第四章

 それは、満月の夜の事だった。

帝都西区を管轄する幾つかある警察署の内の一つである衣川署で、”それ”は初めて人の前に姿を表した。

その突如として現れた”それ”と帝都で最初に遭遇した人間は、小吉郎という名の若い巡査である。


 その夜、小吉郎は衣川署の門の前で一人で門衛をしていた。

本来ならば二人一組でする筈の門衛を、どうして小吉郎一人でやっているのかと言えば、署長である蛭田の『どうせ今夜も何も起きやしないさ』という一言が原因である。

その無責任な署長の物言いには署内の誰もが思う所は有ったが、結局は口をつぐんでいた。この衣川署において蛭田に対して異を唱える事が、どの様な未来を招くのかは誰もが知る事だったからだ。


 署長の蛭田圭三は、一五年前の維新戦争において帝都の町に火を放ち総督軍を混乱させ、新政府軍の勝利に貢献したという、『帝都大火の三英雄』の内の一人だ。

当時の維新軍が『総督府を見限って新政府に味方した方が得だ』という印象を帝国中の人々に宣伝する為にと、ただの無法者達を”英雄”に仕立て上げたのである。

その時に蛭田にはそれなりの見栄えがする公職として新政府から警察署長の役職が与えられており、過去に彼を登用した新政府の面子の為にも、それが滅多な事では解任される事も無い。

 その事情を本人も理解しているからだろう。

蛭田は衣川署の管轄内での暴行や強請りを繰り返しては、それを警察署長という特権を使って揉み消す事を繰り返していた。そして、それらの蛭田の行動を非難する者に対しては冤罪をかぶせては牢に放り込み、身体的にも社会的にも叩き潰す。

 無論、この蛭田の行為を新政府も知らぬ訳では無い。だが、貧民の多い旧市街での事だからと政府は黙殺をしていた。

新政府も自分達が扱いに困り手を焼いている蛭田を、元からの治安も悪く政治的な発言力も弱い下町の人々に押し付け、そのまま封じ込めておこうと決め込んでいるのだろう。なので、蛭田の悪辣さは誰にも止められることなく続いている。

 蛭田に目を付けられたら、衣川署の管轄区から一刻も早く逃げ出さねば無事には生きてはいけない。

この事は、この近辺の下町の者ならば子供までもが知っている事だった。



「・・・やってられねえぜ」


 小吉郎は忌々し気に吐き捨ててから、片方に持った小瓶に口をつける。

ごくりと喉を鳴らして小瓶の中身を嚥下してから、ため息を吐く。その息は、少なからず酒気を帯びていた。

 この帝都警察の中央からは見放され、警察組織内でも見放された者ばかりが押し込められる場所となった衣川署において、更に署内のどの派閥からも見放されたのが、この小吉朗だ。

 己の境遇を想えば、この『どうせ今夜も何も起こらないさ』と小吉郎が門衛をしながら隠れて飲む酒の量も、日に日に増えようというものである。


 小吉郎は、この帝都西地区の下町での生まれた。帝歴一八五二年の生まれなので、今年で二五になる。

中肉中背で特に目立った特徴も無い顔立ちだが、あえて言えば常に舌打ちでもしていそうな不機嫌な表情をしているのが印象的と言えるかも知れない。

 十五年前の維新戦争において、当時は十歳であった小吉郎は生家を焼かれたので小吉郎は新政府にはあまり良い印象を持ってはいない。

だが、家族を喪った訳でも無く何よりも幼いころの話なので恨むと言うほどの記憶も無い。むしろ、新政府の方針の幾つかを歓迎する気持ちの方が大きかった。

 その歓迎するものの一つとして、職業選択の自由がある。

総督府時代には子は親の職を継ぐ決まりであったのが、新政府の時代になってからは誰もが己の好きな職業を選べるようになったのだ。

 無論、誰もが何の職にでも簡単に就ける訳では無い。それに見合った能力が無ければ、就く事も続ける事も出来ない。

例えば公職などは試験に合格した者だけしか就けず、その後の昇進も数々の試験を合格する事が必須となる。

 だが逆に言えば、個人の能力と志が認められさえすれば、貴族や富豪の子でなくとも富と栄誉を手にする事が出来る様になった。

これは喜ばしい事であった。小吉郎は子供の頃から、祖父や父親の様な貧乏な桶職人で人生を終わらせたくはないと思っていたからだ。


 だから十五になった時、小吉郎は親に頼み込み棒術の道場に入った。

たまたま棒術の道場が近所に有っただけというのも理由ではあるが、当時の小吉郎にとっては別の狙いもあった。

もし今から剣術道場に入っても、幼い頃から剣術修行をしている貴族(かつての武家)の子弟には自分は適わないだろうと考えたからだ。

 その予想は半ば当たった。同時期に剣術道場に入門した下町出身者が次々と脱落していく中、小吉郎は棒術道場で優秀な成績を収め、塾長の推薦を得て警官の職に就く事が出来たのだ。その時の小吉郎は、自分の狙い通りとなった事を密かに喜んだ。

 この調子でいこう。こうやって警察組織内でも上手いこと世の中を泳いでいき、出世をしてやろう。そう思っていた。

だが、そこまでが限界だった。帝都警察の上層部を占めるのは維新志士と呼ばれる焔州出身者や、帝国大学の出身者ばかりだったからだ。

 維新志士にも帝国大学にも人脈を持たない小吉郎に回ってくる仕事と言えば、この警察組織内でも見捨てられた衣川署に押し込められ、そこでの牢番や門衛という手柄の立てようも無い仕事ばかりである。

 結局、貧しい平民の子は、貧しい平民のままだったのだ。


「・・・くそっ」


 小吉郎は再び小瓶の口を咥えながら、背後にある衣川署を見上げる。

元は総督府時代に奉行所として使われていた敷地に建てられている、南蛮風石造りの三階屋だ。

この警察署も建設当時は、新時代による新しい秩序の到来を帝都の人々に知らしめようという狙いで作られた、美しく荘厳な建物であった。

 だが現在は、主である蛭田の人物を現すように荒れ果て、汚れ果てている。もし知らない者が見れば、これが警察署だと最初は信じないだろう。

むしろ盗賊が隠れ家にしている廃城とでも言われた方が、しっくりくる。実際、その通りの使われ方をしている建物だ。


 その警察署の二階にある一室の窓からは、もう周囲の家々も寝静まっている深夜だと言うのに煌々とした光が漏れている。

そして、湿った夜風に流されてガラの悪そうな男女の笑い声が門の前に立つ小吉郎の所にまで聞こえてくる。

夕刻に蛭田が連れ込んできた、大量の酒瓶を抱えた目つきの悪い男達と、派手な化粧をした女達のものだ。今は署長室で酒盛りをしていている様だが、じきに女達の嬌声も聞こえてくる事だろう。


「・・・!?」


 不意に小吉郎は、驚きに目を見張って動きを止めた。

署長室から聞こえる醜態の音などにではない。そこから小吉郎が視線を下して振り返った先に、信じられないモノを見たからだ。


 ”それ”は独り真正面から、衣川署の正面門への一本道を歩いて来る。

月光が雲に遮られて暗くなった路地を歩く姿は、大通りから差し込むガス灯の光を背中に受け、その陰影だけが微かに浮かび上がって見えた。

その一歩一歩を重々しく踏み鳴らしながら近づいてくる”それ”の足取りに、迷いは全く感じられない。

 その特徴的な姿は、陰影だけでも解る。

肩や腰回りに分厚い板状のものが装着され、胴回りも同様のもので覆われている。また、手足の先端も籠手や脛当てで覆われていた。

頭部は丸い鉢のようなものが被さり、その鉢には角の様な飾りがついている。


鎧武者だ。


 大鎧と呼ばれる、戦国武士の戦装束をしている。

雑兵である歩兵では無く、騎馬を許された上級武士のみが用いる甲冑であり、ただの戦場での防具というだけでなく、武士の威風と華やかさの象徴とも言える誉の証だ。

かつて、この帝国が無数の地方領主達による群雄割拠が行われていた戦国期においては、名のある武士は皆が、この姿をして己の存在を誇示していたという。

 その太古の戦場から抜け出してきたような姿の人物は、他に人通りの無い夜道を一歩一歩だが確実に近づいて来る。

呆然と見つめる小吉郎の口からは、思わず小さく声が漏れた。


「なんだよ、ありゃ・・・」


 小吉郎は、訳が解らなかった。それもそうだろう。あんなモノが、今の帝都に有る筈が無い。

大鎧は、現在となっては遺物としか言い様の無い代物だ。それを誉とする武士という階級そのものが今の帝国には存在しないし、十五年前の維新戦争の時点で既に戦場の防具としては時代遅れだと証明されていたものだ。そもそも今の帝都は戦場では無い。

 そんな事を酒精に霞んだ頭で考える小吉郎の目の前では、月を覆っていた雲が流され、鎧武者の姿が月光の下に浮かび上がる。


白狐の面だ。 


 青白い光の中を重々しく歩んでくる鎧武者の顔を覆っているのは、夏祭りの夜店で売られている様な白狐の面であった。

厳めしく古めかしい甲冑を着込んだ鎧武者と、祭の夜に子供が被る白狐の面。

その重々しい足音だけを響かせて、不思議な取り合わせをした鎧武者は静かにこちらへと歩いてくる。

 その姿が近づくにつれ、小吉郎の目には鎧武者の姿が細部までも鮮明に浮かび上がってきた。

大小の革と漆と紐を緻密に組み合わせて作られた肩鎧や胴回りも、華麗な装飾をされた兜も、、ほんの少しの綻びも色褪せも無い。

それが前時代の遺物なのだとは信じられない程に、その姿は重厚さと威風を放ち、ある種の幻想的な美しさすら感じさせる。

 小吉郎は、ただ棒立ちしたまま、近づいてくる大鎧の鎧武者の姿に見入ることしか出来なかった。


大鎧の鎧武者は目の前で立ち止まると、白狐の面の下から小吉郎に視線を向ける。


「門衛殿、お尋ねしたい。蛭田圭三は、ここに居りますでしょうか」


 最初、小吉郎は自分が相手から質問をされているという事に気付かなかった。

ただ、白狐の面の下から発せられた、くぐもっていて年齢が分からない男の声を、呆けた様に聞き流してしまう。

この目の前の鎧武者が人語の通じない妖怪などでは無く、ただの奇妙な姿をしているだけの人間だと解り、拍子抜けしていたのだ。

 だが、すぐに我に返ると、目の前の不審者へと手にした六尺棒を突き付ける。


「何だ、貴様は!」


 得体が知れないモノと恐れを感じた相手がただの人間だと安心した、その反動からだろう。

急に気が大きくなった小吉朗は、相手を威圧する様に怒鳴りつけた。


「こんな所で何をしている!」

「蛭田圭三に用が有って参りました」

「署長に何の用だ!」

「お答えできませぬ」

「あぁ!? そもそも、貴様は何者なんだ!」

「お答えできませぬ」

「ふざけるなぁっ!」


 激昂して怒鳴り続ける小吉郎に対して、鎧武者は全く動じず、白狐の面の下から表情を見せずに淡々と答える続ける。

その姿に小吉朗は苛立ちを感じる。


「お前みたいな怪しい奴を署長に会わす訳が無いだろうが! 今すぐ帰れ!」

「・・・では、今、ここに蛭田は居るのですな」

「お前には関係無い!さっさと去れ!」

「仕方が有りませんな・・・では、押し入らせて頂きます」

「貴様、本官に逆らうつもりかぁ!!」


 小吉郎は怒鳴りながらも、凶暴な笑みを浮かべていた。

この鎧武者が何者なのかは知らなし、何をするつもりなのかも知らない。

どうせ署長の蛭田に強請りや乱暴をさえれた者の縁者が、復讐にでも来たつもりなのだろう。

 それも、大鎧などという時代錯誤な物を後生大事に所持していたような変わり者だ。

この新政府の時代になってまで武士の誇りだの何だのと役にも立たない事を言い並べ、世の道理がどうのと小難しい事を考えている輩に違いない。

 だが、そんな事はどうでも良い。

この不審者は警官である自分に逆らい、警察署に押し入ろうとする現行犯の”犯罪者”だ。

つまり、この場で小吉郎が鎧武者を叩きのめして取り押さえれば、それは小吉郎の警察官としての手柄となる。

 これは、この冴えない人生を逆転させる機会だ。

この手柄をもって自分の転属願いを上層部に聞いて貰い、こんな貧乏くじみたいな場所からは、おさらばだ。

 大丈夫だ。出来る。

この衣川署に配属されてから、いつの間にか、かつて程に真剣な棒術の鍛錬をしなくなっていた自分だが、こんな勘違いした不審者くらい簡単に叩きのめせる筈だ。

 小吉郎は鎧武者の面に触れんばかりに六尺棒を突き付け、獲物を狙う獣の様に身構える。


「お前を拘束する。大人しく言う事を聞けよ・・・」

「やむを得ない・・・か」


 あくまで静かに呟きながら、鎧武者は自らの腰に下げた刀に手を伸ばす。

今更ながら相手が帯刀している事に気づいた小吉郎の背を、悪寒が走った。思わず威嚇の叫び声を上げようする。

しかし、実際に小吉郎の口から発せられたのは掠れた恐怖の声であった。


「貴様っ! 抵抗するなと・・・ぅぁぁ!」


 一瞬であった。

鎧武者が刀の鯉口を切った事に小吉郎が気付いた時には、白刃の閃光が夜気を切り裂き、それは再び元の鞘に納められていた。

 同時に小吉郎の手からは、握っていた六尺棒の感触が消える。

正確には、握っている感触そのものは消えていない。まだ確かに両手では棒を握っている筈なのに、その実感が消えたと言った方が正しい。

不審に思い小吉郎が一瞬だけ向けた視線の先では、それぞれ一本ずつの短い木の棒が左右の手に握られていた。

 酒精に霞んだ小吉郎の頭が、一瞬だけ遅れて事実を理解する。

小吉郎の手に握られていた六尺棒は、この鎧武者の居合によって一瞬で切断されたのだ。

木材の中でも特に堅い樫の、それも並の木刀ほどの太さがある棒がである。居合の達人でも、そう簡単に出来る事では無い。

それを、あの鎧武者は大鎧などという甲冑を着込んだまま、あの一瞬の早業でやってみせたのだ。もはや、人間の所業とは思えない。

 小吉郎の額に、恐怖による冷汗が浮かび上がった。

目には涙が浮かび、手も膝も震え、心臓を鷲掴みにされた様な痛みと息苦しさに呼吸が荒くなる。

 逃げなければ、自分は死ぬ。そう思った。


「!?」


 再び鎧武者に視線を戻そうとした小吉郎の目は、再び驚きに見開かれる。

ほんの一瞬だけしか視線を外していない筈なのに、大鎧の鎧武者の姿は、既に小吉郎の目の前からは消えていたのだ。

慌てて左右を見回すが、生温い夜気に湿った石畳の路上には全く何の跡形も無い。

もし跳んだり走ったとしても、ここまで何の物音もさせずに一瞬で立ち去る事など不可能だ。

しかも、それを己の体重ほども有る甲冑を着込んでともなれば、なおさらである。それこそ人間業では無い。


 狼狽し混乱したまま忙しなく周囲を見回していた小吉郎だが、暫くしてから小さく息を吐き肩の力を抜く。

どうやら、あの鎧武者は本当に何処かに立ち去った様だった。しかし、あれは何だったのだろうか。

 文字通りの狐に撮まれた様な思いで、小吉郎は残る酒気を振り切る様に頭を振りつつ呟く。


「ちくしょう。酔っぱらって、変な夢を見ち」


 その言葉が最後まで口から出る事は無かった。

それを言い切るだけの時間が、小吉郎には与えられなかったのだ。

 不意に背後から伸びた腕が小吉郎の首に巻き付き、人間のものとは思えない怪力で締め上げて来る。


「・・!!」


 一瞬で頸動脈と気管を締め上げられた為だろう。ほんの微かな呻き声や喘ぎ声をすら漏らす事も出来ない。

脳が酸欠になった為だろう。振り解こうと暴れる事すら出来ず、ただ本能で無駄に口ばかりを開け閉めしてしまう。

 そんな体と切り離された意識が薄れゆく中、一つだけ小吉郎には気付いた事が有った。

己の首に巻き付いている腕が何者の物なのか。それだけは感触で解る。

堅い革と、紐と、布。それらを組み上げて作られた籠手。その籠手で腕を覆い、同様のモノで包んだ胴体を小吉郎の背中に密着させている者。


 白狐の面を被った、大鎧の鎧武者だ。


それを証明する様に、小吉郎の耳元には背後から囁く声が聞こえた。

例の、面の下からの、くぐもった年齢の解らない男の声だ。


「御免」


その低く押し殺した声だけが、消え行く小吉郎の意識の中で鮮明に響いていた。





 翌朝。

小吉郎が意識を取り戻したのは、警察病院の寝台の上であった。

気絶した状態で衣川署の正門前に倒れていた所を、早朝に出勤してきた巡査の一人に発見されたらしい。

その日の昼に精密検査を受け、午後には退院。そのままの足で衣川署に行き、昨夜の鎧武者の事を同僚に聞いて回った。

しかし誰に尋ねても、昨夜の鎧武者について小吉郎に対し明確な答えを返してくれる者はいなかった。そもそも明確な答えを返せる者など、誰も居なかったからだ。

 小吉郎が聞き出せた、かろうじて現在でも解っている事実は以下の三つだけだった。

一つめは、鎧武者が何処の何者なのかは今も解らないという事。

二つめは、昨夜に衣川署に居た二十五人の人間の内、警察官十四名と民間人十名の合計二十四名が、鎧武者によって小吉郎と同じように気絶させられていたという事。

そして最後の三つめは、ただ一人だけ気絶させられなかったと思われる署長の蛭田圭三だけが、自らの血だまりの中に伏せる斬殺死体となって発見されたという事だ。

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