第2話 衝撃的な事実
花も綻び始めた春。
老いも若きも重いコートを脱ぎ捨てる季節。卒業、入学のシーズンである。つまりダウンジャケットやコート、フォーマルスーツ、果てには布団や毛布が大量にクリーニング店に押し寄せる季節でもあった。
『みさきクリーニング』は住宅地に建っている。スーパーも程近いので、買い物ついでに立ち寄るお客様が多い。
受付が立て込む時間帯もあれば、橘千尋様が来店した時のように、のんびり接客できる時間もある。
今は、間違いなく前者だった。
「いらっしゃいませ。申し訳ございません、ただ今混み合っておりますので、少々お時間頂いてよろしいですか?よろしければお品物をこちらに置いてください」
ベルの音が来客を知らせるが、既にお客様は四人も並んでいて、狭い店内はすし詰め状態だった。一人一人が持ち込んだ冬物の衣類が非常にかさ張っているのも一因だろう。
その上コート類の検品は時間がかかる。
洗濯表示は勿論のこと、フードやファー、袖ベルト、腰ベルトは取り外せるかなど、確認事項がとても多い。
万が一にもベルト類などがクリーニングの行程で紛失しないようにするためなのだが、他にもファーの素材がフォックスなどの高級な物だと扱いが難しいため割り増し料金になったりする。それもお客様に逐一確認しなければならないのだ。
「お客様、こちら少々ほつれがございますが、このままクリーニングにお出ししてもよろしいですか?」
「そのまま出したら、まずいんですか?」
「この程度でしたら、ほつれが広がって返ってくるということも、ないとは思うのですが……」
「じゃあ、お願いします」
後がつかえている状況でこんな作業に追われていれば、当然気持ちは急いてくる。クリーニングの受付業務は基本一人体制な上、現在母は不在というのも災いした。ミスが起こるのは、こういう時なのだ。
「あ~……やっちゃった」
タグ付けに取りかかろうとするたびに次のお客様が来店し、また店内が満員になっていく、という悪夢のような状況が三回程繰り返された後。ようやく人の波が落ち着いてきた。
ぐったりしつつも本腰を入れてタグ付けを始め、ポケットの中身を改めて確認する。するとそこに、明らかに固い感触があった。
小銭、名刺類、そしてスーツの共布とボタンが入った小袋の見落としはかなり多い。ポケットの上から軽く触った程度では分からないからだ。
受付を終えた洋服から出るわ出るわ、ペンにガム、薬など、様々な衣類から物が溢れてくる。スキーウェアの腕から一日パスが出てきた時には、さすがにげんなりした。クリアのパスケースだから確実に目視できたはずなのに、何をやっているのやら。
捨てていい物かもしれないが、これも一応保管してお客様に渡さねばならない。個人にとって何が大切なのか勝手に判断できないので、これもクレーム予防の一環なのだ。
タグ付け作業を進めたい所だが、次々お客様が来店するために中断を余儀なくされる。そうこうしている内にタグを付けていない衣類がどんどん溜まっていく。小ぢんまりとした作業スペース兼休憩スペースが、あっという間に衣類で一杯になってしまった。
「う~、辛い」
繁忙期の忙しさは経験済みだが、何度やっても慣れることはない。とりあえず翌日仕上がり指定の衣類のみを優先して、タグ付けしていく。いっそ八つ当たりのようにホチキスを操っていると、ベルが今日何回目かの来客を告げた。
みさきは一度天を仰いだが、疲労も何もかもなかったことにして、笑顔でカウンターに向かう。
「いらっしゃいませ~」
レジの前には、なんと橘千尋様が立っていた。花柄のシフォンワンピースを身に纏った姿はやはりとても美しい。彼女の姿を見て、今日が水曜日であったことに気付く。彼女がスーツの仕上がりを指定した日だ。
「いつもありがとうございます」
「こんにちは」
千尋がにこりと微笑む。花が綻ぶような清らかさに、ささくれていた心が洗われていくようだった。
「えっと、お引き取りですね」
「はい。これ、引き換え券です」
「お預かりいたします。少々お待ちください」
差し出された紙には通し番号が振られていて、その番号と照らし合わせて品物を探す仕組みになっている。けれど番号など見なくても、昨日工場から返ってきた品物を検品したのはみさきだったので、大体の場所を把握していた。
すぐ裏に引き返し、保管してあるスーツ一式を持ってこようとした矢先、ベルがけたたましく存在を主張した。どうやら来店したお客様が乱暴にドアを開いたらしい。
驚いて振り返ると入り口には、白髪頭に焦げ茶色の帽子を被った老人がいた。年齢は七十歳ほどだろうか。腰は曲がっているが、足取りはしっかりしている。
「いらっしゃいませ、少々お待ち頂けます、」
「クリーニングについて聞きたいんだが」
ぶっきらぼうに遮られ、みさきは目を瞬かせた。細い体のわりに随分声が大きい。
気を取り直して頭を下げる。
「申し訳ございません、お客様。こちらのお客様が先ですので……」
第一印象で時間のかかりそうなお客様だと判断したみさきは、千尋に迷惑をかけないためにも手早く品物を返却してしまおうと思った。この美女も絡まれたくはないだろう。
「質問があると言ってるだろう!何をモタモタしとる!」
「お客様、大きな声は他のお客様にご迷惑ですので……」
全く人の話を聞いていない。みさきは内心頭を抱えた。
とにかく平身低頭を心がけていても、お客様の神経を逆撫でしてしまうことはある。ここで宥められないと、母が出なければならなくなる。店長が対応するならば、それなりの対価を求められかねない。店員の態度が悪かったから、クリーニング代金を無料にしろ、などだ。
クリーニングの受付業務は叱責も文句も当たり前で、うまくやり過ごさなければストレスで具合が悪くなってしまう。
みさきも普段なら耐えられるはずなのに、千尋が見ていると思うと心臓が痛くなった。嫌な汗が背中を伝い、エプロンをぎゅっと握り締める。
「お前、頭を下げてる時間があったらさっさと―――」
「いい加減、若い子をいじめるのは見苦しいですよ」
凛とした声が、その場の空気を一瞬で支配した。声の主―――ずっと隅に控えていた千尋が、悠然と老人の前に立ち塞がる。老人は彼女の存在にたった今気付いたように、若干たじろいだ。微妙に放たれている威圧を感じ取ったのかもしれない。
千尋はにっこりと微笑むと、桜の花弁のように可憐な唇を開いた。
「……………すよ」
「な、なんだね……」
「―――順番くらい頭の悪いクソガキでも守りますよ、おじいさん?」
多少口調の乱れがあったものの、あくまで敬語で苦言を述べる千尋。だが店内は水を打ったように静まり返った。―――歯切れよく発された、腹に響く重低音の声に。
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