第二章

 早春の晴れた日の昼下がり、継守は長屋の自室で、故郷から持ち出して来た稲郷家の家宝である大刀の手入れをしていた。

熱心に手入れをしてはいるが、この刃渡りだけで五尺(約150cm)もある大刀を使う予定が有る訳では無い。

妖怪退治屋こと便利屋稼業が本日は休業であり、それなりに身の回りの事も終わったので、普段の習慣から手慰みでやっているだけの事だ。

 ちなみに便利屋稼業の休業日は不定期であり、正確に言えば営業日も決まってはいない。

店主の雲景が毎日の様に三味線を手に帝都中をフラフラと遊び歩き、その行く先々で出来た知人からの頼まれ事を引き受けているだけなので予定など立てようが無い。

そんな行き当たりばったりの場当たり稼業でよくも生業になるものだと、最初は継守自身も驚きを通り越して不思議にすら思ったものだ。

 だが、それが意外と何とかなっている。

それもこれも、この帝都という巨大都市が抱える膨大な数の人々の暮らしから生じる雑事の多さと、雲景という男の不思議な人徳によるものだろう。


 この雲景という名の今年で二十六になるという男は自らを僧だと名乗ってはいるが、実際には僧籍を持たないので正確に言えば僧では無い。

元は高名な寺院で僧侶をしていたが、ある事件をきっかけに破門となったらしい。だが今でも、その時の僧としての名を名乗っている。

そして、この便利屋店主にして長屋の大家である元坊主は、毎日の様に”説法音頭”と称し、仏の教えを歌にしたというものを街中で歌い歩いていた。

 彼が語るには、今の帝都の多くの寺院が語る説法は、宗教を利用して寺の権威と利益を守るものに成り下がっているらしい。

だから彼は、人々の救済を願った仏の真の教えを誰にでも解り易く興味を持てるようにと歌にして、人々に聞かせて回っているとの話である。


 正直なところ継守には、雲景の語る仏の教えも、その真実もよくは解らない。

ただ、その説法音頭の練習なのであろう長屋に響く三味線の音と、意外にも美声である雲景の歌声が嫌いでは無かった。

そして、その雲景の言葉に救われたという人々が、たまに長屋に礼を言いに訪れる事を知っている。

 例え帝都内の幾つかの寺社からは睨まれているとは言え、雲景の歌によって少しながらも救われた人々が居る。

継守にとっては、その真実だけで十分だった。



 手入れが終わり、大刀を鞘に戻して部屋の隅に立てかける。

そして、早春の柔らかな日差しと湿り気を含んだ空気の中、継守は畳の上に仰向けに寝転び目を瞑った。

大刀の手入れも終わり、特にやる事が無くなってしまったからだ。

いや。やる事が無いというよりは、何をしたら良いのかが解らないで行き詰まっていると言った方が正しい。

こうやって寝転がりながらも継守の心の何処かでは漠然とした焦燥感と不安感が燻る。

自分でも暇を持て余す様な立場で無い事は解っている。己が成すべき事を忘れた訳では無い。


剣士として立身し、稲郷家を再興する。


 その為に継守は一年前に他の全ての事を投げ捨てて故郷の猛州を発ち、帝都へと来たのだ。

稲郷家を武家として再興させる事は、祖父の遺志でもあり、継守自身の誇りの問題でもあった。

猛州剣術では負け知らずであった継守自身、武人として、男子として、野心と呼べるものもあった。

一年前の継守には、野望と呼べるものが確かに有った筈なのだ。


 だが、この一年間の間に有った様々な事が少年の心から、無謀な挑戦に胸躍らせる翼も、不本意な運命に噛み付く牙も抜き取ってしまっていた。

自分の剣の腕ならば帝都でもすぐに名を上げられるだろうという、世間知らずの少年の抱いた期待が裏切られたという事も有る。

それを覆すかに思えた新明館の剣術大会の優勝が無効になり、その事件からの流れで道場を破門になったという事も有る。

 だが、そのどちらも継守にとっては、それが心折られ押し潰される程の絶望だったという訳では無い。

ただ、それらを失った時に継守の中から何かが抜け落ち、再び燃え上がるものが消えてしまったのだ。

 道を見失った。その一言に尽きる。

このままで良いとは思えない。そう漠然とした焦りは有るものの、その先を踏み出そうという沸き立つ想いが無いのだ。

今も、己の剣の腕で身を立てられればという望みはある。その為に出来る事も何か必ず有る筈だ。

 だが、その事を考えるようとすると、決まって、ふと考えてしまう。

どうして自分は、あの一年前の日に故郷を出てしまったのだろうと。


 もし、あのまま継守が稲郷の家に残り千石屋に婿入りしていれば、今とは色々と状況が違っていた筈なのだ。

稲郷家も武家でこそ無くなるものの、名家としての名を残せた。

その末裔も、豪商の親族となり日々の暮らしに困る事だけは無くなった筈だ。

 だが、それらより継守にとって最も大きな心残りなのは、千穂の事だ。

継守より一つ年下の幼馴染である、栗毛の可愛らしい少女。

あのまま両家の親が決めた運命に従ってさえいれば、あの少女と共に生きる未来も有った。

最初こそ彼女の期待を裏切ってしまうとは言え、何か別の形で彼女を幸せにする事も出来たはずだ。

あの、継守の語った夢想を他の誰よりも一途に信じてくれ、純粋な好意で慕ってくれていた少女が隣に居てくれた筈なのだ。

 だが、それを投げ捨てたのは他ならぬ自分自身だ。

身の程知らずで無計画な己の行動が、自分と彼女と繋ぐ縁を断ち切ってしまった。

 鈍い痛みが継守の胸を締め付け、涙が浮かびそうになる。


「・・・くっ」


 継守は仰向けに寝転んだまま、歯を食いしばり片手で顔を覆う。


馬鹿な。こんな女々しい事で男子が、しかも武士が涙を見せるなど言語道断だ。

それに、自分が故郷を出たのは稲郷継守の武人としての決断である。

ただ結果として戦に負けた。それだけで決断そのものを悔いるのは、己の不明を受け入れない未練がましい行為であり、武人として恥ずべき事である。


 そう思う。そう思い込もうとする。

だが、そうして己に言い聞かせる程に、その思いとは裏腹に己の失ったものへの想いが鮮明になる。

 無様で恥ずべき事だと思いながらも継守は半ば無意識に、その名を口にしてしまう。


「千穂・・・」


その声は誰の耳にも届くこと無く、古びた長屋の空気に溶けて消える。消える筈であった。


「はい、継守様」


 慎ましやかで優し気な、柔らかく澄んだ声。

その声は継守の脳裏に、一人の少女の顔を浮かばせる。

他の誰かと聞き違える筈が無い。たった今、継守が他の誰よりも会いたいと思った大切な少女の声だ。

だが、継守は喜ばない。喜べない。この声の主は、この場になど絶対に居る筈が無いという事も解っているからだ。

 呆然とした意識の中で継守は思う。これは、きっと夢だ。

あの栗毛の可愛らしい少女に再び会いたいと思う余り、知らぬ間に眠ってしまった自分は夢を見ているのだ。

だが、それでも良い。例え、これが夢だとしても。偽りの幻だとしても、ほんの一時でも良いから彼女の存在を感じ、それに溺れてしまいたい。

 継守は手で顔を覆ったまま、ここに居る筈の無い少女に声をかける。


「千穂・・・」

「はい、継守様」

「・・・済まない」

「どうして継守様が千穂に謝るのです? 」

「俺は君に償っても償いきれない事をした。両家の縁をぶち壊し、君との約束も放り出し、・・・己の我儘で黙って家を出た」

「そんな事、千穂は少しも気にして・・・いないと言ったら嘘になりますね」


 その優しく穏やかだった少女の口調に、ほんの少しの苦笑が混じる。


「小さな子供の頃から憧れていた継守様との祝言まで後一月。そんな時に継守様が稲郷の屋敷から自ら姿を消したという話。

最初は信じられませんでした。これは絶対に何かの間違いだと。継守様も千穂との祝言を望んでいたのにと。そう思っていました。

だから、その話が本当だと知った時は・・・泣きました」


 その淡々とした口調は、決して継守を責めるものでは無い。

だが、だからこそ、その慎ましやかで儚げな一言一言は継守の胸を刺す。


「それから一月後の事です。本当なら二人の祝言の筈だった日に、私は父様から両家の縁談は正式に解消したと聞かされました。

それからの千穂は来る日も来る日も、誰とも会わず・・・ただ自分の部屋で独り、ずっとずっと泣き暮らしていました」

「・・・」

「そして、十日ほど前・・・千穂は父様に言われました。『お前の婿となる相手が決まった。今度の男は男爵家で伯爵家より家格は劣るが、小心者の分だけ身の程を弁えていている。だから、お前もいつまでも泣いているな。さっさと稲郷家の小僧の事など忘れて、自分の夫となる男に気に入られる事だけ考えろ』・・・と」


 考えてみれば、当然の話だ。

継守が稲郷の家を飛び出したのだから、両家の縁談は反故となる。そうなれば、当然の話として千石屋の総衛門は娘の次の縁談を組む筈だ。

もし、『千石屋の娘は、祝言の一月前になって婿になる男に逃げられた』などと人々に知られれば、あらぬ憶測も入り混じった噂が人々の間を飛び交うだろう。

それは婿に逃げられたとされる千穂ひいては千石屋の恥となり、その世間での評判を落とすこととなる。

それを避ける為にも、千石屋の総衛門ならば急いで千穂の次の縁談をまとめ、事実の上書きもって千石屋の恥を隠蔽するくらいはやる。

むしろ、一年近くも千穂の縁談が決まらなかったのは、総衛門らしからぬ手配の遅さとすら言えるだろう。

だから、こうやって継守が未練がましく彼女の幻想に溺れている今ごろは、もう幼馴染の少女は継守の知らない他の男のモノになっている筈なのだ。


「・・・ッ」


改めて突き付けられた事実は、継守の胸に息苦しい痛みを与える。

そうなるのは当然だろうと継守自身も本当は解っていながらも、今までは目を逸らしていた。 

後悔と悲哀の念に声を殺して耐える継守の耳に、淡々と静かに語る千穂の声だけが聞こえる。


「あの時は・・・いっそ、死のうと思いました。この銃で自分の頭を打ち抜いてしまおうと。

そう思い銃口を自分の頭に向けるのですが、結局は引き金を引く勇気は無く、最後には泣き崩れて終わるのです。

暗い部屋の中で一人、そんな事を・・・千穂は何日も何日も繰り返しました」


 継守は思う。これは本当に夢なのだろうか。これは本当に、自分が望んだものなのだろうか。

自分の我儘から縁の切れてしまった少女に、それでも何時までも自分への想いを抱き続けて欲しいと願うあまりに自分が生み出してしまった話なのだろうか。

 違う筈だ。違うと思いたい。自分は、あの可愛らしい幼馴染を幸せにしたかった筈だ。


 そんな継守の思考は、ぼやく様な青年の声によって中断された。


「あの~、そろそろ荷物を運び込んでも良いでしょうか?」

「あ~っ! すっかり忘れてたのデス。ごめんなさいデ~ス!」


 唐突に意識が戻り跳び起きる継守の目の前では、一人の少女が部屋の玄関に向けて元気良く叫んでいた。

継守は思わず目を見開いて、目の前の畳の上に座る少女を見る。

淡い桜色の振り袖と小豆色の袴。子供の頃から肌身離さず身に着けている護身用の南蛮短筒(拳銃)と、それを腰に下げる革ベルト。

大きなリボンでまとめられた艶やかな栗毛と、同じ色の快活そうに輝く瞳。小柄だが発育が良く健康的な肢体。

 見間違える筈がない。継守が誰よりも会いたいと夢にまで思い、そして今しがた夢の中で話していた少女だ。

まだ夢の中にでも居るような思いのまま、継守はその名前を口にする。


「・・・千穂?」


振り返った少女は、一年前と同じ歓びに輝く笑みで継守に答えた。


「はい、継守様」

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