しそうだった。とりあえず今はそれだけで十分じゃないか」

「それは私の手腕には関係ないし、岡様が娘さんの結婚式を楽しみにしてるだけだし……」

 褒めてもらえる所じゃないと思いつつ、喜びを滲ませながら去っていく背中を思い出す。見ているだけで幸せが伝わってくる姿。みさきもいつか、母を喜ばせられるような結婚をするのだろうか。

「ジューンブライドか……」

「憧れる?」

「あ、いや、えっと、六月にこだわるってことはないですけど、ちょっと羨ましいなって思っただけで―――」

 心の声が漏れていたことに気付いたみさきはすっかり慌てて、最早取り返しがつかない程だだ漏れに本音を零してしまう。

 とんでもなく恥ずかしいことを口走った。熱くなった頬を押さえるが、千尋は笑ったりせず視線で続きを促していた。

 躊躇ったが、この人には恥ずかしい所も情けない過去も知られている。みさきは半ばやけになって、思ったままを口にした。

「……大好きな人が、自分と同じくらいの想いを返してくれるって、本当に奇跡みたいにすごいことですよね。それが、羨ましくて」

 高校生の頃のみさきはそうじゃなかったから。あのお馬鹿な元恋人は、好きなんて最後まで言うことはなかった。

 大好きだった横顔や大きな手の平、浅黒い肌の色、消防士になりたいと語る時の瞳の輝きを思い出して、少し切ない気持ちになる。

 俯いていると、労りに満ちた声が降ってきた。

「……君は、初恋の彼に愛されていなかったと思っているかもしれないけれど」

 千尋はあの時と同じ、静かで穏やかな眼差しで、みさきを見つめていた。

「恥ずかしくて言葉にできなかったり、中々会えないことを落ち込んだり。彼にも、そんな葛藤があったかもしれないよ。ただ、二人の気持ちがうまく噛み合わなかっただけで」

 優しい声が真珠の粒のように、まろやかに部屋の隅まで広がっていく。

 どんな慰めも拒絶し続けていた心に、千尋の綺麗な言葉がすとんと落ちてきた。まるで柔らかな雨のように。乾いた大地に沁み入るように。

「……そうなのかな」

「きっとね」

 ポツリと零れた呟きを、千尋が肯定する。みさきはようやく少しだけ、顔を上げた。

「また私にも、恋ができる?」

 千尋はとても鮮やかに微笑んだ。

「できるよ。これは、絶対だ」

 力強い言葉に、みさきはほんの僅かだけ笑顔を返すことができた。

 これからは、雨も好きになれるかもしれない。憂鬱になった時は、千尋の慈雨のような言葉を思い出せばいい。

 みさきは突き抜けるような蒼天を見上げた。

「あの」

 千尋の優しい眼差しと目が合った。みさきは笑みを深めて口を開く。

「私も、千尋さんて呼んでいいですか?」

 彼は珍しく、目を丸くさせた。なぜか戸惑ったようにキョロキョロし、口元を押さえる。頬骨の辺りがほんのり赤い。

 意外な反応に、みさきは目を瞬かせた。

「……じゃあ、オレも、名前を聞いてもいい?」

 思いきったように聞かれ、つい吹き出してしまった。

「名探偵にも、分からないことってあるんですね」

「……どういうこと?」

 笑いを堪えるみさきに、千尋は不思議そうだ。何でも見通す超然とした彼にも分からないことがあると思うと、少しおかしい。

「みさきです」

「え?」

「私の名前、みさきなんですよ」

「―――――え」

 千尋の動きが止まった。

「うちが『みさきクリーニング』だから、みさきが名字だと勘違いする人、多いんですよね。だから一々訂正しないんですけど、実際は私の名前なんです。本当は、光が咲くって書いて光咲って言います。綿屋光咲。ちなみに母は結子ですよ」

 苗字が『綿屋』だったため、打綿を商う綿屋と間違える人がいるかもしれない、と母は考えたようだ。『結子クリーニング』だとさすがに恥ずかしいので、当時まだ幼かったみさきの名前を拝借したらしい。

 みさきが長々と説明する間も、千尋は硬直していた。やがてゆるゆると手を動かして口元を覆ったが、それは機械のようにぎこちない。驚くとあどけなくなるんだな、とぼんやり思った。

「―――そういえば……君のお母さんが君の名前を呼んでいる所、一度も見たことがない……いやでも、ラインのやり取りまでしているのに」

「あの人のことだから、勘違いを分かってて黙ってた可能性もありますね。自分が名乗るタイミングも、上手いことかわして」

 確かに千尋がいる時は、みさきの名前を呼ばなかった気がする。あれもおそらく意図的にだったのだろう。

「まぁそんなわけで、橘さん―――じゃなくって千尋さんは、私のことを初対面から名前で呼んでいたってことなんですよ」

 ちょっと意地悪な気分で言ったはいいが、効果は驚く程覿面だった。

 白皙の美貌が熟れた林檎のように赤く染まり、黒瞳がみるみる潤む。過剰な反応にみさきの方が驚いてしまった。

「ご、ごめんなさい。千尋さんて、意外と純情なんですね」

「う、うるさい。仕方ないだろ」

「あ、照れた。照れてますよね」

「だからやめろってば」

 どうやら動揺すると、丁寧な言葉遣いを忘れてしまうらしい。

 また一つ新しい千尋を知ることができて、みさきは満面の笑みを浮かべた。


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