第十一章
黒髪の少女が口にしたのは、継守が知らない店の名前だった。
「香竹が良い」
それだけを言うと心斎橋凛は、荘厳な建物の立ち並ぶ帝都中央区の街中を一人で足早に歩き出した。
紺色の稽古着で身を包む麗人の後ろ姿を、慌てた様な口ぶりで話しかけながら周防という名の警視庁抜刀隊の男が追いかける。
「ちょ、ちょっと待って下さい。凛お嬢さん、いくら何でも・・・」
「私は確かに、何でも好きな物を奢ると聞いた。それは聞き間違いだったのか」
「ええ。確かに私も、お詫びも込めて奢らせてくれとは言いましたよ。しかし・・・」
「かつての維新志士にして現在は警視庁直属のお役人である周防忠輔殿にとって、女子供との口約束など守るに値しないとお考えか」
「いえ、そうは言いませんが・・・」
一度も振り返らずに颯爽と歩き続ける凛の後ろを周防が追いかけ、その後ろには仕方が無いという表情で小吉郎が続く。
気が付けば大通りの端で取り残される形になっていた継守は、どうしてこうなったかの経緯を思い返しながらも後を追いかける事にした。
待ち合わせの場所に一人で立つ心斎橋凛は、継守が見つけた時には意外にも上機嫌な顔をしていた。
まるで、これから何か楽しい事が起こるのを待ち遠しいといった表情で頬を上気させ、まるで浮かれているのではとさえ思えた。
だが、継守に気付いた途端に強張った表情になり、軽く咳ばらいをしてからは意識して不機嫌な顔を作ろうとしていると思える顔になる。
その後に継守が待ち合わせに遅れた事情を話そうとしたところで横から周防が口を挟み始め、そこからの凛の顔は本当に不機嫌なものになっていった。
そして事の経緯を全て聞き終わった時、少女は表情の消えた顔で店の名前を言うと男共の返事も聞かずに背を向けて歩き出したのだ。
慌てて追いかけながら、継守は肩透かしを食らった気分になる。
継守としては、これから周防達を相手に、世間知らずのお嬢様である凛を助けながらも自分が中心となって交渉をするつもりで気構えていた。
しかし実際は継守が何もする間も無く、その凛があっ気なく曲者と思われた周防を手玉に取って振り回しているのだ。思わず、自嘲交じりの苦笑が漏れる。
「・・適わないな」
そんな感想を抱きながら一行の後を追いかける継守の目の前に、ある意味では異様とも言える光景が目に飛び込んで来た。
省庁や大銀行の建物ばかりが立ち並ぶ帝都中央区とは思えない、延々と続く白壁に囲まれた広大な敷地の姿が見えて来たのだ。
敷地の中はどうやら竹林になっているらしく、汚れ一つ無い白壁の瓦の上からは青々とした竹が茂る姿が見える。
もしや皇族の誰かの屋敷なのではと継守が思いながら歩いていると、その白壁に囲まれた敷地の門の前で凛が立ち止まった。
涼しい顔で門の前に立つ、心斎橋凛。その隣では、青ざめた顔で立ち尽くす周防と小吉郎。
彼らに追いついた継守が門に掲げられた看板を見ると、こう記されている。
『料亭 香竹』
どうやら、ここが昼食をとる場所として凛が指定した店らしい。
その店構えを改めて見た継守は、残りの二人の男共と同じく固まってしまう。
かなり”お高い”店を凛が指名したのだろうという事は、ここまでの道中における凛と周防の様子から、流石に継守も予想していた。
だが、それにしても物には限度という物が有る。
この地価が馬鹿みたいに高額の帝都中央区でこれだけ広大な敷地を所有し、それを白壁で囲み敷地内には青々とした竹林を茂らせているという贅沢ぶりだ。
これだけで、既に継守にとっては現実味を感じない世界と言って良い。
しかも目の前の店は、ただ大きいというだけでは無い。
正面門の門柱だけを見ても、確かな年代を感じさせながらも古ぼけた印象を与えない程に丹念に磨きこまれ抜いているものなのだ。
その高級感においても、格式においても、およそ一般庶民には一生に一度ですら足を踏み入れる事など無い世界なのは一目で解る。
「入るぞ」
男三人を一瞬だけ横目で一瞥すると、黒髪の麗人は返事も待たずに門の中へを足を踏み入れる。
それに続いて継守が見た物は、仮にも故郷の猛州では上級貴族であった筈の継守ですら見た事も無い物で溢れていた。
正面門を入ってから暫くは竹林の中を塵一つ無く掃き清められた小路を歩くのだが、その道の両脇に茂る無数の竹は、その一本一本が見事に手入れが行き届いているものである。
青々と茂る葉が連なり奥が薄暗く見渡せない竹林の中、そこだけが明るく陽光に照らされた玉砂利の道を進む。
その先に見えてくるのが、整然と並ぶ黒瓦が印象的な古めかしく落ち着いた感じの木造屋敷だ。この屋敷が、料亭である香竹という店なのだろう。
屋敷に入ってから磨き抜かれた廊下を渡り部屋に着くまでも、まるで宝物庫かと思う様な見事な工芸品や美術品の数々に目を奪われる。
花鳥風月の様々な透かし彫りがされた欄間。山水や龍虎が描かれた襖。大ぶりの見事な生花が活けられている、精巧な模様が描かれた磁器の大花瓶。
他にも数え切れない程の品々が並ぶ廊下を抜け、小川や築山が池では無数の錦鯉が泳ぐ大庭園の中を通る渡り廊下を通り、その先の母屋にある座敷へと到着した。
その通された真新しい畳の敷かれた座敷でも継守は、壮大な岩山の景色を描いた水墨画や、精巧な細工で龍を描いた七宝焼きの香炉や、総督府時代の帝都の賑わいと当時の人々の姿を五色の顔料で鮮やかに描いた大きな金屏風に、感嘆のため息を漏らすばかりだった。
もはや文化財と言うべき領域の品々に見入っている継守の横では、並んで席に座る凛が落ち着いた口ぶりで女将と思われる着物姿の女性に何やら注文をしている。
そちらを少しだけ横目で伺ってから、継守は目の前に青ざめた顔で座る周防に対して思わず小声で話かけた。
「やはり、この店・・・と言うか、この席はお高いのですか?」
「気になるのなら、今度、君と凛お嬢さんの二人だけで食事をしに来たらいかがですか。
ほんの一刻も何も注文せずに席に座っているだけで、ここに居る小吉郎君の年収くらいは軽く飛んでいきますよ」
「・・・」
言葉を失う継守。青ざめた顔で座る周防と小吉郎。ただ一人、澄まし顔のままの凛。
遠くから響く鹿威しの音だけが定期的に聞こえる中、無言を貫いている四人の前には料理が運ばれてくる。
次々とは運ばれる朱塗りや独創的な形状の陶器の皿に盛られた品々に継守は目を見張り、周防と小吉郎は味も解らないという顔をして黙々と口を動かす。
その沈黙を破ったのは、相変わらず澄まし顔のまま箸を動かしている凛だった。
「どうだ、稲郷。美味いか」
「ああ。今まで食べた事も無い物ばかりで驚いているが、どれも文句無く美味い。だが・・・」
「どうした。何か、気に入らない事でもあるのか」
「いや、不満では無い。ただ帝都の鰻は、俺が故郷の猛州で食べた物と味が違うと思ってな」
「そうなのか?」
「ああ。猛州で食べた時の鰻は、こんなに柔らかくは無いし、もっと脂の匂いや味が強かった」
「そうか。この辺りで採れる鰻と猛州の鰻は種類が違うのだろうな」
そんな会話をする二人の前で、わざとらしく周防が大きくため息を吐く。
それに気付いた継守と凛が視線を向けた先で、周防は二人の視線を受けながら苦笑を浮かべた。
「私が思うに、きっと鰻の種類は同じですよ。ただ、稲郷君が猛州で食べたものとは調理方法がまるで違うというだけです」
「そうなのですか?」
尋ねる継守に向かい、周防は説明を初める。
「ええ。きっと猛州で稲郷君が食べた鰻は、捌いてそのまま焼いた物です。かば焼きでも、途中でタレに漬けるというだけで基本は同じです。
しかし、ここ帝都の、それも高級店で扱われる物は違う。捌いてから軽く白焼きにし、それから蒸して、再び焼く」
「どうして、そんな手間のかかる事を?」
「それは先程に君が言った、味の感想の通りです。ふっくらと身が柔らかく、適度に脂が抜けて身の味が引き立つ品の良い仕上がりになるからです」
「なるほど」
「でもこれは、ただ蒸せば美味しくなるなどという簡単な話では無いのですよ。
蒸し加減を間違えれば脂や風味が抜け過ぎたり、身が崩れたり固くなってしまう事もある。言うまでも無く、手際が悪ければ全てが台無しになる」
「難しいものですね」
「ええ。これは総督府時代から百年以上も職人達が研鑽を続ける事で磨き上げられたもので、それを専門の職人が何十年も修行してやっと習得できる技巧なのです。
もし手順を書物に書き残し、それを腕の良い料理人が読んだところで、一朝一夕では再現出来ない技術ですよ。
それを専門店でも無いのに、ここまでの仕上がりにするとは・・・やはり香竹の板前くらいになると、常人には想像が及ばない世界の住人なのですかねえ」
「はあ」
感心する様に周防の話に聞き入る継守の横で、不意に凛が不機嫌な声を出す。
「そして先程の周防殿の嘆息は、それほどの物を、その価値も解らない女子供に食べさせるのは犬に経文を聞かせるようなもの・・・という気持ちの表れで?」
「いえ。ただ・・・、鰻と板前を、少しばかり哀れに思いましたので」
「つまり、例え味が解る者だとしても、物を知らない者には、その価値を計れず食わせる甲斐無し。そうお考えか」
「そうでは有りません。ただ、先程の凛お嬢さんの様に無知から誤った流言を放つ者が居れば、本来の真実が隠れ、人が正しく価値を計れなくなる。それを杞憂しました」
「ならば、先程の周防殿の様に、知る者が知らぬ者へと啓蒙をすれば全ての誤解は無くなるでしょう」
「ええ、その通りです。そう思い、余計なお世話とは思いながらも、つい口を挟ませて頂きました」
「では、その余計な世話ついでに周防殿が知る衣川署襲撃事件の真実についての全てを、この無知な女子供達が誤解をせぬよう御教授頂きたい」
すらすらと耳慣れない言葉を交えて駆け引きらしきものをする凛と周防に、継守は口を挟めないでいた。
合理的に物事を整理し口語で話すことに慣れている継守には、こういう精神論らしきものまで絡めての掛け合いは、まるで内容が頭に入って来ない。
思わず、終始無言のままでいる小吉郎に話しかけてしまう。
「小吉郎さん」
「・・・俺に話しかけるなクソガキ」
「この二人の会話の内容が、いまいち俺には解りかねて困っています」
「だから、そんな事を俺に聞くなっつってんだろうが。俺は、お前らが鰻の味がどうのっつってる辺りから話について行けてねえよ。
そもそも下町育ちの俺が食った事が有るのは、かば焼きと言ったら鰌か鯰を、たまーにだ。鰻の味なんて解る訳ねえだろうが」
「はあ」
「だが・・・まあ、一つだけ俺にも解る事が有る」
「それは?」
「男と女が口喧嘩をしたら、たいがいは女が勝つ」
小吉郎が顎で示した先を見ると、その言葉を証明するかの様に周防が楽しそうな笑みを浮かべながら両腕を広げ両手を上げている。
どうやら周防は『降参』という意志を表しているつもりらしい。その姿を見ながら、つまらなそうな顔で凛が小さく鼻を鳴らす。
そして、ここから衣川署襲撃事件についての周防の説明が始まった。
一昨日の真夜中に、衣川警察署に大鎧を着た鎧武者が独りで襲撃をしに来た事。
犯行予告も無く突如として現れた鎧武者は、署長の蛭田を斬り捨てた事。
その際、蛭田の他に二〇人以上も居た警官達や一般人達の全員が、鎧武者によって気絶させられた事。
犯行現場の調査をした結果として、犯人は単独犯であり、強盗などの目的では無い事が判明した事。
この事件について所轄が本格的な捜査を始めようとしたところで、本庁から出向してきた周防に捜査権限の全てが移行された事。
その理由は、仮にも一つの警察署が一人の暴漢によって簡単に制圧され署長を殺された事が世間の明るみに出れば、警察全体の威信に傷がつくと上層部が判断したからだという事。
以後、この件には箝口令が敷かれ、事件そのものが一般市民には秘匿され、警察内でも所轄の者にすら捜査の進捗などは知らされない様になった事
それらの内容が、その場に居る皆に周防の口から話される。
だが、継守にとっては特に興味を引く部分は無かった。
一言で言えば、その内容は昨日に凛から聞いたものと同じであり、新しい事実などは何も無かったからだ。
これだけの材料では、具体的な事件調査の方針など決めようが無い。
少し落胆の表情を浮かべる凛と継守の顔を見て、周防は楽しそうな笑みを浮かべる。
「お二人のお気持ちは解ります。昨日に本庁から出向して来て事件捜査の権限を一手に任された時の私も、同じ感想を抱いていました」
「では、今は違うと言うのか?」
にこやかな顔の周防に対し、不機嫌な顔と声音で応えたのは凛だ。
そんな少女の態度そのものを面白がる様子で周防は話を再開する。
事件捜査に必要な情報が、まるで足りない。
そこで警察組織を大きく動かす本格的な捜査を始めたりすれば、それによって秘匿している事件そのものが世間の明るみに出てしまいかねない。
だからと言って手持ちの情報だけで整理すれば、それは馬鹿げた都市伝説みたいな内容の物であり、まともな犯人像など想像すら出来ない。
行き詰まった周防は、駄目で元々と思いながらも近所で何か変わった噂話でも聞けないかと町に出た。そこで、ある噂を耳にしたらしい。
帝都西区の『妖怪退治屋 毘沙門庵』なる便利屋には、『鬼斬り継守』と名乗る戦国剣法の達人がいる。
周防は語る。
「その噂を聞いた時、私はピンと来ました。この人物こそが、かの大鎧の鎧武者の正体なのだろうと」
今では姿を消した筈の戦国古流剣術の使い手ならば、大鎧などという時代錯誤なモノを現在でも所持し、常人では考えられない立ち回りをしても不思議では無い。
そう考えた周防は、稲郷継守という男について調べ上げ、気付かれない様に監視をする事にしたという。
そして見張り始めていきなり、動きが有った。
対象である稲郷継守という少年が、夕刻に帝都西区の往来で心斎橋凛と待ち合わせ、そのまま二人で蕎麦屋に連れ立ったのだ。
その際、少年が少女の為に指輪を見せ、蕎麦屋では少年が何かを告げると急いで立ち去り、残された少女は赤面して俯いてしまっていたのだと。
「この時、私はピンと来ました。これは、刑事の勘ですね」
「ほう。何がピンときたのか、具体的に聞かせて貰おうか」
にこやかな顔で人差し指をピンと立てて話す周防に、あくまで凛は不機嫌な声音で答えた。
「この二人は、実は将来を誓い合った恋人同士なのだろうと。
きっと半年前に有った決闘未遂により、二人の心には何か通じ合うものが生まれたのです。そして、二人は恋に落ちた。そうに違い無いと」
「何を言っているのだっ!! この、大うつけが!!」
立ち上がり、一瞬で耳まで赤くなりながら焦った声で叫ぶ凛。
少女の赤面の理由が怒りからなのか羞恥からなのか、それとも両方からなのか。それは解らない。
だが、そんな事はどうでも良いと言うかの様に、周防は涼しい顔で話を続ける。
「その確信を得て帰った私は、改めて事件被害者達へ聴取する事にしました。蛭田が心斎橋家について何か言ってはいなかったかと。
すると、とても興味深い証言を得る事が出来たのです」
殺される日の晩の酒盛りの時に、蛭田は周囲の取り巻きの男達の内の一人に、こう語ったと言う。
『俺は近いうちに心斎橋家に婿入りして、新明館の塾長になる』
それを蛭田から聞かされた時、男は冗談だと思い信じなかった。
それもそうだろう。
維新戦争前の町道場の頃ならいざ知らず、現在の新明館は新政府公認の仕官予備校なのだ。
もし本当に蛭田が心斎橋家に婿入りして現塾長の洞現が認めたところで、新政府による審査で許可が下りなければ、蛭田の塾長就任は正式な決定とはされない。
そして、蛭田がその審査に合格するのに相応しい人物だとは、とても男には思えなかった。
確かに蛭田は、維新戦争時に新明館を拠点としていた”帝都大火の三英雄”の一人であり、全く新明館と関係の無い人物という訳では無い。
だが、蛭田は心斎橋一刀流の免許皆伝どころか、新明館の塾生であった事すら無い。これでは師範代ですら務まらないだろう。
そして何よりも問題なのは、蛭田という人物そのものの人間性だ。
一応は警察署長などという役職に就いてこそいるが、あくまで”維新の英雄”を粗末には扱えないという事での新政府の苦肉の策に過ぎない。
蛭田の粗暴さと悪辣さは誰もが知るところであり、その扱いに困った新政府が、元から治安も悪く貧民ばかりの帝都西区の下町に封じ込めようとしただけなのだ。
だから、蛭田が新明館の塾長に就任する事は絶対に無いと男は思った。
有り得ない。馬鹿馬鹿しい妄想だ。きっと蛭田は、何かを勘違いしている。
だが、それを蛭田本人に対して男が言えば、蛭田は間違い無く機嫌を損ねる。
そして、そうなった時の蛭田が何をするかは男も充分に知る事であり、それを男は恐れた。
だから、全く別の切り口から蛭田に尋ねる事にした。
『でも蛭田さんとあの家のお嬢さんは、親子ほども年が離れているじゃないですか。そんな縁組を、あの塾長の爺さんが許しますかね?』
その言葉を聞かされた時、蛭田は笑いながら言った。
『あのジジイが、俺に逆らえる訳が無えだろ。そんな根性が有れば、あの時に・・・』
その続きの言葉は、蛭田の歯を剥き出しての笑い声に掻き消されて男には聞こえなかった。
だから、どうして心斎橋洞現が蛭田に逆らえないのかの理由も、蛭田の言う『あの時』が何時を指して言ったものなのかも、男には解らない。
結局、それが何かを蛭田は話す事は無く、その夜に蛭田は鎧武者によって殺された。真実は、闇の中に葬られたのだ。
「しかし生前の蛭田が言っていた、心斎橋家への婿入りの件については裏が取れているのです」
周防は制服のポケットから黒い手帳を取り出して広げ、継守達に見せる。
そこには、事件前日に蛭田が心斎橋家を尋ね、洞現と面会していたという記録が書かれている。
「そして私は昨日に心斎橋家を訪れ、洞現殿に蛭田の訪問理由を尋ねたのです。そうしたら、確かに蛭田から婿入りを申し込まれたと言っていました。
ただ、正式な返事は三日後にすると約束したので、その日は他には何の約束もせずに蛭田は帰って行ったとのことです」
手帳を閉じると、周防は口を閉じて凛の顔を見つめた。
その顔は先ほどまでの楽し気なものでは無く、探る様な冷めた視線だけを送り続けている。
周防だけでなく継守や小吉郎の視線をも一身に集める中、凛は呆然といった口調で呟く。
「私は、何も聞いていないぞ」
蒼白な顔で立ち尽くす少女の言葉を受け、周防は再び口を開く。
「そうでしょうね。これは洞現殿にとっては、とても受け入れられる話ではありません。
ましてや、そんな話を孫娘である当人の凛お嬢さんに聞かせられる筈がないでしょう」
「では、洞現殿はどうするつもりだったのでしょうか?」
横から質問を挟む継守に対し、周防は再び楽しそうな表情に戻る。
「そこで、君ですよ。稲郷君」
「俺ですか?」
「そうです。凛お嬢さんの恋人である君ならば、きっとお嬢さんの危機を放って置きはしない筈です」
「いや、俺と心斎橋は別に・・・」
「悪逆と暴虐の限りをつくす権力者の魔の手から可憐な姫君を救うのは、突如として現れた謎の鎧武者!!
そして、その正体は、姫君と密かに想いを通じ合っている戦国剣法の使い手である少年剣士!!
彼は、その後も謎の鎧武者として夜の町を疾走し、帝都に巣食う巨悪の首魁をバッサバッサと斬り捨てて快刀乱麻の・・・!」
突如として立ち上がり興奮した様に叫び出す周防。継守をはじめとした凛や小吉郎も戸惑いの表情を浮かべる。
そんな継守達の視線に気付いた周防は、再び落ち着いた愛想の良い顔に戻り席に着く。
「いや、驚かせてしまって済みません。実は今回の事件を追っている途中で、私は閃いたのです。この事件を元に、劇脚本でも書こうとかと。
麗しの姫君を守る為に謎の少年剣士が悪の権力者と戦う話とか、新帝国劇場で上演すれば間違い無く人気演目に成りますよ」
「はあ」
「そしてですね。いっそ、こんな今の小役人の仕事など辞めてしまい、そのまま劇作家になってしまおうかと」
「はあ」
「そう思った私はですね、まず小吉郎君に個人的に協力を要請したのです。
もし上手く行ったら、私の知人に警察内の人事に発言力を持つ人物が居るので、彼に小吉郎君の事を”仕事のできる男”だと上手く伝えておくという条件で。
継守君の事は小吉郎君に見張っていて貰い、私の方は朝から凛お嬢さんの方を取ざ・・・監視していたのです」
「今、取材って言いかけましたよね?」
「そうしたら、どうやら凛お嬢さんは誰かと待ち合わせをしているのに相手が現れないといった様子です。
ふと気になったので小吉郎君達の方に戻って来てみれば・・・後の説明は要りませんよね」
「・・・なるほど」
事件とそれを取り巻く現在の状況は解った。
とりあえず、継守達は今の時点で解っている事だけで状況を整理してみることにした。
まず今回の件で最も不可解な点は、どうして犯人が大鎧などと言う鎧武者の姿で警察署を襲撃したのかという部分だ。
普通に考えれば、もし誰かが蛭田を殺そうと考えたとしても、真正面から警察署に襲撃をかける様な無茶な行動はしないだろう。
例えば蛭田が一人で行動する時を選んでの待ち伏せなどをすれば、もっと簡単に殺害そのものも、殺害後の逃走も出来るのだ。
それなのに、あえて一昨日の夜に犯人は警察署を襲撃した。それも、時代錯誤な鎧甲冑などというものを持ち出してだ。
はっきり言えば、正気とは思えない行動だ。だが、そこが解れば犯人像を掴む糸口にはなるのかも知れない。
次に不可解な点は、どうして犯行を一昨日の真夜中に決行したのか。
これは大鎧を持ち出した理由とも重なるが、わざわざ蛭田が警察署に居る時に真正面から襲撃をかけるのは、はっきり言えば正気の行動ではない。
あえてそうせざるを得ない理由。出来るだけ速やかに蛭田を殺さねばならない理由が、犯人には有ったと思われる。
今の手持ちの唯一の情報だと、考えられるのは蛭田の心斎橋家への婿入りを阻止したかった者による犯行だ。
その場合において最大の動機を持つ人物は、心斎橋家の当主であり、凛の祖父であり、新明館の塾長である心斎橋洞現という事になる。
だが、これは有り得ない。
洞現老人は、一五年前の維新戦争の時に利き腕を賊に斬られ、今は剣を握れない身である。これは周囲の誰もが知る事実だ。
また、洞現老人は蛭田の婿入りの申し出を誰にも話してはいない様子なので、あえて誰かに蛭田暗殺を依頼しているなどという線は考え難い。
そもそも、洞現老人が蛭田の婿入りを拒否したいと思ったからと言って、いきなり殺害しようなどと考えるだろうか。やはり、この線は無いと考えるべきだろう。
やはり、別の動機から別の誰かが行った犯行だと考えるべきだ。
ここまでで解っている事を整理していて判明した事は、結局は何も解っていないという事実のみである。
煮詰まって黙りこくってしまった他の三人を前に、周防は肩をすくめながら言う。
「実はですね。いっそ、この事件については”迷宮入り”にしてしまおうかと思うのです」
「迷宮入り?」
耳慣れない言葉に尋ね返す継守に向け、周防は軽い口調で答える。
「ええ。迷宮に入り込んだみたいに先が見えない状況。私達の業界では、事件捜査が手詰まりでお手上げの時に使う言葉です。
捜査そのものを打ち切る訳では有りませんが、もう本腰を入れる事からは手を引く事を意味します」
「その判断は、少し早過ぎませんか?」
「考えてもみて下さい、稲郷君。
殺された蛭田は、何十年も前に故郷である焔州を出て以来は天涯孤独の身。
そして周囲の人々にとっては長年の迷惑な存在であり、政府もその処分に困っていた人物です。
彼が殺されたからといって誰も困らないどころか、むしろ人々から喜ばれる。そんな人物なのですよ。
ここは一つ、蛭田暗殺の犯人を無理に追い詰める事などせず、それよりも・・・」
「何を馬鹿な事を言っているっ!!」
明らかな怒気を孕んだ声で叫んだのは、心斎橋凛であった。
「例え、殺害された者がどの様な人物であろうとも。例え、それがどの様な理由であろうとも。
この帝都において私情で人を斬るのは犯罪であり、それを行った者を法で裁くのは天下の大義だ。
それを簡単に放棄するなど、志士として恥ずべき・・・少なくとも、この心斎橋凛にとっては有り得無い話だ!!」
そのまま鋭い視線で三人の男共の顔を見回してから、再び口を開く。
「情報が足りないのならば、これから集めれば良い。
警察組織を動かす本格的な捜査が出来ないと言うのならば、我ら四人だけで動けば良い。
それすらも出来ぬと言う者には、もはや武人を名乗る資格は無い。その手に持つ武器を、早々に手放せ! 」
その言葉に対し最初に口を開いたのは、意外にも今まで殆ど口を開いていなかった小吉郎であった。
「そうだな。そこの姉ちゃんの言う通りだ。
せっかく、あのクソ署長が死んで清々して、俺が出世できそうな話も転がり込んできたってばっかりだ。ここで放り出すバカはねえ」
その言葉に継守も続く。
「俺も異存は無い。ここまで来たからには乗りかけた船だし、滅多に無い功名の機会だ。心斎橋に付き合おう」
だが、それらの言葉に対し周防は小さく首を振りながら諭す口調で語り出す。
「ええ。私も若い皆さんのお気持ちは解りますよ。でも、具体的な方針が見当もつかないというのが今の実情です。
こんな馬鹿げた事件の犯人像など、まともに考えても想像など出来ません。
それとも私が書こうとしている劇脚本に登場する”巨悪を斬り捨てる謎の鎧武者”が、実際に存在するとでも?」
その言葉に小吉郎が小さく眉をひそめる。
しかし、それに誰かが気付くよりも先に凛の興奮した叫びが場の空気を奪っていった。
「それだ、周防殿!」
「・・・それとは?」
「この事件の犯人は、きっと義憤に駆られ立ち上がった志士なのだ!!」
「もう維新戦争からは一五年も経った、この今の帝都で、今更ですか?」
「ああ、そうだ! 今更だからこそ、その志を蘇らせたのだっ!」
「そんな馬鹿な・・・」
我ながら余計な事を言ってしまったとでも言いたげな苦笑を浮かべながら、周防は継守に同意を求める視線を向けた。
だが、この場で最も合理的な思考をすると思われる少年から返された答えは、周防の期待するものとは正反対のものであった。
「いや、周防さん。この心斎橋の言う犯人像の案は、あながち馬鹿には出来ませんよ」
「そんな稲郷君まで・・・」
「今回の犯人の不可解な行動の幾つかは、武士としての誇りが有ればこその行動なのだと考えれば、確かに説明が出来ます」
「お前もそう思うか、稲郷っ!!」
継守の言葉を聞き、凛は表情を輝かせ声を弾ませながら叫ぶ。
その姿を無言で見つめていた周防は、ほんの数刻前と同じく両腕と両手を広げて上げて見せた。どうやら、降参という意志表示らしい。
だが、数刻前の時のような楽し気な様子では無く、困ったような笑みを口元に浮かべてではあるのだが。
再び、四人での犯人像の考察が始まった。
『衣川署襲撃事件は、義憤に駆られた志士による犯行である』
そう考えれば、確かに今回の事件での犯人による幾つかの不可解な行動の説明は付く。
あえて蛭田個人を狙っての闇討ちをするのでは無く真正面から警察署を襲撃したのも、あえて”戦場における武士の誉”と言うべき大鎧の姿で人々の前に現れたのも、殺害対象である蛭田以外の人間は全員を殺さず気絶させるだけに止めたのも、全ては武士としての矜持が有ればこそだと考えれば一応は筋が通る。
最も、もし継守が蛭田の暗殺をしようと考えたとしても、こんな普通に考えれば自殺行為としか考えられない作戦は絶対に立てたりはしないのだが。
犯人像に話を戻す。
その”義憤に立ち上がった志士”が”武士の誇り”を証明する為に、衣川署襲撃を成功させた次の行動として何をするだろうか。
そこで思い出せるのが、蛭田と同じ”帝都大火の三英雄”である犬井と烏丸という名の二人の男である。
帝都大火の三英雄。
それは、今回の事件殺された蛭田圭三に犬井蔵人と烏丸勇美を加えた、三人の男達を指す呼称だ。
この三人は十五年前の維新戦争の時、帝都市街に城壁の内部から火を放ち、維新軍こと新政府軍による帝都攻略に貢献した英雄という事になっている。
しかし、実際に彼ら三人が当時にしていた事はただの火事場泥棒に過ぎず、その事は新政府の上層部も承知していた。
だが、当時の新政府上層部には、それが偽物だと解っていても彼らを”英雄”として祭り上げる必要が有った。
当時の新政府には、まだ中立で迷っている地方領主や総督府軍の残党達に『今は総督府を裏切り、新政府に味方した方が得だ』と思わせる宣伝材料が必要であり、その為の偶像を欲していたのだ。
だから、彼らがただの無法者達だと解った上で、あえて蛭田達を”英雄”として祭り上げ、それぞれ三人には新政府下における役職まで与えて優遇をした。
その結果として”帝都大火の三英雄”である三人は、蛭田は勿論として残り二人の犬井や烏丸も、与えられた職権を乱用しての悪徳の限りを尽くす一五年間を送って来ている。
その事は今では帝都の誰もが知る事であり、現在の彼らに対する帝都市民の反感や恨みは決して浅い物では無いのだ。
だから先程に周防が言った、『”帝都大火の三英雄”を模した悪徳権力者達を謎の鎧武者が成敗する話を帝国新劇場で上映すれば、きっと今の帝都でなら人気演目になる』という言葉も、あながち有り得ない話では無いのである。
話を進める内に、気が付けば部屋に指す陽の光は西に傾き始めていた。
その少しだけ昼間より薄暗くなった座敷の席では、追加注文した煎茶と饅頭を遠慮無く口に運びながら凛が継守に尋ねる。
「つまり、衣川署襲撃事件の犯人が行動を起こすとしたら、次は犬井か烏丸を襲撃するという事か?」
「まあ、あくまで大鎧が”帝都大火の三英雄”を狙っての義賊だと仮定しての話だがな」
「ならば、違かった場合は?」
「話が、全く手掛かりが無い状態に戻る」
「それでは困るではないか」
「仕方が無いだろう。どちらにしろ、まだ判断材料がまるで足りていないんだ」
「ならば、これから自分達で足りない情報を集めるしかない・・・という事か」
「ああ。結局は、この四人での地道な捜査を続ける他の選択肢は無い」
そのまま四人は改めて今後の捜査方針を話し合い、今後の四人の役割分担が取り決める。
まず継守と凛は、今夜から帝都の街を徒歩で見回る分担が割り当てられた。
その際に重点的に見るのは、蛭田と同じく”帝都大火の三英雄”と称されている犬井と烏丸の屋敷だ。
今のところ確証は無いとはいえ、犯人が”世直し”を気取った愉快犯である場合には、この二人が最も次の襲撃を受ける可能性が高い者達だからだ。
それが見当違いであり犬井や烏丸の周辺では何も無かったとしても、もし見回り中に継守達が別件の犯罪が現行犯で起こっている場に遭遇できたら、その犯人を捕縛できる。
これは元々の二人の計画である『自警団として犯罪者を捕らえて、自分達の名前を帝都中の人々の間で有名にする』という目的から考えても都合の良い展開である。
ある意味では、予定通りの行動と言えよう。
次に周防が、警察内部における聞き込み捜査を引き受けた。
聞き込みの内容は、現在において政府関係者から新明館の次期塾長候補と見なされている人物とその関係者の、最近の動向だ。
現在の新明館は政府公認の仕官予備校なので、その塾長に就任する事は、それだけで名誉となる。
そして、その立場の性質上から、警察や軍の上層部に人脈を作る事も容易くなり、自分の手駒となる卒業生を狙った組織に送り込む事も不可能では無い。
現在の塾長である洞現老人にはそのつもりは無い様だが、その気になれば軍や警察に対する自身の発言力を強めたり、将来的な政界進出の足掛かりにすら使えるものなのだ。
もし、その様な計画を考えている者が居たとすれば、蛭田による心斎橋家と新明館を乗っ取ろうという計画は見過ごせない問題となる。
だから、新明館塾長の座を狙っている誰かが、鎧武者の正体である人物に蛭田の暗殺を依頼したという可能性も、充分に出てくるのだ。
蛭田の新明館乗っ取り計画が、いつから計画されていたもので、どれだけの者に知れ渡っているのか。それは今のところは解らない。
だが、調べてみるだけの価値はある。
この辺りの聞き込みは、かつての維新志士として政府や警察の上層部にも幾つかの人脈をもつ周防にしか出来ないだろうという事で、周防の担当となった。
最後の小吉郎が引き受けたのは、殺された蛭田の最近の動向についての捜査だ。
なにしろ蛭田の事だ。周防や継守達が知らない所でも、どれだけの恨まれ事を事件当日だけでも作っているのか見当もつかない。
今からでも地道な聞き込み捜査をして回れば、ひょっとすると思わぬ新事実が見つかるという可能性だってある。
これについては帝都西地区の下町出身であり衣川署周辺にも顔がきく昔なじみが多い小吉郎が引き受ける事となった。
方針は決まった。
一度、この場では解散して各自が自分の準備を整え、夕刻に再び四人で集合する事となった。
四人で再集合の場所と時間を確認し、それぞれが自宅なり別件での用事がある場所へと散っていく。
「稲郷。また夕刻に会おう」
「ああ。今夜はよろしく頼む、心斎橋」
継守も凛と別れの挨拶を交わし、長屋へ速足で歩き出す。
日中いっぱいかけて四人で話し合った結果として結局は何も解ってはおらず、地味で地道な捜査をするしかないという確認をしたに過ぎない。
だが、それでも継守の心中においては、この話し合いでは大きな前進を感じていた。
周防忠輔と小吉郎。
その動機がしっかりした二人の協力者を得る事が出来た事は今後において大きな助けとなる事だろう。
確かに今の時点では、どこまで信用して良いのか解らない部分が二人にも多い。
だが少なくとも悪い人間では無さそうだという事だけは、継守も今回の会食で解ったような気がする。
長屋への帰路を歩きながら、継守は準備する物について頭の中で確認をする。
まずは、木刀。これは朝稽古で使っているもので良いだろう。
今夜の見回りでは自警と自衛の為に必要な物だし、これからも何かの事件に自分が頭を突っ込んでいれば今朝の小吉郎との事みたいな事は幾度となく発生するかもしれない。
これからは、普段も昼間から持ち歩くべきなのだろうか。
そして、次は夜食。これについては、何処かの店で握り飯なり餅なりを買い込むしかない。
もし千穂が機嫌を損ねていなければ張り切って弁当でも作ってくれたのだろうが、今は仕方が無い。
これから時間をかけて稲郷継守の男としての誠意を見せ、彼女からの信頼を取り戻していく他は無いのだろう。
そして、次は・・・。
あれこれと考えながら、継守は独り言を呟く。
「さて・・・まだ初日だが、気合を入れて行かなければな」
まだ初日。
この時の継守は、そう考えていた。これからの長い地道な捜査の、最初の一日。
だが、その考えが甘かった事を少年はすぐに思い知る事になる。
事態は少年が思っているよりも遥か前から動き出しており、少年は何も知らずに既にある激流に足を踏み入れようとしていただけだったのだ。
こうして少年は、事件結末の日の夜を迎える。
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