第八章

 早春の夜。

帝都西区の下町にある長屋では、稲郷継守という名の少年が新たなる決意を胸に抱いていた。

 継守は明日から、多忙を極める日々を送る事になる。

妖怪退治屋とは名ばかりの便利屋の仕事に、継守自身が剣の腕で立身しようというという活動。そこに、キツネという妖怪を探す手伝いも加わった。

暫くは、寝る間も惜しんで帝都中を走り回る事になるのかも知れない。

 だが、そうであっても。いや、そうだからこそと言うべきだろうか。継守には、今夜中にやっておきたい事が有った。


 最愛の少女である千穂に、この指輪を贈ろう。


 今、継守の懐には小さな珊瑚の付いた銀色の指輪が有る。

この指輪は、昼間に露店の女主人から女の子が喜ぶ物だと聞かされて購入したものだ。

 だから、これを幼馴染にして元許嫁の彼女に贈ろうと思う。

これまでの詫びと、これからへの感謝。ただ昼間の市で買った土産物を渡して、彼女の喜ぶ顔が見たい。それだけだ。

そう。ただそれだけの筈なのに継守は自分でも理由の解らない緊張から、なかなか言い出せないでいた。

 ただの土産物なら幼い頃から何度も互いに渡し合っている筈なのに、今更になって鼓動が早まり喉が渇く。

何度も懐から出そうとしては、いまいち踏ん切りがつかずに戻してしまう。

 そして、まだその時では無いと心の中で同じ言葉を繰り替えすが、では、何時が”その時”なのかは自分でもはっきりしない。

 

 そんな葛藤から落ち着こうと、目の前に置かれた湯呑みの茶を一口飲む。

食後のお茶として、千穂が淹れてくれたものだ。今、その千穂は戸棚から何かを取り出そうとしている。

 そして夕食に使われた卓の上に有るのは、それぞれ三人の湯呑みと、赤べこが一つ。

この張り子で作られた赤い牛の置物は、どうやらイリスの中では心の琴線に触れる一品だった様だ。

勝手に箪笥の上から卓に持って来ると、しきりと指で突いて、胴体から糸で吊るされた牛の首を揺らし続けている。

 卓の上に顎を乗せ無心に牛の置物に見入っている幼女の姿を見ながら、継守は自分の中で一つの判断をする。


「(とりあえずは・・・)」


 千穂に指輪を渡すのは、この自称大魔道士の天狗の子供が寝てからにしよう。

理由は自分でも解らないが、この子供の前で指輪を渡すのは避けた方が良い。そんな予感がする。

 そんな事を考えている継守の目の前に、小さな重箱が置かれた。今、千穂が戸棚にしまって有ったのを出して来た物だ。


「・・・これは?」

「食後のデザートなのデス。もう千穂とイリスちゃんはティータイムに食べているので、これは継守様の分なのデス」


 そう言いながら千穂は、小さな重箱の蓋を開ける。その白く柔らかそうな手を見つめながら、継守は思った。

自分の男の手とは全く違うこの女の子らしい手には、きっと紅い珊瑚の指輪は良く似合うだろう。

やはり、あの指輪は今夜中には千穂に渡すべきだ。そう改めて心に誓おうとした継守の思考を、舌足らずな幼い少女の声が中断する。


「あ~っ!! まだ、芋羊羹が残っているではないか~!!」


 急に大声で叫びながら卓の上に身を乗り出す幼女の姿。そして、声の主は駄々をこねる様にして猛然と千穂に食ってかかっていった。

言うまでも無く、この声の主は自称大魔道士の天狗の少女であるイリスだ。


「夕方に千穂は、もう芋羊羹は残って無いって言ってたのに! 話が違うではないか!」

「これは残っていた訳では無いのデス! 最初から継守様の分なのデス!」

「ならば何で継守のだけ四つも有るのだ! 私だって三つしか食べてないのに!」

「それを言ったら、夕方にイリスちゃんに自分の分をあげたから千穂だって今日は二つしか食べてないのデス! イリスちゃんだけがプアーな訳では無いのデス!」

「これは、不平等だ! 階級差別だ! この帝国では新政府によって撤廃された筈の、過去の悪しき慣習だ! 

 さあ、不当に占有した富を差し出せ! 具体的には、芋羊羹をよこせ!」

「それはインポッシブルな相談なのデス! これは継守様の為にキープしていた物で、不当な物では無いのデス! 」

「ほう。では、隠していた事そのものは認めるのだな? 虚偽に対する慰謝料を要求する! 芋羊羹をよこせ! 」


 そのままイリスと千穂が延々と言い合いを続けそうなので、仕方が無く継守は止める事にした。

軽く千穂の肩を叩いて退かせると、落ち着かせようと出来るだけ穏やかに言い聞かせる。


「千穂。済まないが、一つだけイリスに分けてあげてくれないか。

 それと、君も一つ食べると良い。君だって、これは好物だろう?」

「でも・・・・」


 まだ少し不満気な顔の幼馴染に、どうしたのかと継守は優しい表情で促す。


「やっぱり・・・・、ちょっとだけ千穂は悔しいのデス」

「悔しい?」

「継守様は、千穂が作った芋羊羹はノーサンキューなのデスか?」

「いや、そうじゃない。俺も千穂の作った芋羊羹は好物だ。でも、今は三人で食べたい気分なんだ。

 それに、実は夕方に会った人との付き合いで蕎麦屋に行っていて、少し腹も苦し・・・」

「千穂、早く芋羊羹を取り分けてくれ!」


 継守の言葉を遮り、嬉しさに瞳を輝かしたイリスが待ちきれないと急かして来る。

そんなイリスの姿に千穂は継守と苦笑を交わすと、改めて三つの小皿に芋羊羹を取り分け、それぞれの席の前に置いた。

その芋羊羹が自分の前に置かれた途端、イリスは跳び付く様にして食べ始める。

しかし、その勢いとは対照的に皿の上の芋羊羹を細かく楊枝で切り分けては、その小さい欠片を一つづつ口に運んでいる。

どうやら、たった一つの小さい芋羊羹を、出来るだけ時間をかけて楽む為の作戦らしい。


 そんな至福の笑みで夢中になって芋羊羹を食べるイリスの姿を見ていたら、ふと気づいた時には継守の顔にも柔らかい笑みが浮かんでいた。

継守は思う。今までの普段の自分ならば、近所の子供達が長屋に来た時に駄菓子をあげていても、こんな気持ちには成る事が無かった。

今、こうして穏やかで微笑ましい気分なのは、今までと何が違うのだろう。

この、姿だけならば可愛らしい天狗の少女の無心で無邪気な食べっぷりが、それだけ見ていて気持ちの良いものだからなのか。

それとも、やはり千穂が傍に居てくれるという事での、心の充実が有ればこその余裕からなのか。

 そんな事を考えながら継守は、千穂が自分の分の皿を置いてくれに隣に来た時に小声で話しかけた。


「子供が居るというもの、悪くないものだな」

「・・・」


 その、継守にとっては何気ない言葉に対し、千穂は俯き沈黙をしてしまう。

継守が不審に思い再び声をかけようかと思った時、千穂からの言葉が返って来た。


「継守様は・・・子供が欲しいのですか?」


 最近のよく耳にする、わざとらしいカタコトでは無い。柔らかく澄んだ、落ち着いた声音だ。


「千穂は・・・継守様の子供が欲しいです」


 その慎ましやかながらも相手への思慕の熱を含んだ声に、訳も無く継守の鼓動は早まる。

この突然の少女の変化に、継守は不思議と違和感を感じなかった。むしろ、何処か懐かしさすら感じる。

そう。これは、かつて二人が互いを結ばれるべき男女なのだと信じ、その想いを自然なものとして確かめ合っていた頃の喋り方だ。

懐かしい光景が脳裏に蘇ると共に、あの頃の毎日の様に少女の事だけを想い、狂おしいほどにその全てを求めていた頃の想いが継守の胸中に甦る。

 あの頃と変わらぬ想いを抱く少女は、その柔らかい肢体の熱を感じるほどに身を寄せ、甘く蠱惑的な声で耳元に囁いてきた。


「千穂は、全てを継守様にお捧げします」


 切なそうに震えながらも、僅かな恥じらいと少し甘えるような響き。

その熱く湿った吐息を耳元に感じた時、継守の体もまた熱を帯びる。

まるで熱病に侵されたように頭は霞み、その全身が己の鼓動を感じるほどに熱く火照る。

気が付けば継守は、最愛の少女を胸に抱く形で畳の上に仰向けに身を横たえていた。

 喘ぐ様にして、継守は己の胸に抱く少女の名を呼ぶ。


 「千穂・・・」


 それに少女が、震える声で答える。


「・・はい、継守様」

 

 言葉と共に少女の吐息が胸元にかかり、その熱と湿り気を感じる。

早鐘の様に鳴る鼓動と、焦燥感にも似た胸をかきたてる息苦しさ。継守は、自分の身体が雄として反応してしまっている事に気付いた。

 この大切な少女に、こんな事をしてしまって本当に良いのか。そう自問しながらも気持ちとは裏腹に、己の腕は力の限りに少女を強く抱きしめてしまう。

理性を蕩かす、甘い蜜の様な香り。互いの服を通しても解る、華奢で繊細でありながらもそれが確かに女性だと感じさせる、少女の女として成育された肢体の感触。

 もう、止まれない。止まれる訳がない。今すぐにでも、この少女の身も心も自分のものにしてしまいたい。 

その激情に流されそうになる寸前に、継守は小さな発見をする。腕の中の少女からも、小さいながらも早まる鼓動と、小さな身の震えが伝わってきていた。

継守は理解する。この小さな雛鳥の様に身を震わす少女もまた自分と同じ様に、これからの事への緊張と期待で身を震わせているのだ。

その事に気付いた途端に、少女への愛おしさが前にも増して込み上げてくる。

だから今まで乱暴に力一杯抱きしめていた腕の力を緩め、相手を安心させる様に包み込む抱擁へと変えた。

 そして、己も緊張と昂りに声に震わせながら、それでも精一杯に優しく語り掛ける。


「千穂・・・」

「・・・はい」

「本当に・・・良いのか?」


 その問いに、少女の体は小さく身じろぎする。

しかし、すぐにその熱く火照る肢体を精一杯に継守に押し付けるようにして、緊張と恥じらい、そして微かな歓びに震える声で答えた。


「はい。ずっと昔の子供の頃から・・・・覚悟は出来ています」

「・・・そうか」


 愛しむ様に抱きしめながら、何度でも、その何ものにも代え難い少女の名を呼ぶ。


「千穂・・・」

「なあ、食べないのなら私が芋羊羹を貰ってしまっても良いか?」



 天狗の子供が居る事を忘れていた。


 我に返った継守が驚いて視線を上げると、声の主であるイリスの前の皿は既に空になっていた。

そしてイリスの物欲しそうな視線が、まだ手付かずの芋羊羹が乗った継守と千穂の二枚の皿の上に熱く注がれている。


 継守は千穂の肩に手を置き、ゆっくりとその身を離して起こさせる。

自身も身を起こすと座布団の上に戻り、姿勢を正して軽く咳払いをした。

 継守は心の中で猛省する。

一瞬、本当に押し倒してしまいそうになった。自分は、まだ剣士として一人前では無く、千穂の父である惣右衛門殿から一年前の出奔の許しも得ていないのにだ。

今、ここで最愛の少女を抱いてしまうのは簡単だ。そして、それは継守自身が抱く願望でもある。

だが、それは一歩間違えれば彼女の人生を不幸なものにしてしまいかねない事であり、その場の勢いだけでするのは無責任な事なのだ。

自分には、この最愛の少女を幸せにする責任が有る。いや、責務などという物ではなく、自身の心からの願いだ。だから、今は軽率な事は出来ない。

 継守は、そう己に言い聞かせる。自分の軽はずみな行動で大切な幼馴染の少女を汚したり傷付けてはならないと、心の中で自制を誓う。

実は先刻は、どさくさで千穂の方から継守を押し倒していたのだという事実に気づいていない継守は、そんな事を生真面目に考えていた。


 深刻な顔で悶々と悩む継守の目の前では、千穂がイリスに向かい何かを言い聞かせている。


「イリスちゃんには、千穂の分の芋羊羹をあげるのデス。だから、暫くはビー・クワイエットなのデス」

「うん、解った! 」


 再び満面の笑みで芋羊羹を食べ始めるイリス。それを優しい笑みで見つめる千穂。

その無邪気な笑みのまま振り返ると、千穂は継守に向けて楽し気に話しかけてくる。


「さあ、継守様。お邪魔虫も黙らせたことだし、今からコンティニューなのデス」

「こんてぃ・・・え?」

「ハッピーライフなのデ~ス!」


 今度は流石に継守も、千穂の方から自分の胸に飛び込んで来ている事に気付いた。

驚きつつも思わず、少女を抱きとめてしまう。再び腕の中に感じる、熱く火照った少女の肌の感触。

 その誘惑に流されそうになるも、継守は今度は何とか思いとどまれた。

それが出来たのは、千穂の方から擦り寄って来ているという事実に気付いての驚きからなのか、ほんの今さっき確認したばかりの自身の決意によるものなのか。

 継守は自身に言い聞かせる。

とにかく、落ち着こう。今は、こんな事をして良い状況では無い。子供だって見ているのだし。

そうだ。子供が見ている前でする様な事では無いではないか。とは言っても、この子は自分達の子供では無いのだが。

自分達の子供は今から作るのであって、目の前の子供は自分達の子供では無い。だから、早く自分達の子供を作らなくては。

幸いな事に、千穂もその気になっている。これは、絶好の機会だ。さあ、今すぐ・・・・って、自分は何を考えている!?

 邪念を払う様に首を振ると、継守は何とか抑えた声で腕の中の上機嫌な少女に語りかける。


「千穂・・・」

「はい、継守様」

「やはり・・・こんな事は、するべきでは無いと思うんだ」

「継守・・・様? 」


 千穂の声が戸惑いに揺れ、微かな落胆に沈んだ低い声で訪ねて来た。


「継守様は、こんな事をするのはお嫌いなのですか?」

「いや・・・そうじゃない」

「じゃあ、こんな事をしたがる千穂はお嫌いなのですか?」

「そうじゃない」

「じゃあ・・・じゃあ、もう千穂には飽きてしまったのですか!?」

「そうじゃないんだ!」


 継守が何かを振り切る様に大声を出すと、千穂は腕の中で小さく身をすくませる。

少女を怯えさせてしまった自分の未熟さを悔いながら、継守は出来るだけ優しい声で話しかける。


「済まない、大きな声を出してしまって。

 ただ、これだけは言おう。俺は、他の誰よりも君の事を大切に想っている。そして、俺だって・・・本当ならば、今すぐにでも君と契りを結びたい」

「じゃあ、どうして・・・」

「君を大切に思うからこそ・・・だ。これでは、納得して貰えないか?」

「その言い方は、ずるいです」


幼馴染の少女は、小さく口を尖らせる。


「千穂は、継守様の事を心から信じています。でも・・・やっぱり、証が欲しのです」

「・・・証?」

「そうです。自分は確かに継守様に愛されていると。他の誰よりも大切に思われていると。そう信じられる・・・何かの形が欲しいのです」

「信じられる形・・・か」


 継守の口元に、困った様な苦い笑みが浮かぶ。

自分の言葉を信用してくれないのかと言いたい気持ちもあるが、これについては何も言えない。

ほんの一年前にも継守は、千穂には何の相談もせずに一人で故郷を飛び出し、それによって彼女を不安にさせ少なからぬ苦労もかけているのだ。

それを簡単に忘れてくれと言うのは、流石に都合の良い話だろう。こればかりは、継守自身が時間をかけて誠意を見せ続けるしか無いのだ。


「千穂」

「・・・はい」

「今は、こうして君を抱き締めて言葉を並べる事しか出来ない。だが、だからこそ誓って言おう。

 俺は今度こそ絶対に君を裏切らない。そして、俺が本当に心から大切に思う女性は君だけだ」

「継守様・・・」

「そして、これも誓って言おう。俺は一生をかけてでも、君を幸せにしてみせる」


 継守の精一杯の誠意の込めての言葉に対し、その余韻を確かめるような沈黙が流れる。

その長いのか短いのかすら解らない時間が過ぎた時、それに応える千穂の声は微かに震えていた。


「本当に・・・本当に千穂は、継守様を信じて良いのですね」

「ああ、信じてくれ。俺にとって君は、他の誰よりも・・・・」

「稲郷!! 今すぐ、ここを開けろ!! やはり、貴様を許す訳にはいかん!!」


 唐突に鳴り響く、何者かが物凄い勢いでこの部屋の戸を叩きまくる音。

そして、その音にも負けない大声で誰かが戸の外側で叫んでいる。

夜中の長屋中に響き渡る、その殴り込みでもかけて来たかの様な怒りの声は、継守にとっては聞き覚えのある人物のものであった。


「・・・心斎橋?」


 どういう訳か、今夜は会話を途中で誰かに遮られる事が多い。

そんな呑気な事を思いながらも、継守は仕方が無いので部屋の戸を開けに立ち上がった。その直後の自分に、頭を抱える様な難題が降りかかる事も知らずに。

それは翌日から起こる事件の数々と比べれば些細な出来事ではあったが、年頃の少年にとっては、まるでそれが世界の危機かの様な深刻で悩み深い問題でもあった。

 少年は立ち上がり、事件の扉を開けてしまう。それが何を己に招き入れるかの自覚も無く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る