第3話 お嬢様な王子様

 みさきは衝撃のあまり、よろりと店から出ていく老人に気付かなかった。ベルが大きく鳴ったはずなのに、その音すら覚えていない。

 我に返った時にはふらつく老人の背中は遠くにあり、みさきは咄嗟にカウンターを飛び出していた。

「すいません、橘様!少々お待ちください!」

 お断りを入れるというより、ほぼ事後承諾のような状態で、小さな店舗から駆け出した。

「お待ちください、お客様」

 みさきが声をかけても老人の背中は止まらない。だが彼も相当なショックだったのだろう、来店した時より覚束ない足取りだったため、すぐに追い付くことができた。

「あの、お客様!」

 失礼とは思いつつ肩を叩くと、老人はようやく振り返った。

 千尋に迷惑をかけているかと思うと頭が働かなかったが、冷静になってようやく思考力が戻ってくる。

 来店時からずっと気になっていた反応の悪さ、老人自身の声の大きさ。彼はおそらく―――。

「お客様、ご不快に、させてしまい、大変、申し訳、ございません」

 はっきり、大きな声で謝罪を口にし、みさきは深々と頭を下げた。

 彼は、みさきの発言を故意に無視していたわけではない。本当に聞こえなかったから、一方的にまくし立てるようなやり取りになってしまったのだろう。おそらく、耳が遠いのだ。聴覚の弱い人は自らの声も聞き取りづらいため、自然と声も大きくなる。

 みさきの言葉は、今度こそちゃんと伝わった。老人は凪いだ瞳でみさきを見つめ返す。

「いや……他に客がいたんなら、私の方こそすまなかった。迷惑をかけた」

 補聴器を苦手とするお年寄りは多い。みさきこそ、もっと早くに気付くべきだった。

「もし、お嫌でなければ、また、来てください。今日でなくても、いつでも、お待ちしております」

 老人は答えず、無言で立ち去っていった。頑なな背中にため息がこぼれる。

 ――あああ。橘様が来て勝手に嬉しくなって勝手に舞い上がって……私サイテーだ。

 みさきが浮かれていたせいで、嫌な気分にさせてしまったのだと思うと落ち込んだ。

 それでもまだ店には千尋が待っている。落ち込むのは全てが終わった後だ。みさきは気持ちを切り替えて足早に戻った。

「申し訳ございません、橘様。大変お待たせ致しました」

 千尋はいつもと同じように、凛として涼やかな佇まいで待っていた。気にしなくていいと言うように軽く微笑む。

 にこりと笑い返して品物を取りに行こうとしたみさきに、千尋が声をかけた。

「えらいね、ちゃんと謝ることができて」

 いつも通りの柔らかな声音に、なぜか安心する。

 ――声聞いても、本当に信じられない。外見の割に低いかな、とは思うけど、不自然ってほどじゃないし。

 驚愕を押し殺し、みさきも何とかいつも通り返した。

「いえ、きちんと応対できなかったなと、我ながら思いましたから。あの方、初めて来店されたんですけど、多分耳が遠いみたいで。悪い方ではないと思いますよ」

 お客様同士でわだかまりを残して欲しくなくて、さりげなく老人のフォローを入れる。果たして老人がまた来てくれるのかと問われれば、微妙な所だが。

「あぁ……そういうことか」

 老人の態度を思い返していたのか、しばらく黙っていた千尋が何度か頷いた。

「まだまだ観察力が足りないな。あの人に酷い態度を取ってしまったよ。君にも、余計なことをしてしまったね」

 悄然と反省されて、みさきはもげそうな勢いで首を振った。

「いいえ!庇ってくださって、嬉しかったです。本当にありがとうございました」

 俯いていた千尋は、ほんの少し嬉しそうな顔をした。

「多分オレ、君が泣きそうに見えたから、焦ってしまったんだ」

 はにかんだ笑顔に、目が潰れるかと思った。

 ナニコノ破壊力。見た目完璧なお嬢様なのに、この人中身が王子様だ。

 しかも薄々気付いていたけど、自分のことを『オレ』と言ったし。しかも今までと微妙に言葉遣いも違うし。

 ということは。

「あの、えっと。もしかして……………男の人なんですか?」

 ものすごく、勇気のいる質問だった。言葉にするだけで、今日一日分の疲労を上回るダメージが肩にのし掛かる。

 だって、こんなにも美しい人が。どこから見ても女性にしか見えないのに。もはや憧れすら抱いていたのに。

 嵐が渦巻くみさきの胸中など一切解さず、千尋はあっさりと答えた。

「あぁ、驚かせてしまったね。一応産まれてこの方、男以外の性別になったことはないよ」

 膝から崩れ落ちそうな大打撃だった。カウンターに突っ伏してしばらく人間を放棄したい心境だったが、お客様の前であまり失礼な真似はできない。

 みさきは顔に神経を総動員して、何とか平静を装い質問を重ねた。

「そうだったんですね。なぜ、女の人の格好をしているか、お訊きしてもよろしいですか?」

「気になるの、オレのこと?」

「あまりにも完璧ですから、誰だって気になると思います」

「あぁ、そういう意味か」

 何となくつまらなそうな顔をして、千尋が頷いた。何か深い事情でもあれば不躾だったかもしれないと思っていたみさきだったが、彼の反応は意外と軽い。

「特に深い理由はないんだけどね。きっかけは友人に言われたからなんだけど、やってみたら意外に便利だったんだ」

「便利……」

「ほら、お店に行くとオマケしてくれたりとか、女の人はよくあるでしょう?」

「へ~。よく、ですかぁ」

 そりゃこれだけの美女なら全財産出しても惜しくないという男共が後を絶たないだろう。女だからという理由だけで頻繁にオマケをされるわけでは決してない。

 女としての立場がないと思ったが、化粧っ気もないしオシャレもしないみさきが、努力もせず妬むのはお門違いだ。泣きたくなるのを何とかこらえる。

 ――羨ましくなんかないんだ。別に。全然。

 許容量を大幅に越える事態続きで、半ば放心していたのかもしれない。みさきはいつの間にか、千尋が出していたスーツ一式を手渡していた。一瞬焦ったが、彼に怪訝な様子はないので、無意識にでもまともに仕事をこなしていたらしい。ホッとする。

 スーツを受け取ると、千尋はじっとみさきを見つめた。

「君さ」

「はい」

「コマネズミみたいだよね。ずっと可愛いなって思ってた」

 ……清水のような微笑みを残し、千尋が去っていく。チリリン、とベルが虚しく響いた。

 誰もいなくなった店内で、みさきは呆然と立ち尽くす。

 神々しいまでに美しい存在に『コマネズミのようで可愛い』と言われた、この真意は何か。

 二つの単語を秤に掛けてみる。『コマネズミ』と『可愛い』。―――――『ネズミ』。

 一人カウンターでじっくり三分以上も黙考した結果。あの有名な殺し屋もかくやと思わせる厳つい顔で、みさきは深く頷くのだった。


「うん………褒め言葉では、ないな」


 

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