第9話 初恋

 みさきには幼なじみがいる。勉強よりも遊んだり体を動かすことが好きな、やんちゃでちょっとお馬鹿な男の子だった。

 保育園が一緒で、シングルマザーの母親同士がまず仲良くなった。家はそれ程近くなかったが、困った時はいつも助け合っていた。

 親のおかげで子ども同士も会う機会が多く、自然と一緒に遊ぶようになった。みさきはやんちゃな彼の影響で、秘密基地を作ったりピンポンダッシュをしたりと、男の子のような幼少時代を過ごした。

 大きくなるにつれ、学校の女の子達に誘われるようになり、一緒に遊ぶことは減っていった。彼も男友達と野球をしたりサッカーをしたりするのが余程楽しいらしく、みさきになんか目もくれなかった。

 それでも何だかんだ、一番仲がいい異性はお互いだったと思う。

 中学校を卒業し、みさきは家から近い高校に進学した。すくすく成長したが頭だけは成長しなかったらしく、幼なじみは遠くにあるお馬鹿が集まる高校しか引き取り手がなかった。

「高校生になってから、相手のことを意識し始めたんです。学校が離れてしまったから、自覚したというか」

 彼の方はどうだったんだろうと、指をさすりながら考える。

 日没の迫ったリビングは暗い。電気を点けなければと頭では分かっているのに、みさきはただ自分の手を見つめていた。テーブルに置かれた手が、少しずつ暗闇に溶けていくようだった。いずれ指先から、自分の姿さえ見えなくなっていく。

「高校入学してしばらくしてから、思いきって告白しました。彼も頷いてくれて、一応付き合うようになりました」

 当時のみさきは相当浮かれていたと思う。好きな人と結ばれて、これから幸せな毎日がやって来るんだと疑いもしなかった。

「でも、高校生くらいの男子って、彼女といるより友達といる方が楽しいっていうじゃないですか。私の彼は、まさにそれでした」

 二人で会える日なんて月に一度くらい。それだって、乗り気ではない相手に必死に約束を取り付けて。

「彼、本当に妬けるくらい、友達が好きでしたから。バカばっかりやるグループで、周りの友達もバカだから、多分スゴくからかわれたんだと思います。女子と付き合うこと」

 おバカな所も可愛いなんて考えていたのは一瞬だった。たまには友達より優先してほしいと思うのは我が儘なことなのかと、一人でずっと悩んだ。

 苦しかった気持ちがまざまざと甦ってきて、みさきはこぶしを握った。

 千尋はたまに相槌を打つ程度で、黙って話を聞いている。その沈黙がありがたかった。

「辛かった。付き合う前より会えなくなって。努力して可愛くなっても、オシャレしても、気付いてさえくれない」

 若かったからだろう、みさきの我慢も足りなかった。独りよがりだった。

 結局、一年くらいは耐えていたけれど、ついに不満が爆発してケンカ別れ。最後はとても呆気ないものだった。

「てゆーか、向こうは付き合ってるって自覚なかったかもしれませんね。結局デートなんて数える程度だったし、手を一度繋いだだけで別れたんですから」

 話しても大して長くならないほど、何もなかった。

 この時期になると、何もかもにやる気を感じられなくなるのは、未だに少し引きずっているからかもしれない。

「そんなわけで、それきり彼とは一度も会ってないです。会わないでいようと思えば可能な程には接点なくなってましたから。まぁそれ以来、誰かに見初められることも見初めることもなかったので、こんなカンジになっちゃった、というわけです」

 みさきは声を明るくして立ち上がる。

 ドアの近くのスイッチを押すと、にわかに部屋が眩しくなる。一気に現実が戻って来たような気がして、頭をうまく切り替えられた。

 笑顔を作って振り向くと、思ったより近くに千尋がいて心臓が飛び跳ねた。いつの間に立っていたのだろう。

「どうかしました?」

 普段の彼は母にもみさきにも、節度のある距離を保っている。どこか人間離れした雰囲気も相まってすっかり油断していた。

 今の彼は、体温すら感じられそうな距離にいる。急に千尋が得体の知れないものに思えて、自然と体が強張った。

 頬に、そっと手が伸びる。

 繊細で大きな手から思いがけない程の温かさが伝わる。千尋の体温が高いのではなく、みさきの頬が冷えていたのか。

 怖々と視線を上げると、間近に彼の顔があった。明かりの下で生まれた濃い陰影が、千尋をいつもより男らしく見せている。切れ長の吸い込まれそうな黒瞳から目が離せない。

 彼の双眸に宿る光は予想外に静かで、穏やかだった。労りすら感じられる優しい瞳に、戸惑いが薄らいでいく。

「―――泣いているの?」

 心地よい声が耳を打つ。一瞬、何を言われているのか分からなくて混乱した。

「へ?目は乾ききってますけど?」

 全く泣いた覚えがなかった。無意識に泣いていたのかもと目を擦るも、そんな形跡すらない。そもそもあの頃の恋に、今さら涙を流す程の感情は湧かない。ひたすら泣いたのはもう五年も前のことだ。

 本気で首を傾げていると、千尋は悲しげに目を伏せた。

「君の心は、悲鳴を上げることが怖くなってしまったんだね」

「……何を、」

 笑おうとして失敗した顔が歪んだ。千尋が何を言っているのかさっぱり分からないのに、こうも腑に落ちる気がするのはなぜなのだろう。

 胸に何かがつかえているみたいで、苦しくなったみさきはギュッと眉を寄せた。

「橘さん―――」

 頬に添えられていた指を、不意に意識した。肌に触れる自分とは違う温度が、溶け合うように同じ温かさに近付いていく。こんな感覚をみさきは知らない。

 触れたら壊れてしまいそうなこの空気は、一体なに。


「は~い!コーヒーができたわよ~!」


 突然白々しい大声が割り込んだため、危うげな空気は一瞬で霧散した。しかもまたもや絶妙なタイミング。

 みさきは台所にズカズカ進入し、三つ並んだマグカップに触れた。

「……お母さん、コーヒーえらく冷めてるんですけど」

「………」

「また盗み聞きしてたでしょ」

「……電子レンジで、温めましょうね」

 コーヒーとシュークリームは相性抜群だった。

 食べている間中、これが淹れたてだったらどんなに美味しかっただろうと、みさきはチクチク嫌みを言い続けた。




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