第三章
その日、帝都には一つの脅威が侵入した。
それは、この帝国からは二百年前に追放されて姿を消した亜人と呼ばれる者達の住む地から来たモノであり、かの地の者達からは”魔王”もしくは”裁断者”と呼ばれていた。
早春の柔らかな日差しと微かな温もりと湿り気を感じられる空気の中、そのモノが乗った小さな客船は帝都南部の船着き場に付く。
そして、さも当たり前の様に港の役場で手続きを済ませると、そのモノは帝都の往来へと足を踏み入れた。
「さて、ここで見つかれば良いのだが・・・」
そのモノは誰にも聞き取れない小さな呟きを漏らすと、自らにとっては異郷である人間達の都を我が物顔で歩き始める。
それと時を同じくして。
帝都西区の長屋では稲郷継守という名の少年が、それとは全く別の来訪者と対面していた。
継守は驚きを通り越し呆けた口調で、目の前の少女の名前を呼ぶ。
「・・・千穂?」
「はい、継守様」
その明るい笑顔も、輝く瞳も、継守は十年以上も見つ続けて来た。決して見間違える筈が無い。
この帝都に来てからの一年間も、一時も忘れた事は無い。そんな継守が誰よりも大切に想う少女の姿が、そこには有った。
「本当に・・・千穂なのか?」
「・・・はい」
目の前の光景が信じられず、思わず継守は震える声で再び訪ねてしまう。
それに対し、少し照れたような笑みを浮かべながら、幼馴染の少女も再び答える。
懐かしい声に思わず涙ぐみそうになり、継守は慌てて表情を引き締める。
「千穂、久しぶりだな」
「はい、本当にお久しぶりなのデス」
「ところで、どうして君が帝都に?」
「勿論、継守様に会いに来たのデス」
「そうか・・・その・・・有難う。会えて嬉しい」
「はい。千穂も継守様に会えて、とってもハッピーなのデス」
「でも、よく俺がこの長屋に居ると解ったな」
「それは、継守様と千穂のディスティニーだからなのデス」
「でぃ・・・す・・・? ところで、その、さっきからのデスってのは何だ?」
「これは千穂の南蛮語のティチャーの口癖なのデス。千穂からティーチャーへのリスペクトなのデス」
千穂の言葉には南蛮語が混じり、未だに南蛮語が不得意な継守には、いまいち意味が解らない。
だが、二つだけ解る事が有る。一つ目は、この目の前の少女が夢でも幻でも無く、本物の幼馴染の少女だという事。
そしてもう一つ解る事は、彼女は何やら荷物を届けてくれたらしい事だ。こうやって二人で話している間も、運送屋と思わしき青年が黙々と継守の部屋に大量の荷物を運び込んでいる。
一体、彼女が何を届けてくれたのだろう。そう思った継守が荷物を見てみると、気になる物が混じっている。
「・・・この布団は?」
「それは私の布団デス」
「どうして君の布団を俺の部屋に運び込むんだ?」
「それはトゥディから、この部屋で私が寝るからデス」
「初耳だぞ!?」
「はい。千穂も初めて言いましたデス」
「いつ、そんな事が決まったんだ」
「いつも何も、千穂は継守様のワイフなのですから当然なのデス」
「わ・・い? ところで、それならば俺は何処で寝れば良いんだ?」
「勿論、この部屋で千穂と一緒デス」
「いや・・・それは、まずいだろう」
「ホワィ? どうしてデス?」
不思議そうに小首を傾げる千穂を前に、継守は言葉に詰まった。
だが、ここで答えない訳にはいかない。これは年長者の責務でもあるし、この幼く無防備な彼女の身の安全を護る為にも必要な事なのだ。
だから少しばかり気恥ずかしさを感じたとしても、躊躇う訳にはいかない。
「俺と君が同じ部屋で寝たりして、事故とかが有ったら困るだろ?」
「事故デスか? もしかして継守様はとんでもなく寝相が悪くて、千穂が蹴られちゃったりするのデスか?」
「いや、そうじゃない。とにかくだ。若い男女が二人きりというのが、まずいんだ」
「ノープロブレム。それについては大丈夫デス。すぐに二人きりでは無くなるのデス」
「そうなのか?」
「はい」
少女は可愛らしく無垢な笑みを浮かべ、嬉しそうに答える。
「千穂と継守様が一緒に仲良く寝れば、来年の春には可愛いベイビーが誕生するのデス。
そうすれば、いつも三人で仲良く”川の字”で寝るハッピーライフなのデス」
「なっ・・・!!」
再び継守は言葉に詰まる。ベイビーという南蛮語は知らないが、流石に文脈で意味は分かる。
思わず赤面したまま固まる継守の前では、千穂は何事も無いかの様な笑みを浮かべながら、運送屋の青年から渡された伝票に拇印を押している。
荷物を運び終えた運送屋の青年が帰る時に、殺意のこもった視線で継守を睨みつけていた様に見えたのは気のせいだろうか。
暫くして、やっと継守の硬直が解けた頃。
二十畳ほどもある貧乏浪人が独り暮らしをするには少し広めの継守の部屋のあちこちに、千穂は既に荷ほどきをした自分の生活用品を並べ始めていた。
その、まるで最初から何を何処に置くかを決めていたかの様な手際の良い作業姿に、感心すべきか呆れるべきかと迷ってしまう。
だが、いつまでもそうしている訳にもいかず、鼻歌混じりに作業をしている千穂に後ろから声をかける。
「千穂」
「はい」
「君がここに来ている事を、総衛門殿は知っているのか?」
それまで軽快に動いていた千穂の手が止まる。
継守に背を向けたまま、千穂は静かに答えた。
「・・・いえ」
「そうだろうな。さっきの君の話だと、もう千石屋と稲郷家の縁談は破談になっている。だから、君がここにいる事は両家の意志からは離れた行動だ」
「・・・」
「こんな事を惣右衛門殿が許す筈が無い」
「・・・」
「俺も君に会えるのは嬉しい。これは俺の偽りの無い本心だ。だが、こんな事は君の・・・」
「でも・・・っ!!」
それまで黙って居た千穂が唐突に叫ぶ。
一年前まではいつも大人しく従順であった少女の、継守の言葉を遮ってまでの突然の叫びに、思わず息を呑んでしまう。
再び無言となった継守に向け、千穂は押し殺した声で決意を口にする。
「でも・・・もう、千穂は何もしないで待っているだけの女では無いのデス。泣いているだけの女では無いのデス。そう・・・決めたのデス」
千穂は振り向いて姿勢を正すと、再び静かに語り始めた。
「・・・先程の話の続きです。幼い頃から夢見ていた継守様との祝言が取り消され、見ず知らずの人との婚約が決められて・・・あの時の千穂は、本当に死のうかと思いました。でも、そう思い自分の頭に銃口を突き付けても、その勇気も出せず・・・何日も何日も、千穂は部屋に引きこもり泣き暮らしていました」
「・・・」
「そして、ちょうど一週間前の夜の事です。そんな私の所に、前から私が南蛮語を習っていた先生が訪ねて来ました。
その時に、私は先生に言ったのです。『このまま継守様の妻になれずに他の男の人と婚儀を上げるくらいなら、いっそ死んでしまいたい』と。そうしたら・・・」
淡々と語っていた千穂の口元に、微かな苦笑が浮かぶ。
「そう言ったら、先生に思い切り頬を叩かれてしまいました。『何を馬鹿な事を言っているのデス!』って、もう本当に真っ赤になって怒ってしまって」
話を黙って聞きながらも、継守は思った。
幼馴染の少女が良い先生に恵まれた事を、自分は喜ぶべきなのだろう。
「泣きながら先生は私に言いました。『たった一度くらいステディになった男との仲がバニッシュしたくらいで死のうなんて、ミーの二六年間の女のシングルライフを馬鹿にしているのデスか!?』って・・・」
継守は思う。
幼馴染の少女が良い先生に恵まれた事を喜ん・・・で良いのだろうか。
「そして力強く私の肩を掴むと、こう言い聞かせてくれました。『しかも、その後は何もしないでも次の男との縁談が用意されるなんてアンビリーバボーなのデス。それなのに・・・それなのに・・・そういう罰当たりでスイーツな事ばかり言っていると、あっと言う間にユーも”こっち側の女”になるデスよ?』と。」
「・・・」
「その後、先生は沢山の話をしてくれました。これまでの先生の人生における数々の失恋と、そこから立ち上がるまでの物語を・・・愚痴っぽい口調で朝になるまで」
その淡々と語られる千穂の言葉を、継守は黙って聞き続ける。
一年前に自分がした身勝手な行動によって、こんなにも幼馴染の少女を苦しめていたのだという事実に言葉を失っていた。
そして南蛮語の先生とやらの、雇い主の娘に対する好き勝手な振る舞いにも言葉を失っていた。
「その先生の話を聞いていて私は心に誓いまし・・・誓ったのデス! 千穂も先生みたいになるのデス!
ほんの五分前に自分が頬を叩いた相手にも『そう言えば千穂ちゃんの二番目のブラザーは、まだ独身デスよね? ディナーをご一緒するチャンスとか作れないデスか?』とか平気な顔で言えちゃう様な、ストロングなウーマンになるのデス!
例え目の前の恋がデストロイしても、その度にフェニックスの様に蘇り、ピラニアの様に喰らい付く、先生の様になるのデス!」
「・・・そうか」
継守には、千穂の南蛮語交じりの言葉の意味は、その全てが解る訳では無い。だが、一つだけ解った事が有る。
「君は、強くなったな」
「はい! 恋する乙女は無敵なのデス! 愛はパワー! 恋はバトル!
継守様の事を想う時、千穂は誰にも負けないアルティメットファイターになれるのデス!」
明るく笑う幼馴染の少女の姿が、今の継守には遠くで輝く物を見る様に眩しい。
「それに引き換え、俺は・・・さっき君が見た、あのザマだ」
「・・・それは仕方が無いのデス。継守様は一年前に独りで帝都に来てからロングロングタイム、ずっとずう~っと独りぼっちだったのデス」
「だが、俺が決めた事だ。そのくらいの覚悟は、最初からしていた」
「それでもロンリーなのデス。もし千穂が継守様と同じように、この帝都で独りぼっちになっていたら・・・きっと耐えられないのデス」
「だが・・・!」
自責の念から固く握る継守の拳を、そっと千穂の温かい手が包み込んだ。
「だから、千穂は継守様にラヴを届けに来たのデス」
「ら・・・ぶ?」
継守の口から戸惑う様な声が漏れたのは、耳慣れない言葉へなのか、不意に握られた手の柔らかさに異性を意識してしまったからなのか。
内心で動揺する継守の目を真っ直ぐに見つめながら、千穂は語り続ける。
「はい。ずっと独りで泣いていた千穂が先生に勇気を貰った様に、次は千穂が継守様を元気にするのデス。
今まで千穂が父様や母様や継守様や先生から貰って来た、いっぱいいっぱいのラヴを、今度は千穂が継守様にあげる番なのデス。
そうして、千穂と継守様の二人でハッピーになるデス。そうしたらハッピーになった二人のラヴをまた誰かにあげるのデス。
それを繰り返せば、世界中の皆でもっともっとハッピーになれるのデス」
相変わらず、継守には南蛮語交じりの彼女の言葉はいまいち意味が解らない。
だが、その柔らかい口調ながらも揺るがない言葉は、不思議と心に浸み込んでいく。
気が付けば、継守は頷いていた。
「そうか・・・そうだな」
継守には未だに千穂の言う「らぶ」という言葉の意味も、彼女の伝えようとしている事の本当の意味も解らない。
だが、これだけは解る。この元許嫁の少女は、失われかけた継守との仲を取り戻そうとしている。
失意に沈んで諦めかけていたのを再び己の意志で立ち上がり、こうして継守を探し出し、こんな所まで来てくれたのだ。
誰よりも愛おしい幼馴染の少女は、ここに居る。ただ手を握られているからだけかも知れないが、その存在を近くに感じられる。
だから、彼女の想いに応えたいと思った。その意志を遠くから眩しいものと眺めるのでなく、自らも立ち上がるべきだと自然に思えた。
「俺も・・・まだ、やれるかも知れない。いや、やれる事は必ずある筈だ」
そうだ。まだ、稲郷継守の戦いは終わってはいない。
剣士としての立身も、幼馴染の少女の想いに応える事も、今からでも方法は有る筈だ。
死なない限り、何度でも立ち上がり、何度でも再戦をする。そして勝利を掴むのが、猛州武士の生き様だった筈だ。
「千穂」
「はい」
継守は改めて、元許嫁で幼馴染の少女の名前を呼ぶ。
何かを決意した様に引き締められた少年の顔を見て、少女の顔には歓びと憧れの笑みが浮かぶ。
「俺は・・・やはり、剣士として身を立てたい」
「はい」
「稲郷家の名を武門の家として世に知らしめたい」
「はい」
「惣右衛門殿にも認められ、一年前の俺の身勝手な失踪を許してもらいたい」
「はい」「
「そして、再び君との許嫁の約束をし、いつか・・・必ず俺の手で君を迎えに行きたい」
「・・・はい」
嬉しそうに頷く千穂の目には、うっすらと涙が浮かぶ。
その姿を見つめる継守は、この大切な幼馴染の為にも今度こそ諦める訳にはいかないと思った。
そう。諦めなければ、何度でも再戦できる。
新明館を破門になり、他の政府公認の道場にも入塾は出来ない身とは言え、今からでも何かしらの方法は有る。
稲郷継守という剣士の名を人々に知らしめ、その道で己が立身するための策は必ず何かある筈なのだ。
早春の昼下がり。帝都西地区の旧市街地の古ぼけた長屋の、古ぼけた畳敷きの一部屋。
その何の変哲も無い部屋では、一度は夢破れ故郷も捨てた少年と少女が手を取り合っていた。
二人とも、ただ己の願いだけを胸に夢中で家を出た身であり、その将来に対して何の見通しも無ければ知恵も無い。
だが少年の胸には再び、一年前に独り故郷を出た時と同じ炎が燃え上がろうとしていた。
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