第一二章

 帝国全土を統べる政権が総督府から新政府に移されてからの、この一五年。帝都の町並みは大きく風景を変えた。

これは帝都だけに限った物では無く、帝国各地の地方都市においても見られる現象である。

総督府時代から二百年以上も代わり映えしなかった都市の姿は、”それら”の出現により見違える様になった。


 石造りや煉瓦造りの建物。石畳。ガス灯。ガラス窓。南蛮文字。


 どれも、ほんの十年くらい前までは国内には殆ど存在しなかったものだ。

まれに例外として、ほんの一部の裕福な好事家が特別な許可を得た一部の商人から入手し、こっそりと庶民の目に触れない場所で愉しむような物に過ぎなかった。

それもそうだろう。ほんの十五年前まで帝国を統べていた総督府は、これら異国の文化や品々を帝国民が所持したり売買する事を原則としては禁制としていたのだ。


 しかし、新政府の時代になった現在においては、全ての帝国民にそれが許される様になった。

誰もが対価さえ払えば、異国の文化や品々に触れる事が可能になったのだ。その事は街並みだけでなく、町を歩く人々の姿にも現れる。

人々は従来の着物姿(和装)だけでなく南蛮風(洋装)の服や装飾品で着飾る者も増え、流行り言葉として幾つかの南蛮語を口にするようになった。

大通りの店では、ガラス瓶や、色鮮やかな染料で染められた織物や、異国で採れた香料などが店先に並べられる様になった。

それまでは帝国の人々にとって、おとぎ話の世界よりも遠くに感じられた南蛮をはじめとする異国の存在は、以前とは比べ物にならない程に身近に感じられる様になったのだ。


 とは言え。それらの品々に直接触れる者の殆どは現在においても、都市部でも一部の富裕層に限られるという事に変わりは無い。

いくら新政府によって禁制が解かれ自由に所持や売買が出来るようになったとは言え、その殆どは庶民にとっては高価な舶来品である。

簡単に目にする事が出来る様になったとは言え、その殆どは、そうそう自分達が手を伸ばせる物では無い。ただ憧れとして眺めているのが精一杯というのが実情である。

 しかし、それらの中においても少ないながらも幾つかの例外は存在した。それが、甘味だ。


 甘味。

それは総督府時代どころか帝国創立の頃から、帝国の多くの人々にとっての憧れと言っても過言では無いものであった。

米を麦芽や麹を用い時間をかけて糖化したり、気の遠くなる様な量の甘草の汁を集めて煮詰めたり、山林に分け入り野生の蜜蜂の巣を探して採取したりと、かつての帝国の人々は甘味を入手する為には多大な時間と財力と労力を必要としていたのだ。

その様にしなければ手に入らない甘味は言うまでも無く贅沢品であり、それを口にする事は、例え皇族や貴族でも滅多に無かった。

無論、言うまでも無く庶民の口に入る事などは殆ど皆無と言って良い。

 もし一般庶民が甘味を口にできる機会が有るとすれば、せいぜい年に一度か二度だけ自家栽培の果実を口にするか、運良く貴族などと縁の有る者が冠婚葬祭で入手できる頂き物に限った。

 言ってみれば、かつての帝国民は常に甘味に飢えていたと言っても過言では無かったのだ。


 しかし、帝国における甘味の事情は一五年前に新政府が帝政を取り仕切る様になってから大きく変わった。

それまで総督府が禁止していた異国との大々的な貿易が出来る様になり、帝国内には輸入品である砂糖が安価で大量に入って来る様になったのだ。

この南蛮で栽培されるサトウキビから作られた甘味料は、たちまちにして帝国中の人々を魅了した。

それまで上級貴族だけの占有物であった甘い菓子も、今では庶民の子供でも手の届く物となった。

この維新後の僅か十五年の間に、市井では数え切れないほどの多くの駄菓子が発明され、帝国内の料理屋や家庭での料理にも大きな変化をもたらした。

それほどまでに砂糖という存在は人々の心を魅了し、気が付けば無くてはならない物へとなっていたのだ。

 人々は新政府によってもたらされた砂糖の存在に心から歓喜し、庶民でも甘味を味わえる時代の到来を心から歓迎した。


 しかし、この砂糖を帝国民達にもたらした新政府自身にとって、砂糖の存在は悩みの種でもあるのだ。

現在、帝国内に輸入され流通されている砂糖の量は幾つかの主要穀物にも負けない莫大な量となっており、しかも、その量は年々と伸び続けているのだ。

いくら砂糖が他の輸入品などより安価な物だとは言え、これだけの量になれば、国内から国外に流出する通貨の量を膨大なものへと跳ね上げる要因となる。

このままの勢いで砂糖の輸入量とそれに伴う通貨の流出が増え続ければ、帝国の財政に深刻な影響を出すであろう事は簡単に想像できる。

かと言って、今から砂糖の輸入にだけ高い関税をかけたりすれば、それは帝国民から新政府への反発心を煽る事になるのも火を見るよりも明らかという現状なのだ。

新政府としては、ここまで砂糖が財政に影響を出す事を予測出来なかった自分達の甘さを突き付けられる形となり、まさに砂糖であるのに甘くない話を味あわされているのである。

 しかし、そんな事は帝国に住む多くの人々にとってはどうでも良い事であり、人々は砂糖のある日々の生活を心から楽しんでいた。



 そんな砂糖のある日常を心から楽しんでいる少女が、ここにも一人。


「ほら、こんなに白くなったぞ」


 そう言い、割り箸で捏ね回して真っ白になった水飴を満面の笑みで見せて来るのは、自称大魔道士であるイリス・グルートンだ。

白銀の髪と、翡翠色の瞳。少女と言うより幼女と言った方が相応しく思える幼い容貌と、その姿に相応しい幼い表情を浮かべる天狗の少女である。

 ご機嫌な様子のイリスに対して、水飴を見せられた千穂の方はと言うと、浮かない顔で頬杖をついているだけであった。


 ここは帝都西地区を南北に縦断する桜瀬川の土手。時は、夕暮れ時。

凪いだ川面が橙色の夕日を反射してキラキラと輝く様を見つめながら、二人の少女は川沿いの道から河原に降りる石段の途中に腰かけていた。

どうしてこんな所で二人が座り込んでいるのかを説明すると、話は一刻前に遡る。




 千穂がイリスを連れて長屋に帰って来たのは、西の空の太陽が赤みがかって来た頃であった。

そろそろ継守も日中に予定していた凛との打ち合わせが終り、長屋に返って来た頃だろうと見計らっての帰宅である。

この頃合いを狙って帰ったのには、千穂としての考えが有ったからだ。

いや。考えと言うより、これは作戦とでも言った方が良いだろうか。


 今朝は置いてきぼりにされ、昼になっても自分が帰って来ていないと知った継守様は、きっと焦ってくれるだろう。

そして、どうして婚約者である千穂が怒っているのかを改めて真剣に考え、そして反省してくれる。

 その時に上手く千穂が目の前に現れれば、きっと継守様は自分が間違っていたと本気で千穂に謝ってくれる。

もう例え冗談でも、千穂以外の女の人に求婚したいなんて絶対に言わないと誓ってくれる。

そして、もう二度と千穂と離れたくないと、何が有っても千穂を手放したくないと、そう本気で思ってくれる。

そうして盛り上がった勢いならば、あの生真面目な継守様だって、今度こそ昨夜のコンティニュー。

若い二人は激しく互いを求め会い、来年の春には待望の可愛いベイビーも誕生。そこから始まるハッピーライフ。


 計画は完璧であった。あくまで、千穂の頭の中ではの話だが。

だから今朝は、継守が朝稽古に出かけてすぐに前日の夕食の余り物だけでイリスと二人で手早く朝食を済まし、一通の書置きだけを残して長屋を後にした。

そして、イリスとの約束に従って『狐憑きのキツネ』を探しに帝都中を歩き回り、道行く人々にも訪ねて回っていたのだ。

 そうして期待と緊張に胸を高鳴らせながら長屋に帰って来た千穂の目の前に有ったのは、誰も居ない部屋と一通の書置きだけであった。


『今夜は心斎橋との用事で帰れない

 明日の朝には帰れると思うので しっかりと戸締りをして先に寝ていて欲しい 継守 』


 その書置きを見つけた時、千穂は目の前が真っ暗になったのを感じた。胸中には暗雲が立ち込める。

どうして自分は、ちゃんと継守様の話の続きも聞かずに、昨夜は彼を部屋から追い出してしまったのだろう。

どうして自分は、今朝は継守様にまともな朝食も用意せず、顔も合わせず、そのまま長屋を飛び出してしまったのだろう。

 考えれば考えるほど、息苦しいほどの焦りと泣きたくなる程の後悔が千穂の胸を締め付ける。


「どうしたら・・・どうしたら良いのデスか」


 その誰に向けた訳でも無い呟きに応えたのは、千穂の手の書置きを横から覗きこんでいるイリスであった。


「どうもこうも有るまい。今夜は私と千穂の二人だけで夕食を済ませ、しっかり戸締りをして寝るだけだ」

「でもっ! 今夜、継守様は心斎橋・・・あの美人の凛さんと一夜をトゥギャザーするのデスよ! 」

「どうせ仕事なのだろう?」

「そんな事を言っていて・・・もし、明日の朝に二人のベイビーが出来ていたら、ワールドエンドなのデス!!」

「いくら何でも、そこまで早くは出来ないだろう。そんな事より、今夜の夕飯のおかずは何だ?」


あくまで平然とした顔で話すイリスの姿に痺れを切らし、千穂は急いで先ほど脱いだばかりの長靴を履きだした。


「こうしては居られないのデス!! 今すぐ二人を探して来るのデス!!」

「・・・仕方が無いなぁ」


 イリスは落ち着かせるように千穂の肩に手を置くと、じっと正面から相手の目を見つめる。

その落ち着いた物腰と瞳に宿る真摯で知性のある輝きは、不思議と人を落ち着かせ、その話に耳を傾けさせる何かを秘めていた。

今も容姿こそ普段と変わらぬ幼い少女の姿のままだが、この瞬間だけは、この小さい天狗の子供が本物の大魔道士なのだと信じてしまいそうになる。

 そんな不思議な風格すら漂わせる少女は、もう一人の目の前の少女に優しく言い聞かせた。


「千穂。いいか、良く聞くんだ」

「イリス・・・ちゃん?」

「私が見る限り稲郷継守という名の男は、簡単に恋人や婚約者を裏切る様な人間では無い。違うか?」

「それは・・・その通りなのデス」

「そして、その稲郷継守はお前・・・千穂の事を心の底から惚れこんで、大切に想っている。これも確かだ」

「それは・・・」

「いや。お前は、解っている筈だ。

 そして、その事を誰よりも理解しているのは・・・、他の誰よりも継守の事を理解してやれる女は、他の誰でも無い千穂なのだ。そうだろう?」

「そう・・・なのデス!! そうデス!! 継守様も言ってくれたのデス!! 継守様にとって誰よりも大切なのは千穂なのだと!!

 そして、千穂は他の誰よりも継守様の事を解ってあげられる女なのデス!! 他の誰よりも継守様の事を信じてあげられる女なのデス!!」

「そうだっ! 信じるのだっ!

 例え世間では『男なんて上半身では何と言っていようと、下半身は嘘つきのケダモノ!!』などと言われていようと、千穂だけは継も・・・って、ああ!?」


 小さな大賢者が気が付いた時には、いつの間にか栗毛の少女は長屋を飛び出して走り出していた。

泣きながら何処かへと全力疾走し続ける千穂と、それを慌てて追いかけるイリス。帝都西地区を舞台とした二人の追いかけっこが始まる。

その追走劇は半刻にも及び、その結末として、ようやくイリスが千穂に追いついて捕まえたのが、この桜瀬川の土手にある石段の近くなのであった。


 その後はイリスの『とりあえず甘いものを食べれば元気が出る』という提案の元、二人で近所の駄菓子屋に行った。

駄菓子屋で飲み物と水飴を買い、この石段の所に二人が戻って来て食べ始めたのが四半時前になる。

そして現在は、こうして千穂が自分の分の水飴を食べ終わった後も、イリスの方は自分の水飴を無心に捏ね回し続けているのだ。


「はぁ・・・きっと、イリスちゃんの頭の中は悩み事なんか無くて、すっごくハッピーなのでしょうねぇ」

「むうっ、何か失礼な事を言われている気がするぞ」


 天狗の少女は少しだけ不機嫌な表情を浮かべかけたが、その手に持った水飴を口に入れると再び満面の笑みに戻る。

どうやら本当に、甘い物さえ満足に与えられていればそれだけで幸せになれる性分の様だ。

そんなイリスの横顔を小さな笑みを浮かべて見つめていた千穂は、夕日を反射して煌く桜瀬川の川面に視線を向けながら尋ねる。


「イリスちゃんは・・・誰かにジェラシーした事は有るデスか?」

「ん? 嫉妬か? う~ん・・・いまいち記憶に無いなぁ」

「やっぱりイリスちゃんはハッピーなのデス」

「じゃあ、千穂は今、誰かに嫉妬しているのか?」

「・・・イエス。肯定なのデス」


 そのまま千穂は、ぽつりぽつりと自分の心中をイリスに話し出した。

千穂は昨日まで、自分にとって近しい異性が継守しか居ないように、継守にとっても近しい異性は自分しか居ないと、そう信じ込んでいた。

継守と想い合い、継守を支えて、継守に本当に必要とされるのは自分だけなのだと、根拠も無く思い込んでいた

 しかし、実際は違った。

継守と同い年であり、千穂よりも一つ年上の、心斎橋凛という名の少女が既に居たのだ。

千穂よりも美人で、千穂よりも継守と近い境遇で互いを理解し合え、千穂よりも共に剣士を目指す同志として継守の役に立つ、そんな少女が。

 勿論、継守の生真面目さと義理難さは知っている。彼の千穂への想いも信じている。だが、それでも心は不安に揺れる。

そんな風に継守を完全には信じ切る事もできず、己を心斎橋凛に劣る存在だと卑下してしまう自分が、たまらなく千穂は嫌だった。

 そんな告白とも愚痴ともとれる話を続ける千穂に対し、不意にイリスは水飴を捏ね回し続けている手を止めて言葉をかける。


「そんな事を考えても仕方が無いだろう。あの凛という娘が心斎橋凛なのであると同時に、千穂は千穂だ。

 いちいち自分が劣る部分ばかりで比べて劣等感を抱いても、ただ疲れるだけだぞ」

「・・・イリスちゃんは冷たいデス。ブリザードなハートの持ち主なのデス」

「勘違いするな。私が言っているのは、無暗に落ち込む必要は無いと言っているだけだ。

 それぞれの長所も短所も有るのだから、それを活かして相手に勝つ具体的な方法を考えろと言っている」

「千穂がウィナーになる方法・・・デスか?」

「そうだ。千穂には千穂の長所が有り、現時点では継守に一番に近しい女である事には変わりはない。もっと、自信を持て」

「でも・・・それでも、やっぱり悔しいのデス。千穂では、継守様の一番のウィッシュである剣士としての立身にお役に立てないのデス」

「そんな事はあるまい。肩を並べての共闘が出来なくとも、背中を支える事くらいは出来るだろう」

「でも、千穂では心斎橋さんみたいな計画なんて思いもつかないのデス。継守様が本当に困っている時の相談相手にはなれないのデス」

「あの、自警団として夜の街を見回り犯罪者を捕らえるとか昨夜に言っていた、あれの事か?」

「そうデス」

「あれだがな・・・・私から言わせて貰えば、穴だらけの酷い計画だぞ」

「穴だらけ?」

「はっきり言って、千穂が考えていたという妖怪退治の噂話を作る計画の方が何倍もマシだ」



 水飴を捏ね回しながらも、イリスは説明を始めた。

『自警団として夜の街を見回り、犯罪者を捕らえて名を上げる』

この心斎橋凛が立案し継守が共闘を申し出た計画には、根本的な見落としが有るというのがイリスの主張だ。

 具体的な見落としの点は、その行為の正当性だ。合法性と言っても良い。


 凛が計画立案の参考にしたという事件では、強盗に押し入られた家の兄弟が犯人を捕らえる際に怪我をさせたが、それが罪を問われる事が無かったという話だ。

どうしてそれが傷害罪にならなかったかと言うと、それは”現行犯逮捕”と”正当防衛”という特別な状況が認められたからに他ならない。

自分の家に強盗に押し入られている状況ならば、己の身を守る為にも犯人に対して暴力を振るうのは仕方が無い状況だったと言える。

 しかし、凛と継守の場合は違う。

確かに、目の前で行われる犯罪の犯人を捕らえる事そのものは”現行犯逮捕”として、一般人による警察行為が認められる。

だが、通りがかりの他人の家に押し入り、自分達が犯罪者だと思う相手に木刀で殴り掛かる行為が”正当防衛”と認められるかと言えば難しい話だろう。

 一歩間違えれば、傷害罪やら家宅侵入罪やらの山の様な余罪まで問われる事になる。


「しかも、それは上手く犯罪者を捕らえる事が出来てからする心配だ」


 そこで天狗の少女は話を中断させ、水飴を口に入れる。

ひとしきり水飴を愉しんでから、驚きの表情で固まったままの千穂に向けて再び話を続ける。


「少し想像してみてくれ。例えば、今夜にでも警官が帝都市街を巡回しているとする。そこで二人の若い不審者を見つけたとしよう。

その二人は木刀を手に夜の町を徘徊し、職務質問に対しては『自分達は夜の帝都を見回る自警団だ』などと言っている。無論、そんな当局への届け出などは無い。

それで調べてみれば、この二人は半年前に殺し合い寸前の私闘をして、それにより剣術道場を破門となった二人だと判明したとしよう」


青ざめる千穂の前で、イリスは小さく肩をすくめる。


「その時の警官は、果たして二人の不審者を素直に解放してくれるのかどうか・・・」

「イ・・・イリスちゃん!!」


千穂が立ち上がりながら叫ぶ。


「どうして昨日の夜に、それをレクチャーしてくれなかったのデス!!」

「なにおう! 最後の芋羊羹をあげるから暫くは大人しく黙っていろと言ったのは、お前らではないか! 」

「ああっ!・・・・もうっ!」


 頭を抱える千穂に向かい、あくまで平然とした顔でイリスは声をかける。


「まあ、落ち着け。まだ初日だし、そうそう簡単に犯罪現場に居合わせる事など無いだろう。心配は要らないと思うぞ。

せいぜいが、さっき私が言った様に、巡回中の警官に捕まって散々に説教でもされて肩を落として帰って来るくらいだろう」

「・・・じゃあ、その時に千穂の計画を継守様にお話しすれば?」

「そうだ。大人しく待っていれば、自然と千穂に運が回って来る。だから、今は安心して今夜の夕飯の準備をす・・・」

「イリスちゃん!! 」


 栗毛の少女は高らかに叫ぶ。

その瞳に宿る強い意志を秘めた輝きは、ほんの少し前とは別人とすら思えるほどに力強いものであった。


「今こそ、千穂にとってのビッグチャンスなのデスね!? 」

「まあ、そうだな。だが、それよりも先に今夜の・・・」

「今すぐ千穂は継守様の為に、妖怪退治の為のデータを集めて来るべきなのデス!!」

「いや、それより晩御飯の準備を・・」

「こんな所で、じっとなんてして居られないのデス!! 」

「だから・・・」


 何かを言いかけるイリスに耳を貸さず、千穂は懐から一枚の紙を取り出して広げて見せる。


「イリスちゃん! これを見るのデス、プリーズ!」


 それは、この帝都の地図であった。

新政府によって発行されているもので、活版印刷という近年になって帝国全土に広まってきた南蛮の技術によって刷られたものだ。

南蛮の最新の測量法に基づいて作られたもので、ほんの数年前まで市井に出回っていた木版の地図とは記載内容も印刷の質も段違いで精度が高いと評判のものだ。

 しかし、その千穂の手に持たれた地図には、元からの印刷とは別で幾つかの目印と日時が後から書き込まれてある。

その目印は、まるで何かの移動を追跡していたかの様に帝都西地区を中心に日時にそって連なっているものであった。

 最初は面倒臭そうに覗き込んていたイリスの顔に、興味の色が浮かぶ。


「千穂。これは何だ?」

「これは、今の帝都キッズの間で話題沸騰の落ち武者ゴーストさんの目撃情報なのデス! 」

「いつの間に、こんな物を・・・」

「ふふっ。実は昨日のイリスちゃんが来る前の昼間に、キッズ達から聞いた噂を聞きながらマップに書き込んでいたのデス。

そうするだけで、キッズ達は大喜びだったのデス。嬉しそうにフォックスフェイスのお化けの話を話してくれたのデス」

「・・・で。まさか今夜にでも、この地図に書かれている場所を見に行こうとか言い出さないだろうな?」

「ザッツ・ライト! イリスちゃんは話が早いのデス!

明日の朝に継守様が帰って来た時には、千穂が妖怪退治の為のパーフェクトな準備をしている状態にするのデス! 」

「ああ・・・やっぱり、そうなるのか」

「ホワッツ? どうしてイリスちゃんは肩を落としているのデスか?」

「このままだと、今夜の夕飯はどうなるのかと思うと・・・な」

「そうデスねえ。確かに、千穂は今から色々と準備もしなければなりませんし・・・」


 千穂は少しだけ腕を組んで考える。

もう夕暮れ時だが、思えば今日は朝から出歩いていたので夕飯の支度などしてはいない。

更には昼はイリスと二人で甘味処に立ち寄っただけで歩き通しだったのに、今から夜中も歩き回ろうとしているのだ。

それなりの無茶をするからには、それなりの出費も覚悟しなければならない。

幸いにして、昨日にイリスから貰ったキツネ探しの契約金は貰ったばかりだ。

 千穂は小さな覚悟を決めてから、改めてイリスに質問する


「そう言えばイリスちゃんは、昨日は赤べこを気に入ってタッチしまくってましたね?」

「赤べこ・・・? ああ、あの赤い牛の置物か」

「イリスちゃんは牛が好きなのデスか?」

「うん。牛は大好きだ」


肩を落としていた小さな大魔道士は、顔を上げて語る。


「大きいし・・・力強いし・・・優しいし・・・意外と賢くて可愛いし・・・それに・・・」


 どうやらイリスは、かなりの牛好きの様だ。

牛の事を語る天狗の少女は、その可愛らしい顔を輝かせながら熱く語る。


「それに・・・それに何より美味しいし! 」

「グッド! 今日の晩御飯は牛鍋屋で決定なのデス」



 夕暮れ時。

桜瀬川の土手の上では栗毛の少女と天狗の少女が、きらきらと夕日を反射する川面にも負けずに表情を輝かせる。

帝都に逢魔が時が迫る刻限。二人の少女の大冒険が始まる。

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