第10話 六月の花嫁

 あの夜の千尋の態度や言葉が甦るたびに胸がソワソワしたが、だからとずっと考えてもいられない。

 こんな時こそミスをしないようにと、みさきはむしろいつも以上に気を引き締めて働いた。

 一週間が経った日。

 窓の外には重苦しい黒雲が立ち込め、今にも空が覆い被さってきそうだった。雨が振り出しそうな天候は、やはりみさきを憂鬱にさせる。

「すいません。スーツにカビが生えちゃったんですけど、これってクリーニングで落ちますか?」

「大丈夫ですよ。カビはクリーニングで綺麗に落ちます」

 この手のトラブルは年中起こるが、梅雨どきと冬が一番多い。慣れた説明を笑顔ですると、若い女性は分かりやすく胸を撫で下ろした。持ち込んだスーツは夫か恋人のものだろう。

「とにかく換気が一番なんですよ。例えばクローゼットの中の湿気が多かったりすると、せっかく落としたカビが復活してしまったりするんです。湿気を取ってくれる除湿剤を置くと、カビ予防になりますよ」

「分かりました」

「あと、クリーニングから返った衣類をそのままビニールに入れっぱなしにしていたりしませんか?」

「えっと……ダメなんですか?」

 若いと、クリーニングした衣類の保管方法を知らない人が多い。いらない親切かもしれないが、みさきは機会があれば、できるだけさりげなく教えることにしていた。

「今は不織布を使用したカバーが多いですから、それほど問題ないんですけど、通気性を考えると、一度カバーから取り出して空気に当てた方がいいんですよ」

「へぇ~」

 ドライクリーニングには、石油系の洗剤が使われることが多い。クリーニングに出したものを何日も放置し、いざ着ようとした時には石油の臭いが酷くなっていた、なんてことはよくあったそうだ。これは洗剤が僅かに残っていたために起こったことなのだが、そのまま着用し、肌が焼けたように炎症を起こしてしまったケースもあるらしい。あまりに重傷の場合は裁判沙汰になったとか。

 今は不織布カバーが増えているため通気性がよく、そういったトラブルが少なくなっているが、やはり持ち帰ったら一度風に当てることをお勧めしたい。一晩で僅かに残っていた洗剤が気化してほとんど臭いがなくなるし、肌にも優しい。湿気対策にもなる。

 長々とした説明に苦笑いするお客様も多いが、可愛らしい女性はニコニコとお礼を言った。

「ありがとうございました。家に帰ったら早速やってみます」

 素直な方だな、と少し軽くなった気持ちで見送る。

 早々にカビの生えたスーツのタグ付けを終えると、みさきは休憩スペースで暇を持て余していた。次は何をしようか考えていると、来客を告げるベルの音が響いた。

「いらっしゃいませ」

 やって来たのは岡英一様だった。麻素材のチェックのジャケットに、ベージュのスラックス。彼が何の仕事をしているのか知らないが、教師のような服装だといつも思う。腕に衣類を抱えているから、今日もクリーニングがあるのだろう。

「こんにちは、岡様。本日はクリーニングですか?」

「はい。これをお願いします」

 口角の下がった唇が、ほんの少しだけ綻ぶ。何だかいつもより雰囲気が柔らかい気がした。

 岡様がハンガーを持ち上げる。黒色の衣類カバーから出てきたのは、礼服の上下と白いネクタイだった。

 黒のスーツと礼服の違いは、黒の濃さと作りの重厚さにあると言ってもいい。礼服は漆黒と呼ぶに相応しい色をしていて、見比べれば黒のスーツはくすんで見える。生地自体もしっかりしているし、縫製からボタン一つから品の良さが伺える。

 けれど礼服を単品で持ち込まれた場合、比較対象がないため色の濃淡では判断が難しい。そうなると縫製から見極めるしかないのだか、やや高価なスーツになるとその差異すら曖昧になる。礼服とスーツではクリーニングの料金が違うので、ここは間違えたくない所だった。

「礼服の上下が一点と、フォーマルのネクタイが一点ですね」

 白のネクタイが一緒だから礼服で間違いないはず。

 品物を確認するふりで、お客様が肯定するかを確かめる。クリーニング受付の常套手段だ。

「ええ。実は今月、下の娘の結婚式があるんです。なのでしっかりお願いします」

「かしこまりました」

 礼服で間違いなかったようで、内心胸を撫で下ろす。

「ジューンブライドなんて、素敵ですね」

 洗濯標示やポケットの確認をしながら、岡様に話かけた。傷や汚れが少ないことから大切に着ていることが分かる。もしかしたら、以前着た時にクリーニングをしてあったのかもしれない。それでも次に着る前に、再びクリーニングに出す人はたまにいる。一度も袖を通していないのにと思ってしまうが、大切な娘の晴れ舞台ともなれば気持ちの問題なのだろう。

 岡様は珍しく相好を崩した。

「いつまでもふらふら遊んでいた娘でしてね。あの子が三十歳を過ぎてからは半ば諦めていたから、本当にホッとしましたよ。まぁ四十も近いから、ジューンブライドなんていうのも柄じゃないんだがね」

 ずっと誰かに自慢したかったのだろう。岡様は珍しく、とても饒舌に話した。

 みさきまで嬉しくなって、笑顔を返す。

「お幾つでも、きっと素敵な花嫁さんになられますよ。幸せな花嫁のジンクスに、年齢は関係ありませんから」

 ジューンブライドの由来は諸説あるらしいが、みさきが知っているのはローマ神話に関係するものだ。

 六月は『JUNE』。ローマ神話で結婚を司る女神『JUNO』になぞらえ、この月に結婚すると花嫁は幸せになると言われているらしい。

「お父様にも喜んでもらえて、お嬢様はとても幸せですね」

 みさきの言葉に、岡様は照れくさそうに頷いた。

「ありがとう」

 仕上がり日を指定して、岡様が帰っていく。しばらくその姿を見送ったみさきは、結婚式当日が晴れることを祈った。


 ◇ ◆ ◇


 配達回りから帰ってきた母に、連絡事項として岡様が来たことを話した。

「岡様、前より雰囲気が穏やかになってたよ。スゴく話しかけやすかった」

「そうなの?私もあんまり話したことないのよ~。何だか無駄口を嫌われるカンジでね」

 確かにみさきも、厳格な雰囲気の人だと思っていた。今回に限って、ことさら機嫌がよかったのかもしれない。

「娘さんの結婚式で浮かれてるのかしら」

 そう結論付けた母が、ふと衣類を保管するラックに視線を向けた。

「そういえば、岡様はスラックスを引き取って行ったの?」

「―――あ」

 全く忘れていたが、岡様が一週間前に出したスラックスは未だ店にあった。仕上がった当日に引き取りに来るお客様の方が少ないから、一週間でも二週間でも保管しておく分には構わない。だが岡様が礼服を出した時、引き取っていただくことは十分可能だった。

「忘れてた……」

「岡様も、引き換え券を出さなかったんでしょ?なら仕方ないわよ。きっと礼服を取りに来た時にまとめて持ち帰る予定なんじゃないの?」

 気にすることはないと肩を叩く母が、そのままじっとみさきを見つめた。

「……………なに?」

 さばさばしている母の神妙な顔はとても珍しく、後ろめたいことはないのに激しく目を瞬かせてしまう。

 結子は肩に手を置いたまま口を開いた。

「また近い内に、千尋君を夕飯に誘ってもいい?」

「……………へ?」

 何を言うかと思えば、正直拍子抜けだ。

「なんでそんなこと私に確認するの。それに、あれはお得意先からスイーツもらった時だけじゃないの?」

「最近あんまりもらわないんだもん。千尋君がどうしてるのか気になっちゃって」

「お母さん。断言する。それは『恋』だ」

「うん、絶対違う」

 あっさり却下されてみさきは唇を尖らせた。恋愛偏差値が低くても、語ってみたい時はある。

 結子はみさきを無視し、ほう、と息をついた。睫毛を伏せた横顔は、普段隠しがちな母親のそれだった。

「―――あんたが、あの頃の話をするとは思わなかったわ。まだ親しくなって一ヶ月くらいでしょう?お母さんにだって話すの嫌がってた癖にさ」

「あ~……だってあれは、黒歴史みたいなものだからさ」

 盗み聞きしたことを反省していないのかと思いつつ、苦笑いをこぼした。

 若くて、感情のままに動いて、失敗して。千尋にはさわりの部分だけを話したが、恥ずかしくなることも山程やらかした。泣きながら電話したり、『好き』を強要したり。今となっては思い出すだけで居たたまれない気持ちになる。

 友達にも聞かせたくない恥部を、あの時なぜか、抵抗もなく言葉にしていた。千尋の清水のような雰囲気のせいだろうか。

「う~ん……。私も、誰かに聞いてほしかったのかもなぁ。岡様みたいに」

「え?」

「事情を全然知らない人に聞いてほしいって時、あるでしょ?」

 家族が相手だと意地になって言えない本音も、他人だから話せる。ただ優しく聞いてくれる人になら、素直になれる気がして。

 ――優しすぎたからか、なんかおかしな空気になっちゃったけど。

 千尋の体温や間近に迫った美貌を思い出してしまって、みさきの頬は少し熱くなった。

 けれど次に会った時には、今まで通りの距離感に戻れるはずだ。きっとあの日が特別だっただけ。

「誘っていいよ。っていうか私の許可なんていらないと思うけどね。その時は、久しぶりに唐揚げでも作ろうかな」

「いいわね~。あんたの唐揚げ大好物」

「でも盗み聞きはやめてね」

「……………善処します」

 言い逃れする政治家のような言葉に、みさきは顔をしかめた。

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