第九章

 帝都西区の朝の大通りは、普段とは変わらず多くの人々の往来で賑わっている。

これから仕事場にと出かける人達。夜の仕事が終わり、今から帰宅する人達。登校中の学生に、行き交う人々に声をかける新聞売り。

まだ朝露の湿り気が残った石畳の上を、いつも通りに多くの人々がそれぞれの目的地へと向かい足早に歩いている。


 そんな中、いつも通りとは言えない歩き姿の者もいた。

清潔だが安物で色褪せた墨染めの着物をまとい、擦り減った下駄を履いている少年である。

困惑して弱り切っている情けない顔のまま、俯いて肩を落とし、とぼとぼとした足取りで歩いている。

 稲郷継守だ。

この新政府統治の時代になり十五年も経った現在においても、自身を武士なのだと信じ続け、それに相応しい振る舞いを心掛けて来た少年だ。

いつもならば顔を引き締め、その鍛え上げた肉体を誇示するかの様に堂々と胸を張り歩いているのだが、今は見る影もない。


「どうしたものだか・・・」


 その口からは、ため息と共に今朝だけで何度目になるのかも解らない同じ言葉が吐き出される。

今の継守は困惑し、混乱し、後悔をしていた。

その悩みの内容を今も少年の回りを通り過ぎて行く通行人達に聞かせたとしても、微笑ましいと思うか、さもなくば鼻で笑う様な馬鹿馬鹿しいものだ。

そんな世間ではありふれていて些細な問題だが、まだ少年である当事者にとっては深刻極まりない問題である。

 継守はある人との待ち合わせ場所に向かって足を進めながらも、その問題の元となった、昨夜の長屋での出来事を思い出していた。



 昨夜は、心斎橋凛が長屋にある継守の部屋を尋ねて来たのだ。

正確には、訪ねて来たなどと言う穏やかなものでは無く、怒鳴り込んで来たと言った方が相応しい訪問である。

夜中だというのに部屋の戸を物凄い勢いで叩きまくり、今すぐに開けろと叫んできた。

 仕方が無く継守が戸を開けると、黒髪と白い肌が印象的な長身の少女は迷わず継守に詰め寄って来る。

そして、長屋どころか近所にまで聞こえそうな大声で叫びだしたのだ。


「稲郷! や・・・やはり、お前を許す訳にはいかん!」

「どうしたのだ、心斎橋」

「どうしたもこうしたも・・・っ! お前は自分が何を言ったのか、もう忘れたのか!」

「済まないが、話が見えない。何時の話だ?」

「今日の夕刻! 蕎麦屋での話だ !」

「・・・ああ、あの事か」


 そう言えば、そんな事も有った。

この日の夕方に継元は、この心斎橋凛と二人で蕎麦屋で会っていたのだ。

会っていたとは言っても、二人が友人として会食をしていたとか、恋仲で逢瀬をしていたなどという理由では無い。

剣士として立身したいと願う者同士で共闘をすべく、その打ち合わせをしていたに過ぎない。

 だが、その席の最後で継守は、凛に向かい『君に求婚したい』と言ったのだ。そのつもりも無く。

 

 別に、継守としては凛を本気で騙そうとしていた訳では無い。

ちょっとした仕返しとか意地悪の類のもので、この美貌の少女剣士の慌てる顔が見たかっただけなのだ。

その事は、それを言った直後にこれは冗談だなのと本人に伝えてあるし、謝りもした。

だから、それだけの話であり、もう終わった話である。


 継守は、そう考えていた。だが、凛にとっては違ったようだ。

どうやら継守が帰った後も悶々と悩み続け、こんな時間になっても怒りを鎮められずに怒鳴り込んで来たのだ。

 そこまで彼女にとっては許せない事だったのかと少し驚きながらも、とりあえず継守は凛の説得を試みる。


「妙な事を口走ったのは、悪かった。それについては、明日にでも改めて謝ろう。

 だから、もうこんな時刻なのだし、今日は君も帰った方が良い。もし良ければ、送って・・・」

「また逃げるのか、卑怯者! 」

「卑怯?」

「そ、そうだ! あんな事を言った直後に『冗談だ』などと言って逃げ出すなど、男子の風上にも置けん!

 ゆ・・・勇気を出すと言ったからには最後まで貫き通してみせろ!」

「勇気・・・か」


 継守は思わず呟いた。

あの時の自分は、直後に怒りだすと思われる凛から一目散に逃げだした。それは凛が言う通りに、卑怯で勇気が無い行動だったのかも知れない。

そんな事を考える継守を、凛は怒りに赤くなりながらも恥じらいと何かを期待した眼差しで見つめてくる。

 継守は考える。

きっと凛は継守に対して、誠意を表しながらも堂々とした態度による、それこそ武人に相応しい謝罪の姿勢を見せて欲しいのだろう。

思えば、最近の自分は少し浮ついている。半年前までの自分は、冗談など言わなかった。そんな心の余裕が無かっただけだとも言えるが。

しかし、一昨日に千穂が傍に居てくれる様になってから、自分は浮かれている。調子に乗っていると言っても良いだろう。

だから、こんな軽薄な冗談など口にしてしまったのだ。

 そう考えた継守は、素直に反省し、素直に相手と向き合い、素直に謝る事にした。姿勢を正して深く頭を下げ、精一杯の誠意ある口調で謝る。

その姿勢は素直に称賛して良いものだろう。ただし、その謝罪の言葉は少しばかり素直過ぎた。


「済まない、心斎橋。君に求婚したいと言ったのは、ただの勢いだった」

「「 勢い!? 」」


 目の前の凛の言葉と、背後から聞こえる別の少女の声が重なる。

驚いて振り向いた先では、千穂が青ざめた顔で継守を見つめながら震えていた。


「継守様は・・・千穂じゃなくて、その綺麗な女の人とハッピーライフをするつもりだったのデスね」

「いや、そうじゃない!」

「でも、今、その人に継守様がプロポーズしたって言っていたのデス!」

「だから、これは冗談なんだ! 本気では無かったんだ!」

「じゃあ、継守様はジョークで女の人にプロポーズするのデスか!?

 さっき千穂に向かって『僕は君の事を誰よりも大切に想っている。心から愛しているよ、千穂』って言ったのもジョークだったのデスか!?」

「そうじゃないんだ! だから・・・って、そんな事を言ってたか?」

「やっぱり、覚えていないのデスね! きっと、継守様にとって女の子に求愛するのはホビーなのデス! とんでもないプレイボーイなのデス!」

「いや、だから・・・っ!」


 継守は頭を抱える。

確かに、千穂の言う通りだ。この様な事を軽い気持ちで言った自分は、とんでもない不埒者なのだろう。

その事については、言い訳のしようもない。どんなに自分が責められる事になろうと、それは当然なのだろう。

 だが、継守にとっては千穂こそが誰よりも大切にしたい存在だということは確かなのだ。

その事だけは、彼女に誤解されたくない。彼女に信じて貰い、安心させてあげなくてはならない。

 でも、その為に何をすべきなのかが継守には解らない。

この状態で、自分は何を言えば良いのだろう。自分は何をすれば良いのだろう。

 頭を抱える継守は、視線の先にある自分の懐の中の、ある存在に気付いた。正確には、思い出したと言うべきだろう。


 紅い珊瑚付いた銀の指輪だ。


 継守は暗闇の中で光明を見つけた様な気持ちになる。

そうだ。これが有るではないか。どうして自分は今まで、これの存在を忘れていたのだろう。

これこそが、自分が他の誰よりも千穂の事を想っているという証ではないか。

ただ純粋に継守が彼女の事を想い、彼女だけの為に、彼女を喜ばしたくて手に入れた物だ。

実際は少しばかりの下心も無かったとは言えないが、彼女へ贈ろうと思って購入した事だけは確かなのだ。

 だから、今、ここで彼女に指輪を贈ろう。

そして、継守の千穂への想いが偽りでない事を、ここで証明するのだ。


「千穂。こんな時だけれど、これを見て欲しいんだ」


 決心をした継守は懐から小箱を取り出すと千穂の目の前に置いた。

千穂は頬を膨らませがらも、素直に小箱に視線を向ける。

その視線は最初は訝しげであったが、次第に驚きに目を見開いたものに変わっていった。

やはり南蛮文化が好きで詳しい彼女には、箱の蓋を開けなくても何が入っているのかは解ってしまうのだろう。

 そんな彼女に見せる様にしながら、ゆっくりと継守は小箱の蓋を開けてみせる。


「これは、今日の昼間に買ったものだ」

「・・・ッ」


その中身の見当はついていても、それでも少女は息を呑んでしまう。


「そうだ、千穂。これは俺が君に贈りたくて、君の事を想い買った品だ」

「継守様・・・」


 たちまち少女の頬は上気し、その表情も明るくなる。

しかし、はっきりした歓びを表しつつも、その顔には微かな驚きと戸惑いの色も残っていた。

やはり、幼馴染の彼女にとっても・・・いや、幼馴染で継守を良く知る彼女だからこそ、この様な物を継守が持ち出したことが意外なのだろう。

 その声に何かの期待を込めつつも、慎重に何かを確かめる様に、ゆっくりとした口調で継守に訪ねてくる。


「あの・・・継守様」

「何だい?」

「継守様は、どの様な時に殿方が女性にリングを贈るものかを・・・それが何を意味するのか・・・知っているのデスか?」

「ああ。今日、店の人に聞いた」

「それをアンダスタンした上で、継守様は・・・このリングを・・・」

「そうだ。そのつもりで俺は君に、この指輪を贈りたいんだ」

「継守様・・・」


 少女の目に涙が浮かぶ。

だが、その涙は数刻前の怒りと哀しみによるものでは無かった。暖かい歓びの涙だ。

少女は両手で口元を覆うが、その歓びが隠れる事は無く、明るく彼女の顔を輝かせる。

涙に霞ませながらも、しっかりと相手を見つめる瞳には確かな親愛と信頼の光が宿っていた。


「継守様・・・」

「千穂・・・」


 互いに他の何よりも誰よりも大切な相手の名を呼び、熱い視線で見つめ合う二人。

その背後からは、ぼやく様な幼女の呟きが聞こえる。


「亜人領に住んでいる頃に、お隣のアリエットおばさんから聞いた事が有るぞ。

 前触れもなく男が妻や恋人に高価な贈り物をする時は、たいがい浮気とかをして後ろめた・・・むぐぅっ!」


 その言葉を言い終わるよりも先に、継守は急いで自分の皿の芋羊羹をイリスの口に押し込んだ。

見れば、イリスの前の皿は空になっている。どうやら、おやつに飢えるとろくでもない事を口走る性格の様だ。

肩で息をしながら継守が視線を向ける先では、この姿だけなら可愛らしい天狗の少女は、こちらの様子など目に入っていないといった満面の笑みで口の中の芋羊羹を堪能している。

 とりあえずは騒動の火種になりそうな天狗の子供については、文字通りに口は封じた。後は、今の事態を収拾する方法を考えるだけだ。

大丈夫。まだ、何か方法は有る。どんな状況でも、何かしらの打開策は必ず有る筈なのだ。

 そう思う継守は、諦める事無く次の解決策を考える。だが現実は、その次なる秘策を考える時間を継守に与える事は無かった。


「・・・稲郷」


 不意に継守の背後から、まるで地の底から響く怨霊の様な声が聞こえる。

振り向けば、そこには怒りに肩を震わせて立つ凛の姿が有った。


「そうか・・・そういう事か。こうやって貴様は次々と女を騙して毒牙にかけては、逃げ回っている訳か」

「いや、違うんだ! 話を聞いてくれ、心斎橋!」

「ええい、黙れ稲郷! 今すぐ表に出ろ! その性根を叩き直してくれる!」


 さながら寺の入口の武神像の様に怒れる凛は、継守の胸倉を掴むとそのまま引きずって本当に外まで出て行こうとする。

それに抵抗しながら何かを言いかける継守の背後では、再び幼馴染の少女の声が響く。


「やっぱり継守様にとっては、その綺麗な女の人こそがターゲットなのですね! 千穂はキープしているだけのハウスメイドさんだったのデスね!」

「ま、待ってくれ! 違うんだ!」

「何が違うと言うのだ! ええい、腹が立つ!! 何よりも、こんな男の言葉を真に受けて信じようとした私自身に腹が立つ!」

「良いアイデアが浮かんだのデス! まずは使用人からの二号さんポジションをゲットして、そこから千穂は下剋上の略奪愛を狙うのデス! 」

「済まない。君が何を言っているのか、本気で解らないのだが」

「解らないとは何だ、稲郷! 最初に貴様がその指輪を私に見せて、何と言ったか・・・!」

「いや、だから・・・」

「やっぱり! その指輪は本当ならば、そこの綺麗な人に贈るつもりだったのデスね! 」

「そうじゃないんだ。俺は・・・」

「なあ、そっちの三人で話しているのなら、私が最後の芋羊羹を貰っても良いか?」


 それぞれが勝手に喋っているので、もう誰が何を言っているのかも解らない。

その混迷が限界に達したかと思われた時、突如として長屋中を揺るがす大音声が響く。


「話を聞いてくれっ!!」


 見えない何かを叩き付けられた様な衝撃。そんな錯覚をすらさせる気迫の叫びが、その場の喧騒を断ち切った。

ほんの数秒前までは興奮して叫び続けていた二人の少女は、驚きに呆けた様な顔のまま身を固まらせている。

そして、その二人の少女に挟まれた場所では、一人の少年が疲れ果てた様な顔をして小さく息を吐く。

 継守としては、こんな事に猛州武術の”叫び”を使ってしまったのが、情けなくて仕方が無い。

そもそも、こんな状況を招いたのは自分の軽率さからであるのだしと自己嫌悪に陥りながらも、少年は静かに話し始める。


「まずは俺の話を聞いて欲しい。全てを正直に話そう。

 その上で二人が気に入らないと言うのなら、その時は俺の事を煮るなり焼くなり好きにしてくれればいい。

 だから、イリス。頼むから、その話の間は余計な事を言わな・・・って、どさくさで最後の芋羊羹を盗ろうとするなっ!!」

 

 その後、真夜中まで継守の少女二人に対する弁明が続く。

全ての事情を知った後、少女達は継守に制裁を加える事は無かった。少なくとも、本当に釜茹でにされたり火炙りにされたりはしていない。

ただし、理解はしても納得はしていない様子であった。千穂も凛も複雑な表情をしたまま口数が少なくなり、その夜は解散となる。

そして話が終わった後は、すぐに継守は千穂の居る部屋を追い出された。言うまでも無く、その夜は指輪も渡せずに終わった。


 そして、その翌朝にあたる今朝。

継守が河原での朝稽古から長屋に帰って来た時には、既に部屋からは千穂の姿が消えていたのだ。

慌てて千穂を探そうとした時に継守は、昨夜の夕食では三人で囲んでいた卓の上に有る一通の書き置きを見つけた。


『イリスちゃんと一緒にキツネを探しに出掛けてきます

 しばらく帰りません お食事は御自分でどうぞ御勝手に 千穂 』


 その書き置きと共に残っていたのは、小さな冷めた握り飯が一つだけであった。

ここ数日は朝稽古から帰れば、いつも千穂が暖かい食事と笑顔で迎えてくれていたというのにだ。

でも、この握り飯が有るだけでも、まだ千穂は自分の事を許してくれようとする気が有るのだと思おう。

そんな事を考えながら、継守は残された一つだけの握り飯を口にする。

その握り飯には具が入っていないからだろうか。食べていても、とても味気無い。

ほんの数日前まではこれが当たり前だったと言うのに、一人で食べる冷めた朝食は酷く寂しく虚しいものに感じられた。



 そして今、継守は凛との待ち合わせの場所に向かって歩いている。

今日は偶然にも便利屋の仕事が空いているので、朝から凛と共に剣士として立身する為の活動が出来るからだ。

 これは、継守と凛にとっては幸運だと言える。

二人は、一昨日の夜に起きた衣川署襲撃事件の犯人を追おうとしているのだ。

犯人の手がかりは時間と共に失われていくものだし、のんびりしていたら他の誰かに手柄を横取りされる事だってあり得る。

だから事件捜査に二人で動きだすのは、それが早ければ早いほど良いのは言うまでも無い。

 だから本来ならば、すぐに動ける今の状況を継守は喜んで良いのだろう。だが継守は、そんな気にはなれないでいた。


 これから会う相手は、あの心斎橋凛だ。

継守が新明館の塾生をしていた頃の心斎橋凛と言えば、周囲から孤立していた継守でさえ彼女の噂が耳に入って来るほどに、道場では有名な少女であった。

 彼女が塾長である洞現の孫娘だからだとか、飛びぬけての美人だからだとか、女の塾生そのものが珍しいからだとか、確かに有名になる理由は他にも色々と有る。

だが何よりも心斎橋凛が塾生達の注目を集めていたのは、その新入生の中では抜きんでた剣の腕と、潔癖で苛烈な性格によるものだ。

 邪な下心を抱いて彼女に言葉をかける者がいたり、直接の関わりが無くても目の前で不埒な態度をとる者がいれば、次の稽古では彼女から名指しで組手の相手をさせられ、容赦無く徹底的に叩きのめされた。その際には、相手が心斎橋家より格上とされる貴族だろうと、反逆者の子と言われる者であろうと、全くの区別は無い。

 その誰よりも勤勉で正義感の強い振る舞いは、多くの真面目な塾生達には敬意と憧憬の念を抱かせ、邪で軽薄な塾生達には大いに恐れられていた。


 その心斎橋凛に対し、どうやら昨日の継守は無自覚のまま彼女を口説く真似をしていた様なのである。

そして昨夜は、その誤解が元となり長屋にも怒鳴り込まれ、そこから更に一騒動も起こしている。

ただでさえ今は千穂の事で落ち込み気味の時だと言うのに、これから継守は、その相手と丸一日も行動を共にする予定なのだ。

 正直、想像するだけで胃が痛くなりそうである。


「どうしたものだか・・・」


 今朝だけで何度目になるかも解らない言葉が、継守の口からは漏れる。

どうしたら、千穂の機嫌が直ってくれるのだろう。どうしたら、凛からの信用を取り戻せるのだろう。

いくら継守には悪気が無かった事を理解して貰えたとは言え、二人の少女から不誠実な男だと思われているのは正直な話として辛い。


「それにしても・・・」


 ふと、継守は不可解な事に気付く。

確かに、昨日の自分が軽率で誤解をされる様な事をしてしまったのは事実なのだろう。

だが、それに対しての心斎橋凛の行動が、どうにも継守の知っている彼女の印象とは違うものの様に思えてならない。

 あの、心斎橋凛だ。

継守が知っている当時の彼女ならば、もし継守から言い寄られていると感じたら、その瞬間にでも継守を怒鳴りつけるか投げ飛ばしていただろう。

しかし昨日の凛は、大人しく継守と話していた。いや、大人しいどころか妙に上機嫌で、昔を思えば信じられない程に親しく接してくれていた気がする。

 改めて考えてみれば、おかしな話である。

そもそも現在の凛にしても、一昨日の夜に継守が訪ねて行った時や、昨日の夕方に路上で出会った時は、半年前と同じの不機嫌そうで不愛想な顔と態度だった筈だ。

昨日、凛が急に継守に対して親し気で可愛らしい姿を見せ始めたのは、確か指輪の話を始めてからだっただろうか。

そもそも継守が凛を口説こうとしていたというのが、彼女の勘違いだとしてだ。どうして、あそこまで彼女が怒る必要が有るのだろう。


「まさか・・・な」


 ふと頭の中に浮かんだ考えの、あまりの現実味の無さに継守は苦笑する。

いくら何でも、少し自惚れ過ぎだ。やはり千穂が傍に居てくれる様になった事で、自分は調子に乗っているのだろうか。

互いが道場を破門になった原因とも言える因縁の相手に、そんな感情を抱く女性などいる訳が無い。

無論、今の継守は凛を恨んでなどいない。もし千穂が居なければ、継守が凛に惹かれていたというのも有り得る話だろう。

 だが彼女は、あの心斎橋凛だ。

ただの知り合いの男の態度を何でもかんでも色恋沙汰における自分への好意に結び付けて解釈し、それに彼女が一喜一憂する姿など、継守には想像も出来ない。



 そんな浮ついた事を考えていた為だろう。

継守は、その男が自分の前に立ち塞がっている事実を、ほんの数歩の距離に近づくまで気付かなかった。

足元ばかり見ながら歩いていた継守の頭上から降る様にして、高圧的な若い男の声がかけられる。


「貴様が稲郷継守だな」

「・・・ッ」

「おい、答えろ。貴様が稲郷継守だな」

「・・・はい。そうですが、何か御用でしょうか」


 唐突に声をかけられた驚きからだろう。

継守の全身に不自然なまでの緊張が走り、思わず微かにだが身構えてしまう。

その為に相手の質問への返事も遅れ、あえて自然体で答える声が、かえって不自然な印象となる。

 そんな継守に対し、相手の男は軽く鼻を鳴らした。


「どうして、すぐに答えない。何か、やましい事でもあるのか」

「いえ。ただ自分が声をかけられるとは思っていませんでしたので、少し驚いてしまいまして」


 全身を覆う緊張は隠しきれていないが、それでも継守は大人しく返事をする。

不幸中の幸いとでも言うべきだろう。この、相手を警戒して下手に出ているのが見え見えな継守の対応も、今回に限れば不自然なものでは無い筈なのだ。

何しろ継守に声をかけてきた男は、手には六尺棒を持ち、青い詰襟の制服姿をしている。要するに、この帝都においての警官の姿をしているのだ。

そして、ここは帝都西区でも衣川署の管轄の地区であり、一昨日に殺された警察署長の蛭田が支配していたと言える地域である。

たまたま継守は凛から聞いているので蛭田が殺された事を知っているが、あの事件そのものは未だ警察からは発表されてはいない。一般の人々は、まだこの地域での蛭田による支配は続いていると思っている。

だから、この辺りの下町の者が蛭田の手下とでも言うべき警官から声をかけられれば、それなりには警戒した反応をするのも当然だと言えるのだ。

 そして、この継守の反応を相手も予想していたのだろうか。それ以上は特に追及はせずに話を始めた。


「まずは、知っているとは思うが改めて自己紹介といこう。俺の名は小吉郎。小吉郎巡査だ」

「改めて? 失礼ですが、互いに初対面だと思うのですが」

「・・・まあ、そうだな。確かに、俺達は初対面だ」


 相手の言葉の不可解さに眉をひそめながらも、継守は油断無く相手を観察する。

年齢は二十代半ば。中肉中背。特に目立った特徴は無い顔立ちだが、あえて初対面での印象を言うならば堅気の警官を名乗るには少しばかり目つきが悪い。 

武装である六尺棒を持つ姿は、それなりに様になっている。ある程度は六尺棒の扱いに慣れているのだろう。

それなりに犯人捕縛の現場に立ったことがある者なのか、もしくは棒術そのものを道場で修練を積んだ者だと思われる。

 もし、この男からこの場で襲い掛かられたとすれば、何の武器も持っていない今の継守にとっては危機と言える状況となる。

だが、いくら相手が蛭田の部下であったヤクザまがいの警官だとしても、この公衆の面前で無茶な真似は出来ないだろう。

所轄内で起こった無法行為を揉み消してくれる警察署長の蛭田は、今は居ないのだ。無論、同類の人物が後任になっているのならば話は別なのだが。

 それらの事を素早く脳裏で確認している継守に対して、小吉郎と名乗る警官は、更に自分の正体を明かしていく。


「だが、こう言えば貴様には解るだろう。一昨日の夜に衣川署で門衛をしていた者だ」

「一昨日の夜?」


 一昨日の夜といえば、蛭田が襲撃犯によって斬られた時だ。

つまり、この男こそが衣川署が襲撃された時に門衛をしていた者という事であり、大鎧の犯人との最初の遭遇者なのだろう。

 継守は、首を傾げる。そんな男が、どうして自分に名指しで声をかけてくるのだろうか。

そんな継守の態度が気に入らないとでも言いたげに、小吉郎と名乗る若い警官は露骨な舌打ちをしてみせる。


「すっとぼけやがって」

「失礼ですが、警察官殿。やはり、人違いなのでは・・・?」

「うるせえ。ごちゃごちゃ言わずに黙ってついて来い」

「・・・はい」


 大人しく継守が返事をしたのを確認すると、小吉郎は背を向けて歩き出した。

継守は一瞬だけ逃げようかとも迷ったが、仕方が無いのでついて行く事にする。

どう考えても不穏な事に巻き込まれるとしか思えないが、ここで下手に逃げれば後で更に面倒事に巻き込まれるだろう。

 相手は警察の制服を着ている。

そんな姿の者から逃げ回る自分の姿を近隣の人々に見られれば、それだけで今後の暮らしに支障が出かねない。

 それに、相手は継守の名前を知っている。

ここで逃げられても、完全に逃げおおせる訳では無い。後日に不意打ちで襲われるくらいなら、今、ここで話をつけた方が賢明だという考え方もある。


 そう気持ちの整理をつけながら歩く継守の前で、小吉郎は角を曲がり大通りから横の路地へと入って行く。

そこは裏路地とでも言うべき小路であり、大人が二人も肩を並べては歩けない様な狭い一本道だ。昼間でも薄暗く、人通りも殆ど無い。


「あの・・・警察官殿」

「誰が話しかけて良と言った。黙って歩け」

「この道を進んでも警察署へとは到着しないと思うのですが」

「ああ? だから何だってんだ」

「いえ・・・」


 威圧する小吉郎に向け大人しく従ってみせながらも、継守は記憶を確認する。

確か、ここを通り抜けた先にあるのは袋小路とでも言うべき場所にある、廃材の積まれた広めの空き地があっただけだ。

いかがわしくて表通りでは出来ない商売の店が有ったのだとか、監禁した人間に強制労働をさせる工場が有ったなどと言われているが、継守も詳しくは知らない。

ただ、かつて幾人も死人が出たと噂されている場所であり、無暗に立ち入れば祟られるとか、夜には幽霊が出ると言われる怪談の名所でもある。

 その為だろう。その空き地は未だに土地の買い手もつかずに今でも放置され、昼間でも殆ど人が寄り付かない場所である。


「なるほど・・・な」


 やっと継守には、この小吉郎という男の狙いが解って来た。

この小吉郎と言う男は、人目に触れずに喧嘩をするのには絶好の場所にまで継守を連れて行き、そこで叩きのめそうとしているのだ。

継守から力づくで何かを聞き出そうとしているのか、もしくは身柄を押さえて何者かに差し出すのか。口封じなども考えられる。

言うまでも無いのが、こんな乱暴なやり方は警察としての公式な任務では無いだろう。

 では、どうして小吉郎が非公式な方法で継守を叩きのめそうとしているのだろう。

それは、小吉郎が一般には非公開の衣川署襲撃事件について継守に話し、それへの反応を確かめようとしたところに鍵が有る。

この男は、継守が事件について何かを知っているのだと思っている。

つまり、継守と凛の間で繋がりがあり、その線から継守が事件について話を聞いているであろう事を確信しているのだ。

 継守は、今の時点で判明している人間関係を整理する。


一昨日の事件では殺人犯の警察署への侵入を許してしまい、面目が丸潰れの武芸者である小吉郎。

その本来なら一般には非公開である事件を知り、所轄には手出しが出来ない事件について嗅ぎ回ろうとする心斎橋凛。

その凛の片腕として動こうとしている、稲郷継守。


 状況を説明するのに必要な駒は、一つを除き揃っている。

小吉郎は継守を叩きのめし、そうして押さえた継守の情報なり身柄なりを誰かに渡す事で、それによる武術者として名誉挽回を狙っているのだろう。

 では今の状況を説明するのに必要な駒の、残る一つが何者かと言えば、この状況を作り出した黒幕だ。

継守を叩きのめして情報なり身柄を押さえた小吉郎が、いったい”誰に”それを差し出すのか。

こんな非公式な方法でもその手柄を認め、その者の評価を小吉郎が欲する様な立場の何者かだ。

そして、その何者かが、どうして小吉郎を使い継守から情報なり身柄を手に入れようとしているのかが解れば、今の状況を理解するのに必要な駒は揃う。

 その何者かこそが、衣川署襲撃事件について継守達の知らない何かを知っている筈だ。

小吉郎に狙われたのは、継守にとって危機であると同時に絶好の機会とも言える。

もし、この男に倒されれば、継守は多くの物を失うだろう。だが、もしこの男を継守が倒す事が出来れば、それによって継守は多くの物を得る事も出来るのだ。


「手柄首・・・か」


 気が付けば継守の口元には、小さくも不敵な笑みが浮かんでいた。

この帝国では二百年前の亜人戦争の終結を境に総督府統治の時代となり、武士が戦働きで名を上げる乱世は終わった。

その総督府統治の時代も十五年前には新政府の治世に取って代わられ、武士が世を統べる時代も終った。

もう今の帝国では戦国期の思想による猛州武士の立身は不可能なのでは無いかと、心の何処かでは諦めていた。


「だが・・・なかなか、どうして」


 継守は、この先に待ち構える戦場を思い浮かべる。

棒術使いが実力を発揮できない狭い路地を抜けた先は、相手を逃がさない為には出入り口を塞ぐしかない袋小路の空き地だ。

そこは大小の廃材が多く積まれながらも見晴らしは悪くなく、複数人で待ち伏せをするにも隠れようが無い。

 相手の倒し方ならば、無数に思い付く。そして、もしもの時に退くべき判断基準と、その時の逃走方法も。

小難しい規則や常識に縛られた試合でならばともかく、本当の何でもありの実戦ならば、この稲郷継守の独壇場だ。

地元での剣術勝負では負け知らずだった継守は緊張と興奮に身を震わせながらも、そんな事を考えていた。

 少年は死地に足を踏み入れる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る