第七章
夕暮れと呼ぶには、少し遅い時刻。
西の空に僅かな夕日の残光が赤く差し、空の殆どが藍色に染まり小さく星々が輝き出る頃。
帝都西区にある長屋の一室では、稲郷継守の怪訝そうな声が響く。
「天狗が訪ねて来ただって?」
「はい。その天狗の子のファーストネームは、イリスちゃんなのデス。とってもプリティーな女の子なのデス」
半刻前に凛と蕎麦屋で別れてから、ようやく千穂の待っている長屋に帰って来て最初に聞いたのが、この話である。
ほんの数刻前まで、深夜の警察署に戦国時代の鎧武者が表れて八面六臂の大立ち回りをしたという信じ難い話に付き合わされていたばかりなのに、
今度はこの長屋に天狗が現れたという妖怪目撃談を聞かされているのだ。思わず、顔をしかめたくもなる。
ちなみに天狗とは、二百年前の亜人戦争によって帝国から姿を消したと言われる亜人(もしくは鬼族)と呼ばれる者達の内の一種族だ。
だが、帝国に住む殆どの者にとっては、昔話に登場する大妖怪という印象の方が強いであろう。
実際に、天狗は神通力と呼ばれる不思議な力を使う者として、帝国各地の民間伝承に幾度も登場する。
天狗によって悪い妖怪が退治された話や、逆に高僧の説法によって天狗が改心をした話などは、それこそ子供に聞かせる童話としては定番である。
それ以外にも、歴史上の偉人が実は幼少期に天狗の元で修行をしていて、その事により人並み外れた能力を得ていたなどという逸話も幾つも存在する。
その天狗が、今日の昼間に妖怪退治屋毘沙門庵への依頼主としてとして、この長屋に現れたと言うのだ。
どうして今日はこうも女の子の怪談話に付き合わされるのだろうと内心でぼやきつつ、継守は昼間にあったという出来事について大人しく聞く事にした。
千穂の話を要約すると、こうだ。
昼間に妖怪退治屋である毘沙門庵に依頼をしようと訪ねて来たのは、自称大魔道士の天狗の女の子で名前はイリス・グルートン。
その子は”キツネ”と呼ばれる妖怪を探す為に踏破不能と言われる竜骨山脈を超え、この帝都に辿り着いたという事だ。
ちなみに、その探している”キツネ”は人間に憑依して悪事をさせる悪い妖怪なのであり、その悪い妖怪を捕まえる為にイリスは独りで旅をしているらしい。
そんな話をしながらも千穂は、土間にある小さな釜土の台所で手際良く夕食を作っている。
既に飯は炊けていて、おかずも温め直すだけらしく、すぐに夕食の支度は出来上がった。
話をしながらも盆に乗せて渡された食器を卓に並べようとした時、継守にはある事に気付いた。
「千穂。どうして食器を三人分も用意してある。今夜はこれから客人でも来る予定なのか? 」
「その食器は、今、話したばかりのイリスちゃんの分なのデス」
「その子は、ここで夕食を食べるつもりなのか?」
「はい。イリスちゃんは暫く帝都に滞在するつもりだから、この長屋にホームステイするのだそうデス。
今、隣の空いていた部屋をゲストルーム代わりにして休んで貰っているので、今からディナーだと呼んで来るデス」
「千穂・・・」
継守は幼馴染の少女の両肩に手を置くと相手の目を見据え、ゆっくりとした優しい口調で語り出した。
君は知らないだろうが、この帝都には色々な人間が居る。勿論、善人も多く居るが、そうでない者も少なからず居る。
そして中には、君を騙して利用しようとする者だって居る。それどころか、もっと酷い事をしようとする者だって居る筈なんだ。
だから、そう簡単に人の話を信じてはいけない。
無論、人を信じる事は素晴らしい事だ。だが、ちゃんと相手を見極め、その人が信用に足るかを見極めてからの話だ。
そう継守は、心から大切に思う幼馴染の少女に言い聞かせた。
継守は思う。
この無垢な少女に世の中の醜い部分を教える事は、本当に心苦しい。
だが、そんな清らかな少女を守ろうと思えばこそ、これは避けては通れない道なのだ。
それと同時に、猛省しなくてはいけない。
この都会の荒波を知らない純粋な少女をたった一人で長屋に留守番させてしまった事は、あまりにも軽率だった。
そうだ。自分が己の全てを賭けてでも護るべきだと思っている少女は、あまりにも純粋過ぎる。
お菓子目当てで来た子供の作り話を真に受けて、そう信じきったまま子供に空いていた部屋まで受け渡し、食事まで出すというのだ。
きっと今頃は、その家出でもして来たのであろう子供からは、千穂はいいカモだとでも思われている事だろう。
継守は、心から大切に思う幼馴染の少女を本気で心配した。
この、自分にとって何ものにも代え難い元許嫁であり現在は恋人とでも言うべき少女の事だけは、何が有っても自分が護らなくてはと決心する。
その少女が、実は密かに継守に対して夜這いをかけて既成事実を作る計画をしているなどとは欠片も知らない継守は、この清らかな少女の心も体も絶対に誰にも汚させないと心に誓った。
不意に、そんな継守の決意と葛藤の入り混じった思考を中断させる存在が視界を横切る。
その存在は、さも当然の顔をして断りも無く部屋に上がり込むと、そのまま夕食の支度がされている卓へと向かった。
そして卓の上座に用意されていた座布団三枚重ねの貴賓席に我が物顔で座ると、千穂と継守に向けて尊大な口調ながらも舌足らずな幼女の声で語り出す。
「お腹が空いて待ちくたびれている所に良い匂いがしてきたから、もう我慢できずに来てしまったぞ。さあ、早く夕食にしようではないか」
尊大なのは口調だけで、言葉の内容も子供のそれである。ちなみに背格好や顔立ちも、完全に子供にしか見えない。
その、精一杯に大人ぶる小さな子供にしか見えない存在に対し、継守は呆けた顔で相手を見つめ続ける事しか出来なかった。
別に、その子の可愛らしさに一目惚れをしたとか、その子の着ている見た事も無い服装に目を奪われたなどという事は無い。
それとは別の驚きから、目を丸くして棒立ちになってしまったのだ。
輝く白銀の髪に、翡翠色の瞳。その髪の間からピンと伸びる、先の尖った小さな耳。
身にまとう服装は帝国風(和装)とも南蛮風(洋装)とも全く違う、明らかにどちらとも異なる文化のものである。
亜人族だ。
かつて帝国においては鬼族と呼ばれ、二百年前の亜人戦争によって帝国全土から駆逐されたと言われている者達である。
まさか本当に千穂が話していた通りに亜人である天狗が来ていると思わなかった継守は、完全に言葉を失う。
そんな継守の視線に気づいたのであろう。三枚重ねの座布団の上に座る小さな天狗は、継守に視線を移すと話しかけて来た。
「ふむ。お前には、まだ自己紹介をしていなかったな。我が名はイリス・グルートン。大魔道士イリス・グルートンだ。
もう気付いている様だが、”森の民”である。この帝国では天狗と呼ばれ、南蛮ではエルフと呼ばれる存在だ。
それで、お前が稲郷継守だな。千穂から話は聞いている。なんでも、『毘沙門庵の鬼斬り継守』と名乗っているそうでは無いか」
本物の天狗と思われる少女から声をかけられて、ようやく継守は我に返る。
どうやら千穂の話は本当だったらしいと、ようやく理解した。彼女を疑ってしまった事を心の中で謝りつつも、まずは目の前の天狗に返事をする事にした。
千穂の話を信じるのならば、この天狗の少女も一応は毘沙門庵の客である事になる。失礼の無い様にしなくてはならない。
「はい、自分が稲郷です。でも、『鬼斬り継守』という名乗りは・・・」
「ああ、それについては千穂から聞いている。実際には鬼族こと亜人を斬った事は無いらしいじゃないか。
だが、剣の腕については確からしいな。頼りにさせて貰うぞ」
「恐れ入ります」
「とりあえず、これから暫くの間、私はこの長屋で世話になる予定だ。よろしく頼む」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「さて。挨拶も終わった事だし、すぐに夕食にしよう。千穂、今夜のおかずは何だ?」
天狗の少女は一方的に話を初めてから終わらせると、もう継守には興味を失ったようだ。
座布団の上に座ったままで、そわそわと身を揺すりながら小さく背伸びをし、千穂が用意している夕食の内容にばかり関心がいっている。
そんなイリスの様子に継守と千穂が苦笑しながらも席に着き、ささやかな三人での夕食が始まった。
その席で食事をしながらも、イリスは今回の依頼である”キツネ探し”について語り続ける。
「お前達も『狐憑き』という言葉くらいは知っているだろう? ある日、唐突に人の人格が変わってしまい悪事を働くと言われる、あれだ。
私が探しているのは、まさしく、その人に憑いて悪さをさせるというキツネなのだ。
だが、誤解しないで欲しい。あくまでキツネ達は人に力を与えるだけで、彼ら自身には悪事を働こうなどという意志は無い。
『狐憑き』によって成される悪事の全ては、人がキツネによって与えられた怪異の力によって欲望を掻き立てられた事による、人が自ら招いた災厄なのだ。
ん? どうして私が、そんな事を知っているかだって?
よくぞ聞いてくれた! これは父上と私だけの秘密なのだが、お前達だけに特別に教えてやろう!
実はキツネこそが、遥かなる太古にこの大陸に栄えた古代文明人が遺した霊体兵器であり、それを古代遺跡から発掘して復活させたのが我が父であるエレファン・グルートンなのだ!
そして私こそが、偉大なる大魔導士エレファン・グルートンの一人娘にして唯一最後の弟子、大魔道士イリス・グルートンなのである!
ん? 何だと? お前達は『こだいじん』とか『れいたいへいき』という言葉が解らないのか。
そもそも『だいまどうし』と言われても何がどう凄いのか解らないだと?
よし! 仕方が無い! これも特別だが、お前達だけに・・・・」
こんな調子でのイリスの話が、食事の間も延々と続いた。
継守にとってイリスの話は正直なところ、普段から近所の子供達に聞かされている自作怪談話と何ら変わらないものに聞こえる。
だからだろう。継守の頭の中にはイリスの話の内容は全くと言って良いほどに入って来ず、その殆どが右から左に素通りしていく。
そんな調子で途中からは話半分に聞き流し始めた継守に代わり、千穂は熱心にイリスの話に聞き入っていた。
このイリスの持ち込んだ文字通りに怪しげな怪談話に対し、真剣な態度で聞き続け途中で質問まで挟んでいる。
そんな聞き手の態度が気に入ったのだろうか。イリスの方も千穂の方ばかり向いて嬉々として語り続けた。
その頬は上気し、キラキラと瞳を輝かせ、それは自分が考えたばかりの自作怪談話を誰かに聞かせるのが楽しくて仕方が無い時の、子供の姿そのものである。
「千穂、礼を言うぞ。この帝都に来てから今まで幾人もの人間にこの話をして来たが、ここまで真面目に話を聞いてくれたのはお前が始めてだ。
他の連中はいくら私が熱心にキツネの説明をしても『それ、お嬢ちゃんが考えたお話なの? 凄いね~』などと言って頭を撫でながら飴玉を渡して来る始末だ。
この大魔道士イリス・グルートンに対してだぞ!! 馬鹿にしている!! ちなみに貰ったのは、べっ甲飴と黒糖飴だ!! どっちも、すっごく美味しかった!!」
真剣に話していたかと思えば急に怒り出し、その直後は満面の笑みである。この辺りの性質は、人間の子供も天狗の子供も変わらない様だ。
そんな調子でイリスの話は続いて行き、今はイリスがキツネ探しの旅に出た理由に話が差し掛かっている。
イリスの話によると、こうだ。
三十年前にイリスの父である大魔導士エレファン・グルートン氏が急死し、その時に彼が保管していた九体のキツネが脱走した。
そして、そのキツネ達によって引き起こされるであろう災厄から人々を守る為、キツネ達を回収すべく大魔道士イリス・グルートンは独り大陸中を巡る旅に出る。
その旅は二〇年を超える歳月に及び、その道中では暴虐を働く傭兵王国やら悪の秘密結社など次々と現れる敵との死闘を繰り返し、その全てに大魔道士イリス・グリートンは勝利をして来た。
もう継守には、何処から何を指摘すれば良いのかすら解らない。でも、そんな法螺話に対しても不思議と不快感は無かった。
幼い頃に自分が強い正義の味方になって悪を倒しまくる妄想をするのは、男の子も女の子も同じなのだなと、そんな事を穏やかな気持ちで考える。
そして、このイリスという少女が帝都に来た本当の事情も、何となくだが解って来た。
要するに、このイリスという天狗の子供は”不思議な物語”が大好きなのだ。そして、この帝都にはどういう理由か妖怪話や幽霊話が溢れている。
きっと、そんな噂話の幾つかが人々の間を伝わり、亜人領に住むイリスの所にまで届いたのだと思われる。
そして、このイリスという子は噂の妖怪や幽霊を自分の目で見てみたくて、はるばる帝都まで旅をして来たのだろう。
馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばして良い話なのだろうが、そういう気持ちには不思議と成れなかった。
誰よりも強い自分を夢に見て、今いる所から何処か遠くへと旅立ちたくなる気持ちは、ほんの一年前の継守も抱いていた。
いや。今からでも剣士として立身しようとしている自分は、まだ夢から醒めていない愚か者なのかも知れない。
「それにしても・・・」
思わず、イリスを見つめながら継守は呟いてしまう。
妖怪を一目でも見たくて帝都まで旅をして来たのが、本人こそが妖怪の様な存在である天狗の少女だというのは、皮肉とでも言うべきなのだろうか。
そんな事を考える継守の視線にも気付かずに、イリスはパタパタと手を動かして何かの身振りをしながら夢中になって話を続けている。
その姿を見ていると、自分が伝え聞いていた天狗という種族の印象が、いかに人々の間で大げさに膨らんでいった物なのかを実感せざるを得ない。
継守の知っている天狗とはあくまで、この帝国にも二百年前までは少数ながら住んでいた亜人の内の一種族だ。
温暖で空気の良い森の奥で幾つかの部族に分かれて居を構える、高い知能を持ち温厚な性格をした一族であったと聞いている。
滅多な事では人間の前には姿を現さないし、他種族との争いも好まない。ただし、彼らの縄張りを荒らす者がいれば話は別である。
一度でも敵と見なした相手が森に足を踏み入れれば、彼らは容赦無く侵入者に襲い掛かり、執拗で徹底的な殲滅をする。
その際に天狗が使うと言われているのが、神通力だ。
いわゆる魔術とか妖術とか法術などと呼ばれるものと同じ、不思議な力である。
その力は強大であり、一人の神通力を使える天狗の兵が居れば、百人の人間の兵士を一瞬で殺戮できたなどとも伝えられている。
実際、二百年程前の亜人戦争においては、当時の総督府軍が十万の兵で天狗の住む森に幾度も攻め寄せたが、たった三百人の天狗の兵によって幾度も敗走させられたという記録も有る。
ちなみに、その亜人戦争を境に帝国全土から姿を消した天狗達だが、彼らは直接の戦いでは一度も人間に負けた事が無い。
一年半にわたり攻めあぐねた総督府軍が彼らの住む森を彼らごと焼き払おうと決定した時、その決行前夜に突如として帝国全土から全ての天狗が姿を消したのだ。
彼らからすれば、人間達が秘密裏に計画している作戦を知る事も、その人間達に気付かれる事無く帝国全土を移動する事も、元から容易い事であったのだ。
と、結局は昔話に登場する大妖怪の話と大差が無いのだが、これについては継守は別の解釈をしている。
継守が考えるに、天狗達は当時の総督府軍側の人間達が知らない強力な兵器を保有していたのだろう。思うに、大型の投石機や大砲などだ。
そして、その兵器の威力を目の前にした当時の人々は、自分達には理解出来ない兵器の威力を恐れるあまり、天狗の力を大げさに伝えて回ったのだ。
事実、この帝国に鉄砲が伝来したという約三百年前にも似た様な事はあった。
鉄砲の威力を目の前で見せられた当時の人々は、それを南蛮人の魔術の力なのだと思ったらしい。
無論、あくまで鉄砲は鉄砲だ。鉄の筒の中で火薬を爆発させて中の鉛玉を飛ばすという装置であり、それ以上でもそれ以下でも無い。
だが、それの理解が出来ない人々にとっては、それは妖術であり魔術であり奇跡なのだ。
人の噂と言うのは、そんなものだ。事実ではあっても真実ではない。
それを伝える者の理解が出来る範囲の内容で話をし、受け取る者が理解できる範囲で解釈される。
その上、それを伝える者の思い込みで話の内容が修正されたり、話を面白くしようとして創作を織り交ぜる事すらある。
だから、人から伝え聞いた話というのは、そう簡単には全てを信じてはいけない。その何処までが信用して良いのかを自らが見極める必要がある。
そんな事を考えながら、継守は目の前で無邪気に妖怪話を語るイリスを見つめる。
もし、昔話に登場する天狗の逸話や、目の前で語られるイリスの冒険譚を全て信じるのなら、この小さな天狗の子供は強大な神通力の持ち主という事になる。
それは、もしイリスがその気になれば、今の一瞬だけで継守や千穂をただの肉片に変える事すら可能だという事を意味する。
「まさか・・・な」
継守の顔に、一瞬だが警戒の色が浮かんだ。
噂とは真実ではない。だが、その全てが根も葉もない作り話ばかりとも限らない。
もしイリスの話の一部を信じるのなら、この目の前の天狗の少女は一人で亜人領から帝都まで旅をして来た事となる。
その道中は、決して安全なものばかりだったとも限らないだろう。
もしかしたらイリスが語る冒険譚の中での勝利も、実際に危険な目にあったのを何かしらの護身具で相手を撃退した事が有り、その話を元にしているのかも知れない。
だとすれば、目の前の天狗の少女は、子供でも扱える物でありながらも強力な殺傷力をもった護身具を所持している事になる。
万が一の事を考えれば、それを確認する必要は有るのかもしれない。
そんな継守の思考は、唐突に向けられた鋭い視線によって中断させられた。
まるで継守から発せられた刹那の緊張を感じ取ったかの様に、今まで夢中になって語っていたイリスの声がぴたりと止まり、素早く視線を向けて来たのだ。
その幼い顔と小さな体躯からは信じられない威圧感を放ち、天狗の少女は継守を睨みつけながら凄みの効いた声を出す。
「やらんぞ」
「・・・?」
「やらんと言っている。これは、私のだ! 」
意味が解らずに戸惑う継守を前に、イリスは卓の上に置いてある大鉢を抱える様にしてみせる。
その大鉢は、今夜の夕飯のおかずであった南瓜の煮物が入っているものだ。明日の朝食でも食べようと、多めに作ってあったものである。
他の食事が終わり千穂が三人分の食器と一緒に片づけようとした時に、イリスが『ちょっと、これだけ待って』と言ったので残しておいてあった物だ。
どうやら甘辛く煮た南瓜はイリスの好みにとても合った物だったらしく、こうして今も話しながら一人で大鉢を抱え込んで食べ続けていたのである。
その柔らかそうな頬を膨らまし、イリスは継守を睨みつける。
「ちゃんと千穂の許可だって得ているのだ。文句は言わせん」
「いや。俺は別に・・・」
「ええい。ならば、こうしてやる!!」
そう言うと、イリスは見せつける様に箸を舐めてから、その箸で大鉢の中の南瓜を片っ端から突き回す。
どうやら、自分の唾がついた南瓜を食べられるものなら食べてみろと言う事らしい。
その可愛らしく品の良い顔立ちとは対照的な意地汚い行為に、どうしたものかと継守は言葉を失う。
その継守の沈黙を、己の勝利だと確信したのだろう。イリスは得意気な顔で小さな胸を張り、ふんぞり返ってみせた。
だが、その勝利の余韻を味わう間も無く、イリスの頭上には千穂からの雷が落ちる。
「何をやっているデスか、イリスちゃん! 突き箸も、ねぶり箸も、マナー違反なのデス!」
そこから続く、お説教。
最初は果敢にも抵抗したイリスが最後には屈し『ごめんなさい』を言うまで、四半時のお小言が続く。
それらが終わり『ちゃんと責任をとって全部食べなさい』と言われたイリスが南瓜を食べきるまでが、更に四半時。
それらが終わる頃には継守も、これの前に自分が何を考えていたのかをすっかり忘れ切っていた。
それよりも、恨みがましく睨みつけてくる天狗の少女に対して、どう対処するかで途方に暮れる。
空になった大鉢を片づけるべく席を立った千穂を見送りつつ、イリスは口を尖らせながら継守に話しかけてきた。
「継守、お前のせいだぞ。お前が物欲しそうな顔で見つめてくるから、誤解して千穂に怒られちゃったじゃないか」
「いや、俺は最初から南瓜を欲しがってなどいなかったのだが」
「じゃあ、何が欲しくて物欲しそうな顔をしていたんだ?」
「だから、物欲しそうな顔などしてないと言ってるだろうが」
継守にとってイリスは、昼間に長屋に遊びに来る近所の子供達と変わりが無いものになっていた。
気が付けば話し方も、似た様なものになる。幸い、その事はイリスも気にしないようである。
不意に継守の目の前に小さな手が伸び、握っていた何かを無造作に卓の上に置いた。
置かれたのは、継守が見た事も無い金色の硬貨だ。
手に取ると、意外とずっしりとした手応えが有る。もしこれが純金ならば、鋳潰して金隗にしただけでも、それなりの価値になると思わせるだけの重さが有る。
それを手にとったまま継守は、目の前のイリスに尋ねる。
「これは?」
「継守が物欲しそうな顔をしているから思い出したが、まだキツネ探しの依頼料を継守の分は払っていなかったのでな。とえりあえずの一週間分だ」
「いや。だから、俺は物欲しそうな顔などしていないと言ってるだろ」
「いいから、取っとけ。もう千穂にも同じだけ渡してある。これは私の宿泊費や雑費も込みのものだから、そっちで上手いこと工面してくれれば良い」
「・・・そういう事ならば、ありがたく頂くとしよう」
礼を言って軽く頭を下げてから、継守は改めて手の中の金色の硬貨を見る。
まさか子供の玩具という事も無いだろうが、この見た事も無い硬貨がどれほどの価値がある物なのかが継守には見当がつかない。
どうしたものかと首を傾げる継守の元に、食器を片づけた千穂が戻って来た。
「継守様。それは亜人領で流通しているグロワール金貨なのデス」
「そうなのか。それで、これは帝都でも使える物なのか?」
「はい。両替屋に行ってトレードして貰えば・・・たぶん、十円くらいにはなるデスかねぇ?」
「十円だって!?」
継守は驚きの声を上げてしまう。
十円と言えば、継守が便利屋仕事で稼ぐ額の一ヶ月分にあたる金額である。それだけの大金を、この天狗の子供は思い出したついでと言い無造作に渡して来たのだ。
思わずイリスの方に視線を向けると、もう席を立った後であった。こちらには興味を失った様子で、背伸びをしながら箪笥の上に手を伸ばしている。
どうやら、先日に千穂が持ってきた張り子の牛の置物が気に入った様だ。物珍しそうに見つめながら、しきりに赤い牛の首を指で突いてゆらゆらと揺らしている。
そんな天狗少女の幼い横顔を見ながら、継守は千穂と小声で話し合う。
「どうして、こんな大金を子供が持っているんだ?」
「さあ? きっと、イリスちゃんの家はリッチな御家庭なのデスよ」
「それならそれで、おかしいだろう。そんな富豪の家の令嬢が、どうして、うちなんかに来た」
「イリスちゃんが言うには、宿付き、食事付き、おやつ付きなら、何処でも良かったと言っていたデス」
「そんな適当な・・・」
呆れた様に呟きかけてから、継守は気付く。
それを言ったら、この自分だって貴族の嫡子であったのだし、目の前の千穂だって猛州においては豪商の家の娘なのだ。
その出生だけを世間の感覚で見れば、二人とも妖怪退治屋などという胡散臭い看板を掲げた下町長屋に居るべき人間とは言えないだろう。
では、どうして継守と千穂がここに居るのかと言えば、二人とも同じ理由によるものだ。
その動機は違うながらも同じ行動をとった結果であり、それはイリスも同じなのであろう。
「・・・家出か」
継守は、苦笑交じりに嘆息する。
気が付けばこの長屋は、家出した少年少女の駆け込み寺とでも言うべき場所になりつつある。
寺を追い出された元坊主の家主に、帝都に行き剣の腕で身を立てようと家出した少年と、その少年を追って家出をしてきた少女。
そこに本物の妖怪を一目見たいと家出をして来た、本人こそがこの帝都では妖怪の様に思われている天狗の少女が加わったのだ。
「さて・・・どうなる事やら」
この長屋も、これからは随分と賑やかになりそうだ。
それに明日からは、便利屋としての仕事とは別に、剣士として立身する為の活動や、イリスの妖怪探しに付き合ったりと、やる事は山積みだ。
色々と気苦労も増えるとは思うが、不思議と嫌な気分にはならない。むしろ心の何処かでそれらを楽しみにすら思っている自分に気付き、小さく驚く。
明日からは忙しくなるだろうが、それらは継守の願う未来への礎になるものだ。喜んで受けよう。
継守は微笑とも苦笑とも言えない笑みを浮かべながら新たな決意を胸に抱いていた。
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