第六章

 帝国歴一八七七年の現在の帝都において、治安とそれを取り巻く法は総督府統治の時代とは大きく変わっている。

一五年前の維新戦争によって政権が新政府へと移った事により、多くの法制度が改革された事によるものだ。


 その中でも特徴的なものの一つに、武士階級などの、身分による特権が消滅している事があげられる。

総督府時代ならば、武士は己の誇りが傷付けられた場合においては、その場の判断で相手を斬っても咎められなかった。

つまり、その腰に下げた刀で誰かを殺傷しても、無罪となるのだ。

無論、だからと言って武士ならば好き勝手に人を斬って回れるなどという事は無い。

 それが主君や肉親の仇であったり、明らかに武士を侮る態度をとった町民や農民であったり、当時の人々の価値観に当てはめて『斬って当然』と思われる相手の場合に限り、その殺傷は正当化される。

それと同時に、その様な”討つべき相手”がいるのに何もせずにしていれば、その者は臆病者であり武士の恥だとされ、その事を非難され時には罪に問われる事さえあった。

 かつての武士は、武士という特権階級の面子を守る為に、その刀を振るう権利と義務を背負っていた事になる。


 だが、新政府の時代に代わり特権階級という制度そのものが撤廃された。

無論、帝とその親族である皇族や、かつての武家や公家の家系からなる貴族などは、現在でも存在する。

だが原則としては、彼らも平民と同じ法によって縛られた存在であり、かつての特権階級というものは現在の帝国からは姿を消しているのだ。

 

 その新時代の法においては、かつての武士と言えども己の裁量で人を斬る事は禁じられる様になった。

それが例え誰もが認める様な極悪人であったとしても、その者を個人が勝手に殺したり傷を負わせたりすれば、それは罪となる。

 その際における世の人々からの評判がどの様なものであろうと、今の帝国の法においては犯罪者であり、当然の事として警察に逮捕され司法の場で裁かれるのだ。

その点においては皇族も貴族も平民も全て同じであり、帝国の法は平等に人を裁く事となっている。


 だが、その様な新しい帝国法の下においても、個人の裁量で人を傷付けたり誤って殺してしまっても、その罪を問われない場合がある。

そして、これについては皇族も貴族も平民も無く、全ての帝国の民に当てはめられるものだ。

 それは、ある特定の状況に限り、人の殺傷が無罪になるというものである。具体的には、以下の二つの場合だ。


『現行犯の捕縛』と『正当防衛』


 今、目の前で誰かが略奪なり殺人なりを犯そうとしているとしよう。もしくは、自分が誰かに殺されそうになっていたとする。

そんな時にまで『まずは通報して、それで警官が駆け付けるまでは何もしてはいけない。犯人に手出しをしたら犯罪者になる』などと言っていたら、目の前で強盗に家財を奪われたり、自分や妻子が襲われるのを、黙って見ている事しか出来ないという事になる。そんな馬鹿な話は無い。

 だから、やむを得ない緊急の場合においてのみ、帝国民は暴力をもって己や隣人の身命や財産を守る事が認められている。その際においてのみ、誰かを殺傷しても罪を問われる事は無いのだ。

 無論、だからと言って必要以上に相手を傷付けたり殺したりすれば、それが緊急事態であっても罪にはなるのだが。



 この、新しい帝国法の”抜け道”とでも言うべき箇所について継守が知ったのは、昨日の事であった。

厳密には、昨夜に凛の家を尋ね、今からでも自分や凛が剣士として立身する方法は無いかと相談に行った時に聞かされたものだ。

 凛が言うには、この”抜け道”を利用すれば自分達の剣士としての腕を帝都の人々に知らしめる事が出来ると言う。


 実際、二年前に帝都内のある家に強盗が押し入った時に、その家の息子二人がその場で強盗を取り押さえたという事件があったらしい。

その息子達は薪で強盗を殴り倒して怪我をさせていたにも関わらず、その勇気ある行動を称えられ警察署から表彰状を贈られたという。

その事は新聞にも載り、当時は帝都の人々の間でも噂に上がり暫くは話題となっていたらしい。

 そして先日、その時の弟の方が警察官採用の一般募集の試験で合格をし、警察官になったばかりだという話だ。


その件を踏まえて凛が考える、今からでも凛や継守が剣士として立身する為の具体的な計画は、こうだ。


『まずは自警団として帝都内を見回る。そして何処かで事件が起きたら、駆け付けて犯人を取り押さえる。

その事で名声を得た上で、警察官の一般採用試験に応募する。

合格をして警官になった後は、警察内での剣術大会で優秀な成績を修めて警視庁抜刀隊に入隊する。

それらの際、帝都の治安を自発的に守る自警団として活躍した剣士という名声が有れば、警察官の採用試験でも、警視庁抜刀隊への選抜でも、きっと有利に働く筈だ。

そして、その後の警視庁抜刀隊における実績をもって、それぞれの望みを叶えれば良い』


 継守と凛の望み。

稲郷継守の望みは、稲郷家の名を世に知らしめ、武家として再興させる事。

心斎橋凛の望みは、祖父の洞現に認められ、心斎橋一刀流と新明館の後継者となる事。


 二人の利害は一致し、その剣の腕についても互いに信用している。

試合とは違う実戦での戦法を多く知る継守と、新明館出身者である警察幹部との人脈を持つ凛は、互いに足りない部分を補える関係だ。

その性格についても、相性はともかく互いの馬鹿正直さと生真面目さは理解し合っている。互いに惜しみなく力を貸し合い、全力での共闘が出来る理想的な協力関係。

 そう思い、この凛との協力関係を継守は頼もしいものだと考えていた。

しかし、この時に限れば、少しばかり早まったかと継守は戸惑う事になる。



 まだ早めの夕方という時刻にも関わらず、大通り沿いの蕎麦屋は多くの客で賑わっていた。

早めの夕食のつもりであろう仕事帰りの若い男達や、早くも酩酊している酔客。店頭で惣菜を買って帰ろうとしてる女性。

今朝の荷揚げ市ほどでは無いにしろ、大きな店内の客席は多くの客や店員の声が入り混じり混雑の様をしめしていた。

 そんな木製の卓と椅子が並ぶ一階を通り抜けて階段を上ると、継守と凛は二階の畳敷きの大広間の片隅の卓につく。

注文した蕎麦を待つ間、継守は凛から昨夜にあったという衣川署襲撃事件について話を聞いていた。


 凛が語る衣川署襲撃事件の概要は、こうだ。

昨夜の深夜、襲撃犯が衣川署に侵入し、署長の蛭田圭三を斬殺した。

その際に犯人は蛭田以外は殺さず、他の警察署に居た二十三人の警官および民間人を全て気絶させている。

その気絶させられた者達の中には、目立った怪我人などはいないという。

そして犯人が蛭田を斬った後の警察署には、荒らされたり何かが持ち去られた痕跡は一切無い。

 これらの事から犯人は、あくまで蛭田だけを狙って警察署を襲撃したのだろうと推測ができる。

だが、実際の犯人の動機や正体などについては、未だに警察は全くの手がかりを掴んではいない。

少なくとも所轄の警察は、何の調査結果も得てはいないという。

 他には、事件前の犯行予告などは無い事や、犯人は単独犯であるらしい事などが、次々と凛の口から継守に聞かされる。


それらを黙って聞いていた継守だが、犯人の姿についての目撃証言を聞いたところで露骨に眉をひそめた。


「・・・大鎧だと?」

「ああ。門衛をしていた警官の証言では、確かに大鎧という鎧だったらしい。

それ以外の目撃者も、鎧の種類までは解らないが鎧武者だった事だけは確かだと全員が証言している様だ」

「その犯人は何を考えている?」

「そんな事を私が知る訳が無いだろう。捕まえてから本人に聞けばいい」

「それは、その通りだが・・・」


 継守は首を傾げざるをえない。

まず犯人が警察署に蛭間圭三の暗殺をしに侵入する際に、よりにもよって戦国期の鎧などを持ち出す意味が解らない。

どうして正体を隠しての単独犯行をする際に、目立ち易く、機敏な動きが妨げられる甲冑などを着込む必要があるのだろうか。

 今回の襲撃事件が、それなりの人数での討ち入り計画だったのならば、まだ理解ができる。集団同士での正面からの戦闘ならば、それなりの武装は必要だ。

そうだとしても、二百年前の亜人戦争の頃には既に廃れてしまっていた大鎧をわざわざ選ぶ事も無いだろうにとは思うが。

そもそも、深夜でも数十人の人間がいる警察署に単独で押し入ろうという発想が狂っているし、それを骨董品の甲冑姿で成功させていると言うのも信じ難い。

 聞けば聞くほどに、その話は継守にとっては胡散臭いものに聞こえてくる。はっきり言うと、法螺話としか思えない。

まるで、毎日の様に毘沙門庵に来る近所の子供達から聞かされる、お菓子目当ての自作怪談話を聞いている気分だ。

 その様な思いから怪訝な表情を浮かべる継守に対し、あくまで生真面目な顔のまま凛は尋ねてくる。


「そこでだ、稲郷。我々としては、この大鎧の賊を捕らえる際の作戦を話し合うべきだと思う」

「作戦?」

「そうだ。こういう輩を力ずくで押さえつける方法については、私より貴様の方が詳しいだろう。何か知恵は無いか?」

「知恵も何も、そんな間抜けは蹴りの一発でも入れておけ」


 その、思わず投げやりに答えてしまった継守の態度が気に入らなかったのだろう。凛の表情が、途端に険しいものになる。 

それを見た継守は困った様に小さく息を吐き、説明を始める事にした。


 大鎧とは、この帝国の戦国期において上級武士が戦場で用いていた騎馬甲冑である。

構造としては、革と漆と紐を複雑に組み合わせて作られた無数の盾で胴体や手足を覆い、鉄の鉢にクワガタと呼ばれる角の様な飾りのついた兜を被ったものだ。

それを組む際には色とりどりの鮮やかな紐を用い、繋ぎの布の部分にも絢爛な錦を使用する事によって、戦場における騎馬武者の働きをより華麗に彩って見せる。

この大鎧での騎馬武者姿で戦場に立つ事こそが、かつて戦国期における上級武士の誉であり、下級武士にとっての憧れであった。

 だが、この武士の誉の象徴と言うべき存在であった大鎧も、二百年以上も前の戦国期を全盛期として次第に姿を消していく。

その華麗で絢爛な騎馬甲冑は、戦場での刀剣ならば充分に防ぎえても、時代の流れまでは防ぎきれなかったのだ。


 まずは、その防御性能。

確かに、その無数の革と漆と紐と布で組まれた構造は特に衝撃に強く、刀剣を叩きつけても簡単には切る事は出来ない。

また重厚な幾枚もの盾を装着する構造は、例え矢が刺さっても内部の人体に届くまでには簡単に貫通しない。

騎馬武者同士では一騎打ちが主流であり、戦場では雑兵同士での投石が盛んに行われていた戦国初期ならば、それは理想的と言って良い防具であった。

 だが、この帝国に南蛮から鉄砲が伝来した事で事情は変わる。

この投石や弓矢を遥かに超える速度で鉛玉を飛ばす兵器を前にしては、その幾層にも重ねた革や紐で衝撃を吸収する鎧は意味を成さなかったのである。

 更には、鉄砲が帝国全土に普及しはじめる戦国後期の戦場では、騎馬武者での一騎打ちは廃れ、集団戦法での戦いが主流になる。

集団で槍の穂先を揃えて突撃する戦法に対し、革と紐ばかりで組まれた大鎧は、敵の攻撃を避け難いばかりで槍の刺突への充分な防御を発揮しなかった。

それらの理由により、次第に大鎧は戦場から姿を消し、鉄板を多く仕込みつつ関節周りを動き易く工夫した当世具足と呼ばれるものに取って変わられて行く。

 こうして戦国期が終わる頃には、かつては戦場の華と言われた大鎧はその殆どがこの帝国からは消してしまったのだ。


 それらの説明を継守が終えた頃、ちょうど注文した料理が席に運ばれてくる。

小鉢の大根おろしを蕎麦の鉢に放り込み箸で混ぜている継守に向け、凛が玉子焼きを箸で一口大に切りながら訪ねてきた。


「大鎧というものが、戦場では時代遅れの遺物だという事は理解した。だが、やはり相手は手強い敵だと考えるべきなのだろう?」


 ちなみに継守が大根おろし蕎麦だけの注文なのに対し、凛の前には天ぷらの盛り合わせやら蒲鉾やら蕎麦がきやらと、山の様に一品料理の皿が運ばれてくる。

この細い体躯をした少女の何処にこれだけ大量の食料が入るのかと驚きを通り越して不思議に思いつつも、継守は質問に答える。


「あくまで、その大鎧の賊が馬に乗っていればの話だがな」

「馬に乗っているかどうかだけで、そこまで変わるものなのか?」

「そもそも、大鎧は騎馬甲冑だ」


 継守は、大鎧という甲冑の説明を続ける。

大鎧は騎馬甲冑だ。騎馬甲冑とは文字通り騎馬武者が用いる甲冑であって、歩兵武者が用いる物とは全く違うものなのである。

 大鎧の全盛期とも言える戦国初期において、戦場での騎馬武者は、名乗りを上げてから自分と同格の上級武士と一騎打ちをするのが普通だった。

だから、あくまで一体の敵だけを見て、その敵だけを騎乗のまま攻撃する動きさえ出来れば良い。

その反面、その一体の敵から受ける、歩兵などとは比べ物にならない強烈な騎馬突撃の一撃に耐える防御力が無ければ、即死は免れない。

それらの理由により、大鎧をはじめとした騎馬甲冑は、歩兵が用いていた甲冑とは別物とよべる代物へと進化していった。


 まず何よりも特筆すべきは、その重量だ。

騎馬武者は人間が自らの脚で歩いたり走ったりする必要が無いので、あくまで馬が耐えられる限りにおいて幾らでも重量を上げられる。

だから多くの大鎧は、歩兵が用いる甲冑の倍以上の重さがある。だから、大鎧を着た武者が運悪く落馬した場合は、もはや自力で機敏に起き上がるのは不可能と言って良い。

 その為、もし落馬したらその場で己の死を覚悟するというのが、当時の大鎧を着た武者の作法であった。


 また、その構造そのものが騎馬での一騎打ちの為だけに作られている。

乗馬を操るのと武器を振るう以外の動作の全てを妨げてまで防御力を上げるのと同時に、それに伴って上がった重量が人体にかからない様にも作られている。

具体的には、大鎧の場合は胴の下部を鞍に乗せる仕組みになっており、その重量の殆どを鞍に逃す構造になっているのだ。

 だから、もし大鎧の武者が馬に乗っていない場合、その膨大な鎧の重量の殆どが武者自身の肩にかかる事となる。

ほんの半刻もただ立っているだけで、腕が痺れてまともに武器など振るえない状態となり、言うまでも無く自力で馬に乗る事も出来なってしまう。

 その様な事からも、大鎧を着た武者が戦場で落馬した場合、まず自力で生き延びる事は不可能となってしまうのだ。


それらの説明を終え、継守は話を締めくくる。


「だから、大鎧を着込んだ武者が弓矢も持たずに徒歩で襲い掛かって来ても、何の脅威でも無いんだ。

馬が無ければ、まともに走る事も振り返る事も出来ない相手だ。

相手の利き腕とは反対側に回って蹴りの一発でも入れれば、簡単に転んで身動きすら出来なくなる」

「だが昨夜に衣川署を襲撃した犯人は、その大鎧を着込んでの徒歩で署長を斬り、他にも数十人の人間を気絶させてまわったという話だぞ」

「そもそも、そんな大立ち回りは鎧の有無に関係無く人間業じゃないだろう。どこまでが本当の話なのか・・・」

「稲郷! お前は私の話が信じられないと言うのか!」

「・・・そうじゃない。俺は君の事は信頼しているし、昨夜に襲撃事件が有ったというのも事実なのだろう」


 急に激昂しだす凛に向け、継守は務めて落ち着いた態度で接する。

継守としては話そのものが現実離れしていると言いたかっただけなのだが、どうやら凛は自分が継守に信用されていないと受け取ったらしい。

顔でこそ怒っているが半ば泣きそうな目の前の少女に対し、継守はゆっくりと子供に言い聞かせる様にして話を続けた。

 これが半年前の二人ならば、きっと継守までもが『そんな事は言っていないだろう!』と叫んで言い争いになっていただろう。

この半年間の道場を破門になってからのそれぞれの経験が、二人の関係や心情を半年前とは違う形にしているのかも知れない。

 そんな事を思いながらも、継守は目の前の少女に向け穏やかに話し続ける。


「だが、この話の裏には俺と君が知らない何かが隠されている。もしくは、事実ではない情報が幾つか紛れ込んでいるだけなのかも知れない。

 きっと、この話を教えてくれた人ですら知らない、何かがだ」

「つまりお前は、こう言いたいのか? 襲撃事件そのものは事実であろうが、話の内容を丸ごと信じる訳には行かない・・・?」

「そうだ。これについては、俺と君で慎重に調べ直す必要があると思う」

「そうか・・・解った。済まない、稲郷。誤解して大きな声を出した事は誤る」

「いや、気にするな。こちらも気にしていない」


どうやら凛の機嫌も直ったようだと胸を撫で下ろす継守に向け、今度は心細そうに凛が訪ねてくる。


「それはそうとして・・・だ。稲郷」

「何だ?」

「お前は・・・その・・・私のこと自体は信用してくれていると思って良いんだな?」

「ああ、勿論だ。俺は君の事を心から信頼している」

「そ・・・そうか、ならば良いんだ」


 少しだけ照れと嬉しさの混じった表情で頷く凛を見つめながら、継守は改めて自分の中で状況を整理する。


 稲郷継守にとって、心斎橋凛の持ち込んできた話は信用できる。

半年前まで同じ道場で彼女を見て来た者として凛の性格は信頼して良いものだと思うし、彼女の持ち込む話にも信用して良いと思えるだけの裏付けが有る。

せいぜい問題が有るとすれば、その仕入れてきた話を彼女自身が無条件で丸ごと信じてしまう所くらいだ。だが、その辺りは継守が助力をすれば何とかなる程度の話だろう。

 ちなみに、どうして凛の話がそこまで信用できるかと言うと、情報源そのものは確かなものだからだ。

この情報源は、新明館を破門になってからの半年間で凛が築き上げた人脈によるものらしい。


 半年前の継守との決闘事件で新明館を破門になって以来、凛は出稽古と称して帝都内の幾つかの道場を回っていた。

あくまで凛としては己の剣の腕が鈍るのを嫌っての行動であって、その時点では他意は無かったらしい。

 だが、その行く先々で凛が新明館を破門になった経緯について尋ねられるままに話すごとに、自然と彼女に同情して好意的な言葉をかける人々が増えて行ったという。

どうやら彼らにとって心斎橋凛と言う名の少女は、道場と死んだ両親の名誉の為に殉じた凛々しくも儚く可憐な美少女剣士という事になっている様であった。

そんな幻想が独り歩きし続け、数か月後に凛が気が付いた時には、新明館出身者の幾人かの間では祖父である洞現には気付かれない様に心斎橋凛を応援しようという勢力が出来上がっていたという。

 だから今回の衣川署襲撃事件の情報についても、凛の計画を知る警察内部の応援者が教えてくれたものだと考えられる。


「それにしても・・・」


頭の中で状況を整理しつつ、思わず継守は呟いてしまう。


「まだ警察から一般へは発表がされていない事件について、よくもこう簡単に教えてくれたものだな」

「それについては、我々への期待なのだと思って良いだろう。彼らだって、一刻も早く犯人が捕まり法によって裁かれる事を望んでいる筈だ」

「だからと言って、勝手に余所者である俺らに動かれたら、彼ら自身の捜査活動に影響すら出かねないだろうに」

「それについては・・・少なくとも、この話の情報提供者にとって直接は問題は無い筈だ。何しろ、この件に関しては所轄の警察には捜査そのものが禁じられている」

「それは、どういう事なんだ?」

「理由は私も知らない。この事については、私に情報提供者をしてくれた人も実際のところは解らないらしい。

所轄の警察で捜査本部を作り動き出そうとした途端に、本庁から来た周防という男に事件についての全ての捜査権限が移されたらしい。

結局、その理由が教えられることも無ければ、捜査の進捗状況すらも所轄の人間には知らされない状況なのだと聞いている」

「・・・」


 急に継守の胸中に悪い予感が込み上げる。今更になって、この件に自分達が手を出して良いものか迷いが出てきた。

殺人事件。それも警察署内で起こった事件に対し、本庁が急いで出て来て事件全ての捜査権限を握ってしまう。

そして、その詳細については、同じ警察組織である筈の所轄の警官達にすら秘匿しようとしているらしい。

 どう考えても、この件は色々と危険なものを孕んでいる筈だ。


「はっきり言おう、心斎橋。この件は危険だ」

「元から承知だ。荒事なのだし、当然だろう」

「いや、君は解っていない。言いたくないが、君は情報提供者に踊らされている」

「私が騙されていると言うのか」

「ああ。正確には良い様に利用されている」


 そう。心斎橋凛は、結果として所轄警官であろう情報提供者に利用されている。

所轄の警察が手出しが出来ない事件について、部外者による独断という形で横槍を入れようとしているのだ。

もし部外者によって事件解決などという流れになれば本庁の面子は潰れ、それが出来なくても本庁側への牽制くらいにはなる。

もしくは、自分達からは手が出せなくて入手できない情報を、凛を使って探ろうとしているのかも知れない。

 どちらにしろ、本庁が出張って来てまで秘匿しようとする件に対し、自分達は首を突っ込もうとしているのだ。

どんな予想外の事態に巻き込まれるか解ったものではない。


それらの説明をする継守にむけて凛が放った言葉は、大胆とも言えるが無謀ともとれるものであった。


「だから、どうしたと言うのだ」

「どうしたって・・・っ!! 今の話を聞いていたのか!?」


思わず声を荒げる継守に向け、凛は澄ました顔で言葉を続けた。


「ああ。私が情報提供者の思惑に乗り、危険な状況に飛び込もうとしていると言いたいのだろう?」

「解っているのなら・・・」

「もう一度だけ言おう。だから、どうしたと言うのだ」

「なっ・・・!」

「これが我々にとって名を上げる機会だという事には変わりはない。そして、殺人犯を捕らえるのは天下の大義でもある。

 稲郷。もしお前が怖気づいたのなら、そう言ってくれ。その時は私一人でやる」

「俺は怖気づいたりしていない! ただ、君の事を心配しているだけだ! 」


 継守は凛の目を真っ直ぐ見つめ真剣な表情で言い切ってから、我に返る。

気が付けば語気だけでなく息まで荒くなっていた。ほんの先程までは落ち着いて話せていたのに、我ながら無駄に激情し易い性格だと自省する。

 それに、こんな頭ごなしの言い方をすれば、凛の性格からいってまた機嫌を悪くするだろう。

そう思い伺う様にして継守が視線を向けた先では、継守の予想に反して凛は驚きに目を丸くしたまま絶句していた。


「何を驚いている、心斎橋」

「驚きもする。お前が私の心配をして言っていたとは思いもしなかったからな」

「まるで俺が他人の心配などしない、人でなしの様な言い様だな」

「そういう意味では・・・いや、そう思っていたのは事実だな。

私の中でのお前の印象は、いつも独りで道場の片隅で打ち込み稽古ばかりしていた姿と、半年前の衝突した時くらいしか無かった。

いつも他人を寄せ付けず余裕の無い表情で、まるで他人の事など見えていない様な有り様だった」

「・・・あの頃はな」


 凛が懐かしむような顔で語るのを聞きながら、継守は自分が新明館に入塾したばかりの頃を思い出す。


 確かに、あの頃の継守は心に余裕が無かった。

故郷の猛州では負け知らずだった自分の剣の腕が、この帝都で主流である竹刀剣術では全く通用しない事に衝撃を受けて焦っていた。

 こんな筈では無い。自分は、この帝都で剣の腕で成功する筈だったのに。そんな思考ばかりが頭の中をぐるぐる回っていた。

強兵の地である猛州で負け知らずだった自分が、帝都のぬるま湯で育った貴族の子弟に負ける筈が無い。そんな根拠の無い自負が裏切られた事で混乱していた。

 その事から周囲に対して頑なになり、そのせいで周囲の名門貴族の子弟からも余計に反感を買い、嫌がらせを受ける。そして、ますます周囲に対して頑なになる。

その様な周囲との悪循環の中で継守は、自身が得意とし竹刀剣術の世界でも通用する打ち込み稽古ばかり狂った様に繰り返し、何かから逃げる様に没頭し続けていた。

 今になって思えば、当時の新明館には継守と似た境遇の地方出身者ながらも、継守より上手く周囲に溶け込んでいた者も居た。

今、目の前にいる凛の様に、帝都の名門出身者の塾生ながらも、継守達の様な反逆者の子に対して差別をしない公平な者も居た。

あの時に、もう少し自分が落ち着いて周囲を見回していれば。そして、もう少し違う振る舞いをしていれば。今とは違う未来が有ったのかも知れない。

 そんな、懐かしむと言うには少し苦い記憶を思い返す継守の目の前では、凛が楽しそうに語り続ける。


「そんな感じで互いに言葉を交わした事も無く、剣術大会の時には暴言を吐いて私と真正面から衝突した男が、いきなり昨夜に訪ねて来たのには驚いたぞ。

そして、互いが人生を狂わされた因縁の相手である私に対し、自分の剣士としての将来について相談したいと真顔で言い出したのだからな。

その上、流石に断るだろうと思いながらも試しに申し出た共闘に、あっさり頷く始末だ。この男には人並みの神経があるのかと、一瞬だが本気で疑ったぞ」

「・・・」


 継守にとってはあまり触れて欲しくない話題を、凛は楽しい思い出話をするかの様に語る。

とりあえず継守は、誤魔化しにもならないと解っていながら黙々と自分の鉢の中の蕎麦を食べる事にした。

 そんな継守の内心を知ってか知らずか、凛の上機嫌な話し声は続く。


「その男が、こんな風に私の心配をしてくれたり・・・・さっきの話では、喜ばせたい女性が居るから指輪を買ったと言うではないか。正直、驚いている」

「・・・」

「それでお前は、いつ指輪を使っての勇気とやらを見せてくれるのだ?」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて継守の顔を覗き込む凛。きっと、彼女の中では継守が照れて黙りこくっている事になっているのだろう。

そんな、世の中の悪意を知らないかの様な少女を見ている継守の頭の中に、彼女に対する一つの仕返しの案が浮かんだ。

仕返しと言うより、ちょっとした意地悪とでも言うべきだろうか。悪戯心と言うには可愛げが無く、復讐心と言う程には深刻ではない。

 ただ、自分が一歩間違えれば危険に晒される様な事で他人から利用されようとしてても平然とし、その事を心配すれば人の事を意外だと言って面白がる少女に対しての、少し困った顔をさせてやろうという思い付きだ。それだけで他意は無い。


 鉢の中の蕎麦を平らげ汁まで飲み干すと、継守は改めて凛の目を正面から見据えながら口を開いた。


「それを言ったら、心斎橋。昨日は久々に会って俺も思ったが、君も随分と変わった」

「そ、そうか?」


 急に態度を変えた継守に対し、凛は少し面食らった様にして答える。

道場で見ていた頃はいつも澄まし顔でいた黒髪の少女は、今日はいちいち素直な反応で表情を変える。

 その姿に新鮮なものを感じながら、これについては本心で継守は言う。


「ああ、綺麗になった」


 継守が自分でも驚くほどに、その声の響きに真剣さがこもる。

それを聞いた凛の顔が一瞬で真っ赤になり、そのまま息を呑んで固まってしまった。


「なあ、心斎橋。君は今、いつ俺が勇気を出すのかを知りたいと言ったな」

「ああ、確かに言ったが・・・」

「今、その勇気を出したいと思う」

「そんな・・・急に言われても・・・」


 落ち着かない様に周囲を見渡しながら、しどろもどろで答えつつ凛は周囲を見渡す。

蕎麦屋の二階席は畳敷きの大広間となっていて、今も五十人近い客が幾つもの料理や酒を並べた卓の前に座り歓談していた。

だが、誰も継守達になど注目はしていない。

それでも凛は恥ずかしそうに身をすくめて俯くと、上目遣いで継守の顔を見ながら消え入りそうな声で訴えかけてくる。


「それに・・・こんな場所でする話では無いだろう」

「嫌なのか?」

「そういう事を言っているのでは無い。ただ・・その・・・少し待ってはくれないか。

 以前から私達は互いに顔は知っていたとは言え、やっと昨日になって話すようになったばかりでは無いか。いきなり過ぎて、心の準備が・・・」

「駄目だ。俺は今すぐにでも君に求婚したいんだ」

「そんな・・・う、嘘だろ? 稲郷」

「ああ、嘘だ。全て、真っ赤な大嘘だ」

「・・・・へ?」


 沈黙。


 多くの客で賑わっている筈の蕎麦屋の二階が、どういう訳か二人の周囲だけ静寂に包まれた様な錯覚を感じる。

その、ほんの僅かである筈の静止した時間の中、凛の顔が赤面から蒼白になり、再び耳まで赤くなるという目まぐるしい変化をしてみせた。

そうして声も出せずに震える少女の前で、継守は卓の端に置かれた伝票を手にして素早く立ち上がる。


「全て冗談だ。済まない、心斎橋」

「・・・~!!」

「事件捜査の打ち合わせについては、また明日にでも俺の方から君を訪ねよう。それと、最後に一つだけ俺から余計な世話を焼かせて貰う。

 君は自分で考えているより、ずっと人から騙され易い性格をしている。気を付けないと、いつか本当に痛い目にあうぞ」


 それだけを言うと、まだ口をパクパクさせながら固まったままの凛を残して継守は素早く席を退散する。

一階に駆け下り、急いで二人分の勘定を済ますと暖簾をくぐって店の外に出た。

その途中で、何やら二階席から凛が叫んでいる声が聞こえた気がしたが、あえて聞こえない事にして一目散にして逃げる。


 夕刻の大通りを行き来する人々の雑踏に紛れてから、継守はやっと逃げ足の速度を緩めて歩き出す。

そうして呼吸と心を少し落ち着かせてから、今の自分がした事を振り返る。


「・・・少し、やり過ぎたか?」


 明日に会った時、どうやって彼女に謝ろうか。

そんな事を考えながら、長屋への帰路を急ぐ。

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