第二章
第7話 最近の我が家
「ただいま~」
「おかえり、お疲れさま」
母が店舗側から帰ってきたのに合わせて、店のベルがチリンと鳴った。
「お店はどう?」
「いつも通りのんびりしてるよ」
六月に入っても、閑散期は継続中だ。湿気の多い時期なのでカビなどの問題があったりするが、それでも暇だ。
「いつものんびりしてちゃ潰れちゃうから困るんですけど~」
「そっちこそ、配達どうだった?」
結子は年配の方に洗濯物を配達している。元々業務ではなく思いやりから始めたことなので、一回につき百円というボランティアに近い仕事だ。地域密着型の店だからなせる技である。
「今日は一軒だけだったんだけど、引き止められちゃってさ」
「だと思ったよ」
とりあえずこれで、母が帰ってきたため店番交代だ。といっても既に夕方だから、住居スペースに戻っても夕飯の準備が待っているだけだが。
みさきは連絡事項を伝えた。
「こたつ布団のクリーニングが来たけど、洗濯表示が全部バツになってたから、断りました。わざわざ暑い中持って来たのにって、少し怒られました」
洗濯表示が全てバツ―――つまり、どの洗濯方法にも適さない、という意味だ。有名大型インテリアショップなどで安く売られている物は、この表示が多い。もちろんドライクリーニングも不可なので断るしかないが、中にはそれでも洗濯してほしいと強引に押し付けようとするお客様もいる。
「断ってくれてありがとう。そういう人に限って、クリーニングに不備があるとうるさいからね」
「あと、吐瀉物の付いた衣類の持ち込みもあったけど、断りました」
「ありがとう。一応カウンターの除菌はしてくれた?」
「ドアからなにから拭ける所は除菌したよ。飛沫感染する食中毒が原因だったら怖いから」
「有能な娘で助かるわ~」
結子は安堵の息をついた。けれど一番大切な話がまだ終わっていない。
「で、本題ね。連絡ノートにも書いたけど、今日例の岡英一様が来ました」
「岡様?……スラックス?」
「うん。明後日仕上がりだって。一応タグに二重線注意って書いておいたけど」
岡英一様は、三ヶ月くらい前から『みさきクリーニング』を利用している五十代半ばくらいの男性だ。いつもスラックスのみを持ち込んでくるのだが、過去に一度、二重線のトラブルがあった。
二重線というのは、スラックスのセンターラインがプレスの際にずれてしまって、線が二重になってしまうことだ。体の正面部分になるので履いてみるとかなり目立つ。一度履いてから、『やり直してほしい』と持ち込んでくるお客様が多い。
クリーニング料金をタダにしようとそういったトラブルをでっち上げる悪質な者もいるが、岡様の苦情は真っ当なものだった。
誠心誠意謝罪をして当時は事なきを得たが、また同じ思いをさせないために、注意に注意を重ねて検品をしなければならない。なので岡様のスラックスがある時は、伝達事項扱いとなるのだ。
岡様は寡黙で厳格そうな雰囲気なので、みさきは個人的にも怒られたくなかった。
「タグに書いたなら工場でも気を付けてくれるでしょ。ありがと。でも戻ってきたら、検品慎重にね」
「は~い」
「あ、今日もおみやげあるよ」
母がいそいそと取り出したのは、ケーキを入れる化粧箱だった。
「じゃーん。シュークリームいただいちゃった。みさきちゃんとどうぞって」
配達に回る家から、感謝の気持ちにとお菓子をもらうことは多い。先日のロールケーキも、『いただいたけれど食べきれないから』という老婦人のご厚意だった。
少し開いて覗いてみると、美味しそうなシュークリームが六つ並んでいた。
「嬉しいけど、六個も入ってるじゃん。親子二人でも食べきれないって」
口にした瞬間、嫌な予感がした。それは的中したようで、結子がにんまりと笑う。
「うんだからね、千尋君も呼んでおきました~」
「やっぱり」
あの一件以来、我が家に千尋が頻繁に出入りするようになった。
それ自体は構わない。むしろ接点が増えることで彼の正体を存分に究明できるから、みさきは嬉しい。
「ライン送ったらね、『すぐにお伺いさせていただきます』って」
「……………」
……いつの間にか、母と千尋がラインのIDを交換していた。しかもなぜか名前呼びに変わっている。
「ホント、仲よくなりすぎじゃない?」
「千尋君の方から連絡先教えてくださいって言ってきたの。まぁ、引き出せる情報はいくらあっても困らないでしょうからね。外堀からってことなんでしょ」
「意味が分からない。もしかして橘さん、お母さんを狙ってるの?」
「何でそうなる」
よく分からないがこれ程親しげならば、付き合いはじめることもあり得るかもしれない。年の近いパパができる覚悟をしておかなければ、と考えていると、頭頂部に鋭いチョップを叩き込まれた。
「いったい!」
「みさきも、連絡先くらい教えてもらえばいいんじゃない?」
頭を押さえての文句は華麗に流される。恨みを込めて結子を睨んでから、そっぽを向いた。
「私はいい。自力で謎を解くように、本人から言われてるんだから」
「それ、多分向こうの意図から大きく外れてるんでしょうね……」
母が遠い目をする意味が分からない。何だか通じ合っているようで結構なことだ。
「私ちょっと着替えてくるわ。もう少し待っててね~」
結子は化粧箱を軽やかに持ち上げると、ウキウキした様子で住居スペースへと去っていった。
それほど時間が経たない内に、千尋がやって来た。相変わらず麗しい姿に、一体何人の男が惑わされているだろう。今日の彼は淡い紫色のブラウスに膝丈のスカートという出で立ちだ。
「何だかいつも呼びつけるようですいません。母がご迷惑おかけしてませんか?」
「全然。むしろ家庭料理が味わえて、オレの方こそ申し訳ないくらい。だからホラ、今日も」
彼が掲げた袋には、トレーナーやトレンチコートが入っている。
菓子類や酒よりも喜ぶと判断したらしく、千尋は最近クリーニングに出す衣類を手土産にしてくるのだ。ありがたいが、申し訳ないやら恥ずかしいやら、複雑な気持ちになる。
「うわ~、なんか気を遣わせてしまってごめんなさい。もうそれ完全に母の術中にはまってますよ。人畜無害そうに見えて、あれは恐ろしい女なんですから」
「そう?いつも笑顔で働いていて、とても素敵な人だと思うけれど」
手放しの賛辞に、やっぱりと二人の仲を怪しむも、親しくしている千尋が毒牙にかかろうとするのは放置できない。せめて忠告だけでもと続けた。
「そう思わせるのがあの人のやり口なんですよ。親子で働く健気な姿にほだされちゃった人に、『またここを利用しよう』って思わせるんですから」
結子は優しい。それはもちろん素晴らしい事だが、優しさだけで利幅の少ない取次店を続けて来られるはずがない。
母の恐ろしい所は、人に優しくすると、その何十倍もの幸せが還ってくることを知っている点だ。だから宅配に行った先でもらう菓子なども決して固辞しない。『甘えた方が喜ばれるのよ』なんて、断ることを考えてもいないのだ。
結子は、『情けは人のためならず』を地でいく女だった。
「あ。話は変わるんですけど、この間のおじいちゃん、覚えてます?」
「この間って……オレが勘違いで文句を言ってしまった?」
「その覚え方はちょっとアレですけど、そうです、そのおじいちゃんです」
不満の残る接客になってしまったため、みさきもずっと気になっていた。言いがかりだったと未だに気にしている千尋には、早く伝えて安心してもらいたかった。
「なんと!昨日また来店してくださいました~!」
「本当に?」
「はい!ホントです!」
先日立ち寄ったのは、ずっと前に旅行先で購入した帽子をクリーニングできるのか、訊きたいからだったそうだ。あの時も被っていた。品のいい焦げ茶色の帽子だ。
「クリーニング可能な品だったので、お受けしました。これからもクリーニングはうちに出すって、言ってくださいましたよ」
「そう……よかった。いつか直接謝罪する機会があればいいのだけれど」
千尋が愁眉を開くのを見て、みさきは笑った。実はあの日のことを謝罪する際、老人が何を考えていたのかさりげなく聞き出していたのだ。真相は、意外な所にあった。
「私も、千尋さんに驚いて店を出ていったと思ってたんですけど、詳しく聞いてみると違ったようで」
「? どういうこと?」
凄まじい美貌から紡ぎ出される低音ボイスは、みさきからしても迫力があった。呆然としている内に老人の姿が消えていたから、さぞ恐ろしかったのだろうと思っていたのだが。
「実はあれ、聞こえてなかったんですよ」
みさきの言葉に、千尋は首を傾げた。
「耳が遠い方って、どちらかというと女性の高い声の方が聞き取りやすいらしいんです。だから千尋さんの声、あんなに側にいても聞こえなかったんですって」
「でも、なら何でお店を出ていったの?」
真相を知っているみさきは笑いを堪えるのに必死だった。ここからは笑い話だ。
「綺麗すぎて、びっくりしたんですって」
「え?」
「いきなり物凄い美人が目の前に現れて、動揺してしまったんですって」
千尋は、しばらく言われた意味を咀嚼していた。みさきも微笑ましくそれを見守る。
「……それは、もしかして、オレのこと?」
「私でないことは確かでしょうね~」
女として複雑になるべき所だろうが、圧倒的な美貌を前に、みさきのちっぽけなプライドなんて吹けば飛ぶ路傍の雑草だ。
暴言が聞こえていなかったことへの安堵と美女扱いの狭間で、千尋は大変複雑な表情をした。みさきはおかしくて肩が揺れた。
「例の帽子、新婚旅行で奥様が買ってくれた物らしいんです。美女の前でクリーニングができるのか相談するのかと思うと、居たたまれなくなっちゃったんでしょうね~。だからその日は一旦帰ったと」
「そ、そうなのかな……」
千尋はまだ複雑そうだったが、眉を下げながらも微笑んだ。
「それでも、よくない態度だったから、ちゃんと謝りたいな」
「真面目ですね」
苦笑しつつ、千尋の生真面目さに好感をもった。彼はみさきを見下ろし、やっぱり律儀に礼を言った。
「本当に、何から何まで……ありがとう。みさきさん」
間近にある柔らかな微笑に恥ずかしくなる。みさきは曖昧に頷くにとどめた。
千尋がようやく休憩スペースに足を踏み入れる。首を巡らせると、少しだけ眉を持ち上げた。
「大分片付いてきたんだね、布団」
「はい。おかげさまで」
みさき達を悩ませていた埋もれる程の布団の山は、僅かながら少なくなっていた。
「一応、受付から三ヶ月経過しても取りに来なかった場合、保管料が発生するので」
「いくら?」
「百円です」
千尋はクスリと笑みを溢した。
「それじゃ、中々常習犯はいなくならないだろうね」
「無断駐車みたいに、罰金一万円とかにしちゃえばいいと思うんですけど」
「そこが、君のお母さんの優しい所でしょう?」
千尋の言葉に、みさきは首を傾げた。
「橘さん。私に気を遣わず、母のことは『結子』って呼んでいいですよ」
母が『千尋』と呼んでいるから、何だか違和感があった。好きなら名前で呼びたくなるものだと思うが。
「……君の思考回路が、たまに本気で分からないや」
千尋が来たことを伝えようと立ち上がったみさきの耳は、彼の虚しい呟きを拾わなかった。
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