第十章

 早春。

長い冬も去り、大陸内陸にある帝都の街中を吹く風にも柔らかな暖かさを感じる季節となった

淡い色の晴れ空と昼前の穏やかな日差しの下、穏やかとは言い難い声音での呟き声がする


「・・・遅い」


 声の主は、心斎橋凛だ。

艶やかな黒髪と白い肌が印象的な、その名の通りに凛々しいといった印象を周囲に与える少女である。


 彼女は今、帝都中央区の大通りの角に立っていた。

この中央区は帝の居城である白鳳城を中心として、帝国議会の議事堂や、新政府の各省庁の庁舎が集中している地域だ。

自然と、それら行政機関との関係が深い銀行や財閥の支部が多く集まり、それらに出入りする上流階級の人間を相手にした各種の高級店なども立ち並んでいる。

 その為だろう。同じく多くの人々や馬車で溢れかえっている大通りの景色とは言っても、旧市街と呼ばれる西区のいかにも庶民の町と言った感の煩雑さや、問屋街を走り回る商売人の姿と立ち並ぶ蔵ばかり目につく南区の喧騒を思えば、立ち並ぶ建物も南蛮風の近代的で壮麗な物が多く、行き交う人々の服装も小洒落て落ち着いた印象を感じさせる。

 その様な景色の中においては、今の凛は異質とでも言うべき身なりをしていた。紺色をした剣術の稽古着で身を包み、その手には古びた竹刀袋を握っている。

普通の者ならば、こんな武骨を通り越して野暮な身なりをしていれば、この、いかにも上流階級という雰囲気が匂い立つ街並の中では浮いた存在となっていただろう。

だが、女性にしてはやや長身であり、細身ながらも均整の取れた体で背筋を伸ばして立つ少女の姿は、不思議と違和感も無く周囲の景色に溶け込んでいる。

この心斎橋凛という少女の顔立ちと無意識での振る舞いが、自然体での気品と華麗さを備えているからなのだろうか。

 その麗人といった佇まいの少女は、独り不機嫌な顔のまま、その表情からの想像を裏切らない声で呟きを漏らす。


「何をしているのだ、稲郷は」


 凛が継守を待ち始めてから、既に一刻の時間が経っている。その間、この場所で凛は立ち尽くしたままでいるのだ。

普段の凛ならば、待ち合わせの相手が何か事故にでも巻き込まれたかと心配をし出す頃合いなのだろう。

だが今回に限れば、凛は純粋に相手への苛立ちを募らせている。


「だいたい、どういうつもりなのだ稲郷の奴は・・・!」


 待ち人の事を思い出しながら、凛は思う。本当に、あの男は何を考えているのだ。

昨日は冗談で凛に求婚したいと言い出したと思えば、今日は平気で待ち合わせを遅れて来る始末だ。

 こんな不誠実な男だとは思わなかった。あの不器用で実直そうな振る舞いに、自分は騙されていたのだ。

ほんの少しとは言え。あくまで、ほんの少しだけだが、あんな男に好意にも似た感情を抱いていた自分が愚かしくて腹立たしい。


「とにかく、この遅刻への埋め合わせはして貰わねばな」


 それだけは、決定事項だ。

昨日の不埒な発言については、蕎麦屋での勘定を払わせた事で水に流してやる事にした。

だから、今回も同じだ。今日の昼食は、稲郷に奢らせてやるとしよう。

そうだ。せっかくなのだから、あの男が青ざめるくらいの請求書が叩き付けられる店に行こう。

 うん。それが良い。そうしてやろう。


「ふふっ・・・覚悟しておけよ、稲郷」


 いつの間にか、不機嫌顔だった筈の凛の口元に少しだけ笑みが浮かぶ。

その顔は、本人に教えれば不本意だと答えるであろうが、まるで想い人を待ちわびる乙女の様に嬉しげに見えるものであった。



―――


 その頃、帝都西区から中央区へと向かう大通りから脇道にそれた一本道の中ほどでは、一人の少年が額に脂汗を浮かべていた。

その少年とは、言うまでも無く稲郷継守だ。

昼でも薄暗い裏路地の湿った地面に片膝を付き、ほんの数瞬前まで自分にとっての手柄首だと思っていた男が逆光の中に立つ姿を見上げる。

思わず右手で押さえている鳩尾には灼熱感にも似た激痛が疼き、荒く吐く息は、気を付けなければ胃の中の物をぶちまけそうな程の吐き気を伴っていた。

 その手に六尺棒を持ち警官の姿をした男は、継守に向け薄い笑みを浮かべながら話しかける。


「なあ。まさか、これで終わりって事も無えだろ? 」


 口元には笑みを浮かべながらも、男の目は決して笑ってはいない。


「おら、早く立てや」


 そう言いながら、男は棒の先で継守の肩を小突いた。

その小突かれた痛みで気が紛れたという訳でもあるまいが、ようやく継守も荒れていた息を大きく吐き出す事で整え、路地の壁に手を付きながら立ち上がる。

よろめきつつも相手を睨みつける継守の顔を見て、初めて男の目に喜色が浮かぶ。

その男の意図が解らないまま、継守は現在の自分が置かれた状況を再確認していた。


 全ては予想を超えた計算外の出来事だった。

いや、そうではない。単に、継守が立てた見通しが甘かっただけだ。

いくら”何でもありでの勝負”に慣れているとは言え、結局は継守も”互いが正面からぶつかる試合”という形でしか実戦を知らない未熟者に過ぎなかったという事だ。

 だから、幾つかの勝手な思い込みをしていた。


 男は一昨日の夜に警察署への賊の侵入を許した事により、冷静さを失っている。

そうでなければ、こんな乱暴な手段をとろうとはしない。

 この男が継守に仕掛けるとすれば、奥の空き地に誘い込んでから。

継守に逃げられない様に退路を断つ為には、奥の空き地に誘い込み出入り口を塞ぐしかない。

それに、ここは棒術使いが実力を発揮でいない狭い一本道である。


 全ては、継守の見当違いだった。

この男は冷静に、かつ現実的な手段で継守を追い詰めているのだ。


 

 事は、ほんの一瞬前に遡る。

それまで継守は無言のまま、先に行く男の後を追いながら薄暗い裏路地の一本道を歩いていた。

歩きながらも、この先の空き地に侵入した時に自分が取るべき行動を頭の中で確認をする。

 空き地に入ったら、最初に自分は何を確認するべきか。最初に何を行動するべきか。

あらゆる事態を想定し、あらゆる手段を検討し、あくまで”空き地に入ったらどうするか”ばかりを考えていた。

 だから、反応が遅れた。



 継守が男の後をついて歩いていた時、男は路地の半ばまで来たところで不意に足を止めた。

そして、不審に思いながら見つめる継守の目の前で、その場に立ち背を向けたまま語しかけて来る。


「なあ、クソガキ」

「・・・はい」

「俺はなあ・・・てめえの腹ん中の気持ちも、ちったあ解るんだ」

「・・・?」


 言葉は相変わらずガラの悪いものだが、その声には少しだけ同情の様なものが混じる。

そのまま男は静かに語り始めた。


「俺は、この近所の下町の生まれだ。長屋住まいの貧乏人のガキとして生まれた。まあ、言うまでも無いが周りの連中も貧乏人だらけだ。

みじめったらしい生活にしがみつく為に、しみったれた日銭を目当てに毎日金持ちからコキ使われ、その憂さ晴らしで酒を飲んじゃあ暴れたり博打ばっかしている。

そんな、どうしようもない連中ばかりがが溢れている場所だ。俺もそんな、どうしようもないクソ親に育てられた、どうしようもないクソガキの一人だった」

「・・・」


 突然に始まった小吉郎の昔話に、継守はその真意を測りかね沈黙したままでいた。

だが、その事は小吉郎も気にはしていない様だ。振り返って継守の反応を見る事も無く、淡々と話を続ける。


「そんな、どうしようもないモンばっかの所だったけどな・・・そんな中でも一つだけ、俺は大切に思えるものが有った。

俺の住んでいる所の隣の長屋に住んでいた、俺より三つ年上の人だ。俺は、その人にだけは姉の様に・・いや、実際の親兄弟によりも懐いていた」

「・・・」

「優しくて・・・綺麗な人だった。今になって思えば、それほど美人だった訳じゃない。でも、あの頃の俺には天女とか女神みたいに見えていた。

初めて誰かを尊いと思えたんだ。ガキながらも、この人だけは幸せになって欲しいと思った。

いや、違うな。こんな良い人が不幸になる筈なんて絶対に無いって、馬鹿みたいに信じていた」


 その昔語りを聞きながらも、継守は相手の真意が解らずに困惑していた。

こんな話をするとして、どうして路地の途中で立ち止まる必要が有るのだ。

もし何らかの意図からで時間稼ぎをするにも、ここでする意味が無い。さっさと空き地に入って相手の退路を断ってからでも出来る話ではないか。


「その人が自分の親ほども年の離れた男の妾になる事が決まったのは、俺が十四の時だ。

どうやら、その人の親が相手の大商人にデカい借金をしていたらしい。まあ、こんなのは下町じゃあ珍しくも無い話さ。

それで、その人は妾になった翌年に、その男が何処かの女から貰ってきた悪い病気をうつされて、医者にかからさせても貰えず死んじまった。

これも・・・まあ、珍しくも無い話だ」


一度言葉を切ると、警官姿の男が狭い路地に挟まれた空を見上げる。


「でもなぁ・・・あの頃の俺は悔しかった。何も出来ないガキの自分が許せなかったし、何も出来ない貧乏人でいる事が耐えられないと思った。

 思えば、それが理由なのかもなぁ・・・俺が道場なんかに行こうと言い出したのは」

「・・・警察官殿?」


 未だ見えない相手の意図に、ついに継守は言葉をかけてしまう。

だが、その声にも振り返らず、男は姿勢も口調も変えぬまま語り続ける。


「まあ、最後まで聞けや。とにかくだ。これでも俺は、お前の気持ちも、ちったあ解るって話をしたかっただけなんだ」

「それは一体・・?」

「あー、うん。解る解る。惚れた女を盗られるだけならまだしも・・ってな」

「さっきから、何を・・・」

「だがなぁ」


不意に男は首だけで振り返り、その口端を吊り上げる。


「殺しはいけねえなぁ、大鎧」

「!?」


 不意に揺れる視界。一瞬、継守は自分が何をされたのか理解が出来なかった。

気が付いた時には、継守の鳩尾には六尺棒の先端が埋め込むかのように突き立てられていた。

その実感も無いまま膝が崩れ落ち、薄汚れた湿った路地にうずくまる。

 一拍だけ遅れて襲い来る灼熱感と吐き気。

その霞みかけた視界の中では、継守の鳩尾にめり込んでいた六尺棒の先端が、吸い込まれるようにして男の右腕の脇を通って消えていく。

この時になって、ようやく継守は自分が何をされたのかを理解した。


 小吉郎という名だっただろうか。

この男は、長い棒を扱うには向かない狭い路地での、相手に背を向けた不自然な体勢のまま、背後の継守の鳩尾を正確に狙って来た。

それも長々と昔話などを語りながら、その姿勢や語気にも僅かに身構える気配も見せず、何気ない自然体のまま最低限の動作で鋭い突きを放ったのである。

話の流れや動作についても、自分が振り返る事で相手の注意を自分の顔に集中させ、その一瞬に相手との間合いと位置を確認しながらの同時攻撃だ。

 これは考えついたところで、そう誰にでも出来る様な芸当では無い。

幾年もの修練を積み、あらゆる状況でその武器を振り続け、それを己の手足と同等にまで扱える領域にまで達した人間でなければ不可能な事だ。

それも、己の武器の長さも重さも完全に把握しているという強い自負が無ければ、こんな狭い場所であえて奇襲をしようなどとは決断は出来ない。


 完全に継守の読み違いであった。

このままの勢いで男が攻撃を重ねれば、継守は体勢を立て直す隙も与えられずに打ちのめされ無力化するだろう。

それこそ継守自身が普段から得意と自負している”戦国の闘法”で語るならば、もう継守は”首を捕られた”と言って良い。

 だが、小吉郎という名の若い男は、継守が立ち上がり息を整えるまで何も仕掛けては来なかった。

改めて継守の方に体ごと向き直ると、軽く腰を落として六尺棒を構え直す。


「さあ、これで一昨日の夜の借りは返した。ここからは、仕切り直しといこうか。

 あの時は酔っぱらってたが、今はシラフだ。それに、ここなら貴様もコソコソと背中に回る事なんか出来ねえ。

 今度は、あの時みたいにはいかねえからな」

「警察官殿、先程から話が見えないのですが」

「あぁ? ここまで来て、すっとぼけるつもりかよ」

「ですから警察官殿は、きっと私を誰かと間違えています。

 自分は一昨日の夜は、ある人の家を訪ねていました。その人に確認をとれば、私が警察官殿の言っている件とは無関係だと解る筈です」

「・・・」


 小吉郎の顔に訝し気な表情が浮かぶ。どうやら、自分が実際に人違いをしている可能性に気付いた様だ。

その表情を見て、継守は胸を撫で下ろすと同時に素早く頭を回転させる。

これで、とりあえずは今の流れでの荒事は回避できるだろう。問題は、そこからどう交渉すれば相手から情報を引き出せるのかを考えるべきだ。

 その思案を始める継守の目の前では、小吉郎は棒術の構えを解かぬまま口元に薄い笑みを浮かべた。


「まあ、お前が誰だって関係無えわな」

「・・・警察官殿?」

「聞こえなかったのか? てめえをブチのめす事に変わりは無えっつってんだ」

「待って下さい!だから、自分は一昨日の件とは・・・っ!」

「じゃあ聞くが、てめえは一昨日の”何と”無関係だって言うんだ?」

「・・・ッ」

「尻尾を出したな、クソガキが。てめえを連れ帰ってから、どうして事件の事を知っているか聞き出してやるから覚悟しておけよ」


 継守は内心で舌打ちする。

予想外の場所で襲われた事による動揺からだろう。思考が回っていなかった。

そもそも、この小吉郎という男は継守の事を何らかの理由で調べ上げてから声をかけてきたのでは無かったか。

とぼけた所で、逆に何らかの疑惑を深めるだけにしかならないのだ。

 

 諦めた様に継守は、俯いて大きく息を吐いた。

しかし次に顔を上げた時には、それまでとは違う太々しい笑みが口元に浮かぶ。


「・・・良いでしょう」


 継守は真正面から相手の視線を受け止める。

もう完全に開き直ったというのも有るが、やっと状況が把握できた事での決意も大きい。

 とぼけていた事そのものは無駄だったとは言え、そのお陰で逆に見えて来た状況もある。

小吉郎は、直前まで継守を他の誰かと勘違いをしていた。そして、どうして継守が事件について知っているかの理由も小吉郎は把握していない。

つまり、小吉郎自身が事件について調べる経緯の中で継守の名前を知った訳では無く、他の誰かから継守の存在を聞かされたに過ぎないという事だ。


「では、小吉郎さん。貴方が言う通りに、ここで仕切り直しをしましょう。

 貴方が勝てば、俺は貴方に全てを話す。ただし俺が勝てば・・・」

「それは無えわ」


 継守の言葉を遮る様にして、六尺棒の鋭い突きが継守の足元を襲う。

だが、それを予測していた継守は素早く後方に跳び、それを難無く回避する。

この攻撃が来る事は、予測していた。油断無く相手を観察していれば、簡単に解る事だ。


 狭い路地が故に、相手は存分に棒を振り回す事は出来ない。だから、必然として攻撃は突き技となる。

これは、相手が棒の片側の端に近い部分を握り槍術に近い構えをしているのを見れば、自然と解る。

 そして、相手が狙うのは足。

存分に棒を振るえない以上、その先端での突きが出来ない間合いに相手を入れる訳には行かない。

そして、狭いが故に棒の先端の軌道が限られる場所での相手の上半身を狙った攻撃は、自分が突き出した棒を相手に掴まれる可能性が高くなるからだ。


それらを整理すれば、この状況で小吉郎と言う棒使いが取り得る戦術は、自然と読めて来る。

基本は、六尺棒という武器の長い間合いを利用しての、武器を持たない継守への一方的な攻撃。

まずは継守の脚を潰して懐に入られないようにし、相手の抵抗の意志が無くなるまで間合いの外から痛めつける。

 長柄の武器を使う者としては当然の、手堅い方法だ。

この状況ならば、この戦法をとる事が優位性を得る方法だと、小吉郎自身も理解しているのであろう。

むしろ、この狭い路地でならば継守に横から回り込まれる心配が無いと考え、あえて小吉郎自身が最初から仕組んでいた状況なのかも知れない。

それを裏図けするかのように、最初の一撃を回避された後も小吉郎は、執拗に継守の脚を狙った攻撃ばかりを繰り返して来る。

 連続での鋭い突きを放ち続けていた小吉郎の手が、ふと止まった。

六尺棒での攻撃の全てに対し、あくまで後方に跳び退る事でかわし続ける継守に向けて痺れを切らしたのだろう。

 油断無く構えながらも、苛立った声で話しかけてくる。


「いつまで逃げ回っている気だ、クソガキ」

「でも、こちらから仕掛ける隙なんて、くれる気は無いのでしょう?」

「当たり前だろうが。だが、てめえだって逃げてばかりじゃ俺には勝てねえぜ。

 それに、このまま逃げ出したところで俺は何度でも襲いに行くつもりだからな」

「そうなのですよね、困りました」

「で、困ったから、どうすんだ? 」

「はい。困ったので警察に相談しようと思います」

「あぁっ?」

「これから、衣川署ではない警察署に行きます。そして、こう相談しようと思います。

 今朝、衣川署の小吉郎と名乗る警官から絡まれたと。一昨日の夜に警察署が襲撃された件について聞きたい事が有ると言って、棒で殴りかかって来たと」

「・・・・おいっ!!」



 小吉郎の顔に、ありありと焦りの表情が浮かぶ。

ほんの今までは自分が継守という目の前の少年を追い詰めていた筈なのに、いつの間にか立場が逆転していた事に気付いたからだ。


 もし、このままこの少年が本当に何処かの警察署に相談に行ったとする。

これが今までならば、下町の者が衣川署の警官から絡まれたと訴え出ても、他の警察署も蛭田と関わりを持ちたくないからと黙殺して終わらせていただろう。

 しかし、今回の件については彼らも放っておく訳にはいかない。

勿論、問題の蛭田が今は居ないという事もあが、それよりも重要なのは相談そのものの内容だ。


 小吉郎という名の警官が、一昨日の衣川署襲撃事件について勝手に帝都市民に話している。


 これを放っておけば、警察が自分達にとって都合が悪い事件を帝都市民に対しては隠匿しているという、その事実が明るみに出てしまう。

それに、その箝口令がしかれた事件内容を勝手に言いふらしている警官が居るという事実は、警察そのものの信用や威信の問題となるだろう。

言うまでも無く、その発端となった小吉郎の問題行動は、小吉郎自身の警察組織内での立場にも少なからぬ影響を出すであろう。


 驚きに目を見開く小吉郎の視線の先では、継守という名の少年が口元に太々しい笑みが浮かべていた。

間違い無い。この稲郷継守という名の少年は、その行動が何を意味するかを解りきった上で、すっとぼけて話しているのだ。

 

「てめぇ・・・っ!」


 小吉郎の頭に、一気に血が上った。

いつの間にか自分が追い詰められていたという事実より、こんなクソガキから自分がコケにされているのだという意識に、棒使いの男は冷静さを失う。

だから、そのクソガキが踵を返して走り出した時は、絶対に逃がすまいと駆け出していた。

目の前の背中が、裏路地から表通りに出たところで右に曲がり視界から消えた時も、何の迷いも無く自分も表通りへと飛び出す。

 だから、あっけなく足をかけられて転倒した。


 曲がり角で視界から消えた相手が、角を曲がった目の前の場所で待ち伏せをしている。


 単純で古典的な手段。普段ならば絶対にかからないようなバカみたいな罠。

それに小吉郎は、簡単にかかった。

事態が掴めずに混乱しながらも、それでも小吉郎は半ば反射で素早く立ち上がろうとする。

だが、それよりも一瞬だけ早く何者かが背中にのしかかり素早く小吉郎の腕を掴んだ。

そして、万力の様な力で小吉郎の腕を背中側に回し、そのまま関節を極める。

その何者かの顔は小吉郎からは見えないが、疑うまでも無く、今まで追っていた稲郷継守という名の少年だろう。

  

 気が付けば小吉郎は、大通りの硬い石畳の上に押さえられていた。

だが、無理な方向に曲げられている腕の痛みに顔をしかめながらも、小吉郎は小馬鹿にした笑みを口元に浮かべる。


「馬鹿か、てめえは・・・」


 ここは、昼前の帝都西区の大通り。言うまでも無く、多くの通行人が行き来している天下の往来だ。

こんな所で何者かが警官姿の者と喧嘩をしていれば、当たり前の話として多くの人々の注目を集める。

その中には警察に通報する者も居るだろうし、そうでなくとも人だかりでも出来れば巡回中の警官が気付いて駆けつけてくるだろう。

そして、ここは衣川署の管轄にあたる地区だ。

いくら小吉郎が署内ではどの派閥にも属していない”はぐれ者”だとは言え、それを見捨てるなどという事は衣川署の警官達もしない筈だ。

 少なくとも、大通りで大っぴらに警官に暴力を振るう様な者を放ってはおく筈が無い。

この、”蛭田の手下”という認識から警官が嫌われている帝都西区の下町で『警官に暴力を振るうのは当たり前』などという前例を作れば、それは自分達の将来における身の危険を呼ぶだろうからだ。

 小吉郎は腕の痛みに顔をしかめつつも声を絞り出すようにして、自分の腕を掴む少年へと話しかける。


「その馬鹿力で俺の腕を掴んでいる手を、今すぐ離しやがれ。もし、ここに他の警官が駆け付ければ、てめえの方が無事じゃ済まねえぜ」

「やっと見つけた!! ついに捕まえたぞ!! 」


 大人しくしろと脅した筈の相手の叫びに、小吉郎は困惑する。

このまま注目を集めて騒ぎになれば、それで不利なるのは少年の方だろうに。

そう考える小吉郎の混乱は、次に発せられた少年の叫びにより更に深まった。


「絶対に許さないぞっ! あの署長とお前のせいで、俺の親父は・・・っ!!」


 小吉郎には、全く身に覚えが無い話だ。

少年の父親など小吉郎は会った事も無いし、言うまでも無く顔すら知らない。


「おいっ、クソガキ。だから・・・」


 そこまで言いかけた所で、やっと小吉郎は継守と言う名の少年の狙いを理解する。

小吉郎の視界の端に見えていた通行人の反応が、継守の叫びを聞いた途端に明らかに変わったのだ。

 遠巻きに見物しに来ようと集まりかけていた者達や、誰かを呼ぶべきかと慌てて走り出そうとしていた者達の足が、急に止まったのだ。

ある者は「やっちまえ」や「頑張れよ」などと言葉をかけては何事も無い様に立ち去り、それまで通報しようとしていた者は視線を逸らして”見なかった事”にしようとする。

それまでは”騒ぎにしよう”と動いていた群衆が、一変して”騒ぎにならないように”と振る舞いだしたのだ。

 

 この帝都西区の衣川署管轄地区の警官は、”悪徳署長である蛭田の手下”として周辺住民からは嫌われている。


 継守の言葉を聞いた通行人達は、警官と揉め事を起こしている少年を”父親の仇を討とうとしている少年”として同情し、それを庇おうとしているのだろう。

それを、自身こそが下町育ち出身だからこそ一瞬で理解した小吉郎は、慌てて周囲の通行人へと声を上げようとする。


「待ってくれ! 俺は、こいつの親父の仇なんかじゃ・・がぁっ!」


 最後まで言い切るよりも早く、背中側で関節を極められていた腕が更に捻じりあげられた。

その痛みに言葉を途切れさせ悶絶する小吉郎の耳元に、少年の囁き声がかけられる。


「まあ、貴方が誰だろうと関係無いですよ」

「おい、ふざけん・・・ぐぅっ」

「聞こえませんでした? 貴方が誰であろうと俺がブチのめす事に変わりは無いって言っているのです。

 後で、誰から俺の名前を聞いたのかを教えて貰うつもりですから覚悟しておいて下さい」


 小吉郎は脱出をしようと幾度も身じろぎをするが、そうすればするほどに関節は無理な方向にと曲がり腕と肩の痛みは増す。

歯ぎしりをし、呻き声に途切れさせながらも、継守という名の少年へと悪態を吐く。


「ふ・・・ざけん・・なよ。そんなもん、話す訳が・・・無いだろうが」

「そうですね。貴方なら、もし自分が話した事がバレた時の事を考え、どんなに痛めつけた所で口を割らないでしょう」

「へっ。解ってんなら・・・」

「だから、このまま黙っていれば腕を折ります」

「馬鹿か。そんな事をしても・・・」

「痛みには耐えられても、折れた腕を一瞬で治すのは無理でしょう。そうなれば、どう貴方が隠そうとしても、ここでの事は衣川署の警官達も知る事となる。

 貴方は先程、彼らが駆け付ければ自分は助かると考えていたようですが・・・本当に、そう思いますか?」

「・・・何を言いたい」

「勿論、普通ならば、こんな事をしている俺の方こそが無事では済まない。

 でも、あえて無事で済まさないと、衣川署の警官達にとって隠しておきたいもっと大きな事が、ここで明るみに出てしまう。

 そうなった時に、衣川署の警官達ならばどう振る舞うか。その後で彼らが面倒事を起こした身内を、どう扱うか。それは、貴方こそが良く知っている筈です」

「・・・」

「良いですか? ここで貴方が話した事は、俺は絶対に自分からは口外しない。そもそも、俺と貴方は会った事も無い。約束しましょう」

「・・・畜生」


 勝負は決した。

このまま継守が小吉郎から情報を聞き出せば、それで話は終わる。

 この時は、それを継守も小吉郎も疑わなかった。だが、事態は再び別の展開を呼ぶ。


 不意に、二人の周囲の雑踏の音が途切れた。

その静寂の中、硬い石畳の上を、鋲を打った革靴を踏み鳴らして歩く足音が近づいて来る。

不審に思い振り返った継守の目と、押さえつけられたままで首を曲げて顔を上げた小吉郎の視線が、同じ人影を捕らえた。


 背の高い、壮年の痩せた男だ。だが、その体格こそ細身ながらも歩く姿に脆弱さは全く感じられない。

その全身を包むのは漆黒の警察服。全体的な意匠こそ小吉郎のものと良く似ていながらも、その生地は数段は上質のものであり、各所に金糸での刺繍が施されている。

だが、それらよりも圧倒的に目を引くのは、その腰に下げた黒塗りの鞘だ。言うまでも無く、鞘の中に収められているのは真剣である。


 警視庁抜刀隊。

帝国陸軍抜刀隊と並び、この新政府統治下の帝都内においては唯一と言って良い、合法的に”人斬り”を専門とし得意とする者達だ。 

その漆黒の制服に身を包んだ警視庁抜刀隊の男は、驚きに固まっている継守と小吉郎のすぐ傍まで来て足を止めた。

そして小さく息を吐くと、世間話をするような軽い口調で話し始める。


「小吉郎君、君には監視だけをお願いしていた筈です。勝手な事をされては困りますよ」

「すみません、周防さん。俺は・・・」

「ああ、いいですよ。別に謝る必要は有りません。ただし、しっかり後で埋め合わせ分の働きはして貰いますがね」


 小吉郎が恐縮しながら話す相手の名前を聞き、その聞き覚えのある名前について継守は必死に思い出す。

周防。確か、昨日に凛の話に出て来た名前だ。

今回の衣川署襲撃事件にあたって出向してきた本庁の人間で、事件の捜査権を所轄から奪い取って一手に握っている男だった筈である。

 その男の視線が、小吉郎から継守へと移る。

だが、その視線は大通りの真ん中で揉め事を起こしている犯罪者に向ける警官のものでは無い。

軍服じみた制服などを着ているよりは、平服で役場の窓口にでも座っていた方が似合いそうだと思える、温和で人当たりの良いものだ。

その男は、丁寧で愛想の良い口調で話しかけてきた。


「すみません、自己紹介が申し遅れましたね。初めまして、私は周防。周防忠輔と名乗る者です」

「初めまして、俺は・・」

「知っています、稲郷継守君ですよね。この帝都西地区で妖怪退治屋の看板を掲げている店で、用心棒をしているのだとか。

 そして、猛州剣術の達人だという噂も聞いています」

「・・・」


 やはり、間違い無い。この周防という男こそが、小吉郎に継守の名前を教えた男だ。

そして衣川署襲撃事件についての多く誰よりも知り、事件について嗅ぎ回っている継守と凛の事も把握しているであろう人物なのだ。

 継守からの警戒の視線に気付いたのだろか。周防という名の男は、慌てた様に手を振りながら、なだめる様な口調で話しかけて来る。


「ああ、これは失礼。余計な事を言って、妙な疑いや不安を煽るような事をしたのは謝ります」

「・・いえ」

「でも本当に、私なんかと話すのに緊張なんかしなくても良いのですよ。

 こんな物々しい服装こそしていますが、本当に私なんか大したことなど無いのですから。

 ただ、ちょっと警察の中では他の方々より調べ物が上手いという、それだけの小役人ですし」


 帯刀して漆黒の制服に身を包んだ男は、柔らかな物腰で、にこやかな笑みを浮かべながら話す。


「そうだ。ちょうどお昼時だし、これから稲郷君も御一緒に昼食などいかがでしょう。

小吉郎君の事も有りますし、お詫びも込めて私に奢らせて下さい。

事態がこうなったからには、いっそ稲郷君達と私共は腹を割って話し合い、情報交換などもして協力した方が良いと思いますし。

うん。それが良い。是非、そうしましょう」


 楽しそうな口調で話す男を見ながら、継守は相手の申し出について考える。

とりあえず、断る理由は無いだろう。こちらも相手側の情報を探りたいと思っていた所なので、その機会を相手から申し出てくれるのは都合の良い話だ。

むしろ、これを断って無暗な逃走などをした方が、余計な疑惑や軋轢を呼び込むだろう。

 それに、これについては罠である可能性は低いと考えられる。

もし継守に危害を加えるつもりならば、最初から警官への侮辱なり暴行の現行犯として捕らえてしまった方が話は早い筈なのだし。

 継守は改めて、周防の愛想の良い笑みの浮ぶ顔を見ながら答える。


「了解しました。是非とも御馳走になりましょう。ただ・・・」

「解っています。これから行く場所で待ち合わせる、凛お嬢さんも御一緒したいと言うのでしょう?

 ええ。勿論ですとも。稲郷君を引き留めて待ちぼうけを食わせてしまったお詫びにも、是非とも彼女にも私から奢らせて頂きたいと思いますし。

 そうだ。せっかくですし、今日の昼食は凛お嬢さんの好物である鰻にしましょう」


 にこやかな笑みで継守に話しかけながらも、周防と名乗る男は大通りを帝都中央区へ続く方向へと歩きはじめる。

どうやら、これから凛と継守が何処で待ち合わせをするつもりなのかも既に承知している様だ。


「・・・やれやれ」


 小吉郎から手を離し立ち上がると、継守は周防の後を続いて歩き出す。。

どうやらこの周防と名乗る男も、その柔らかく人当たりの良い物腰とは裏腹にかなりの曲者の様だ。

気を抜けばいつ足元をすくわれるか解らない。そういう類の男だろう。

 だが、もし上手くこの男との協力関係を築く事が出来れば、どうやっても継守と凛だげでは入手できない様な貴重な情報も、そこからは引き出せる。

そうなれば、継守と凛によっての犯人捕縛が成功する可能性は大いに上がるのだ。

油断が出来ない相手だとは言え、ここはあえて相手の懐に飛び込むしかない。


 後ろでは小吉郎が立ち上がりると舌打ちをし、そのまま無言で後ろを歩いてついて来るのが解る。

もし継守が後ろを振り返えれば、不機嫌そうに睨みつけて来る小吉郎と正面から目が合う事だろう。

先程は一度は継守の勝ちという形で決着がついたとは言え、それで大人しく引き下がる男とも思えない。

これから相談なり交渉をする事になるであろう周防も要注意だが、この男にも充分な注意が必要だ。


「一難去って、また一難・・・か」


 気が付けば継守の口元には微かな笑みが浮かんでいた。どうやら無自覚な内に、この今の状況を継守自身が楽しみだしている様だ。

未知の世界に踏み込む高揚感。油断がならない者達と駆け引きをしながらも、ぎりぎりの所で事態を二転三転させ前にと進む充実感。

昨日までの安全だが退屈な雑事ばかりを繰り返す平穏な暮らしよりも、己の成功を求めて駆け上がる今の瞬間を快く思い始めている。


「これこそが望んでいた戦国武士の生き方というものだ」


 目の前の帯刀した男の後ろを歩きながら、そんな呟きを少年は口にする。

その言葉が意味する本当の意味も、まだ知らぬままに。

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