第6話 答え合わせ
千尋が帰った後もずっと考え続けたが、結局答えは出ないままだった。
電話口の、やけに焦った田之倉様の声を思い出す。妻に渡して欲しくないと言うが、そもそもスーツは田之倉様本人ではなく妻が持ち込んだらしい。
――持って来るのはいいのに、引き取って欲しくない。行きと帰りで違うことなんて、クリーニングが仕上がってるかどうかだけなのに……。
みさきは頭を悩ませながら、開店の準備をしていた。店内の清掃、花瓶に活けられた花の世話、レジの釣銭の準備、昨日やり残していた衣類のタグ付けと、すべきことは結構多い。それなのについ考え込んでしまうから、手がサボりがちになってしまう。
それを見かねた結子が掃除機の電源をオフにして、呆れながら腰に手を当てた。
「あんた、まだ昨日のヤツ考えてるの?」
「うん。お母さんが盗み聞きしてたヤツね」
盗み聞きされたことは忘れていない。別に後ろめたいことなど一切ないが、二人きりに仕向けた張本人が扉の向こうでニヤニヤしていたのかと思うと業腹だ。夕飯の下ごしらえという方便はどこにいった。
「それはともかくね、みさきちゃん」
結子は誤魔化し笑いを浮かべながら猫なで声を出した。普段なら絶対あり得ない『みさきちゃん』呼びだ。
しばらくはこのネタでつつけるなと内心ほくそ笑んでいたら、母はとんでもない爆弾を落とした。
「そんなに気になるなら、私が答え教えようか?」
「――――――え!お母さんも分かってるの!?」
数拍の間を置いて、みさきはカウンターから身を乗り出した。
「だってみさきが言ってた人が誰なのか分かるもん。田之倉様でしょ?」
「誰かまで分かるの!?」
「受けたのは私だからね」
母はけろりと言うが、みさきは開いた口が塞がらなかった。なぜ結子は、あの奇妙な注文の主が田之倉様だと分かったのだろう。関係者以外がいた手前、昨日は絶対名前を呼んでいないはずだ。
千尋でさえ個人の特定には至らなかったのに……いや、『みさきクリーニング』の一顧客でしかない彼に特定されたら、ウチは顧客情報が守れていないということになり、それはそれで大問題なのだが。
「お母さん……何者?」
「お母さんでしょ。当然じゃない」
おどけるように肩をすくめると、結子は笑った。
「まぁ私の場合、謎を解いたんじゃなくて、はじめから答えを知ってたのよ。受けた時に『あぁこれは……』って思ったから」
「受けた時に?」
そんな以前から、こうなることが分かっていたということか。
さらに混乱を極めたみさきに、母がピッと人差し指を立てた。
「ヒントは『ポケット』よ」
「―――――あ」
頭の中で、何かが繋がった気がした。
行きと帰りで違うのは、クリーニングが仕上がっていること。つまり汚れや傷、ほつれやボタンの有無と共に―――ポケットの中もあらためられているということだ。
「そっか。田之倉様が奥様に渡して欲しくなかったのは、ポケットの中に入っていた物なんだ」
田之倉様にとって、スーツの受け渡しが早いか遅いかなんてどうでもよかった。引き取りの際、ポケットに入れっぱなしだった『何か』を、妻に見られることだけはどうしても避けたかったのだ。
答えまでの筋道が見えてくると、滞っていた思考も全速力で回り出す。みさきは声に出しながら、頭の中を整理していく。
「私にも分かってきたぞ。奥様に見つかったらマズい忘れ物。しかもお母さんが見落としちゃうくらいだから、薄いものだね。例えばメモ用紙、付箋に―――――名刺」
「ご明察」
結子がニヤリと笑う。まるでチェシャ猫のような笑みに、それがどんな物であったかを察した。
「なるほど。可愛い女の子が沢山いる、夜のお店の名刺が入ってたわけだ」
「可愛いだけじゃなくて、かなり薄着の女の子かもね」
「うわ~。そりゃあ奥様に見つかったら、恐ろしいね」
可愛い女の子達の名刺は、一目見てそれと分かる物が多い。名刺自体が黒やピンクなど派手な色だし、イラストが入っていたり顔写真があったりとても華やかだ。夫のためにクリーニングをお願いしたスーツからそんな物が出てきたら、妻としてはやはり面白くないだろう。
「そういえば前にも、ワイシャツに付いた口紅をシミ抜きしてほしい、なんてお客様とかいたね」
「電車でぶつかった女の人の口紅が~、なんて言ってたわね。私達に言い訳なんかする必要ないのに」
シミはクリーニングで落ちるとは限らない。その場合店側は専門の職人にシミ抜きを依頼という選択肢を提示するが、このシミ抜きをしても汚れが完璧に落ちる保障はない。しかもクリーニング料金に上乗せしてシミ抜きの料金まで発生してしまうのだ。その旨を全て説明しても、男性はシミ抜きを選んだ。
しかし長い間どこかに隠していたのが災いし、時間が経過した唇の跡は残ってしまった。請求金額はただのワイシャツなのに千円近くになった。口紅の件も奥様の耳に入ってしまい、踏んだり蹴ったりな結末だった気がする。
「本当に後ろめたいことがないなら、堂々としてればいいのに。そしたら奥様も疑わなかったかもしれないのにね~」
「どんな事情で口紅が付いたにせよ、奥様に知られる前に証拠隠滅したいと思うのが男の浅はかさなのよ。覚えておきなさい」
母の金言も、恋愛経験値が少ないみさきには豚に真珠以下だ。恋愛事より謎が解けた爽快感の方がずっと強い。
「で、その名刺はどんななの?」
すっかり調子に乗ったみさきは、興味本意で預かり物の保管場所を探ってみる。リップクリームや知らないご当地キャラのキーホルダーはあれど、それらしき物は見つからない。
クリーニング店はどんな紙切れだろうと、衣類の引き取りと同時にお客様にお渡ししている。それは前述通りクレーム対策なのだが。
振り向くと、結子は妖艶ささえ感じられる笑みを唇に浮かべていた。みさき程度の小娘には威圧的にさえ感じられる、豊富な人生経験に裏打ちされた百戦錬磨の微笑。
「それくらいの秘密、とっくにごみ箱に眠ってるわよ。こちらもプロですからね」
「……お見逸れしました」
―時にクリーニング店は、夫婦の円満な関係をも守っているのかもしれない。
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