第9曲【憧れ】

 会場内は既にほとんどの席が埋まっているにも関わらず、小声の会話が聞こえる程度で比較的落ち着いていた。

これが人気ロックバンドのライブ会場ともあれば雰囲気が全く違い、開始前からある程度の盛り上がりを見せており期待と熱気で会場が包まれている。

それには観客の年齢層も関係しているだろう。

若者中心で集まるライブと比べ、和楽を親しむ者は年齢層が高い傾向にある。

最もそのイメージを払拭するために雪月花が開催されることになったわけだが、今すぐに変わるかと言われればそういうものでもなく、辺りを見回しても男女問わず中高年と思われる人達が大半を占めていた。

(うわ・・・ひろっ!)

奏がそう思うのも当然でここ京都市神宮文化ホールでは関西一の客席数を誇っており、その数約三千八百である。

日本でもそこそこ知名度が高いといわれているホールの平均客数が二千前後と言われている現在、客席数と収容人数でいうのであれば間違いなく上位に入る。

(中からじゃあよくわからないけどきっと音響設備もすごいんだろうなぁ・・・)

初めてと言ってもいいほどの大ホールを前に奏は辺りを見渡しながら、やっとの思いで自分の席を見つける。

時間が経つにつれてちらほら空いていた客席もしだいに減っていき、数分前には紫色のシートが見えなくなるまでに人で埋め尽くされた。


(・・・そろそろ時間かな。)

奏がそう思った瞬間だった。

ゆっくりと照明が落ちていき、会場内が一気に静まり返る。

すると降りていた幕がゆっくりと上がっていき、動かなくなったと同時にスポットライトが舞台左側を照らし司会者と思われる女性が正座している姿でボウッと映し出される。

(さっきの人?・・・じゃないな。)

普段なら一言二言話した程度の人であるならすぐ忘れてしまう奏だが、今回に限っては会場入り口で会った女性の事が妙に頭の中に残っていた。

そんなことを思い出していた次の瞬間彼に衝撃が走る。

「本日はお忙しい中、【和楽祭典『雪月花』2009】へお越しいただき真にありがとうございます。開演に先立ちまして・・・」

(うわっ何だこの声っ!?綺麗なんてレベルじゃないよ!!)

司会の人が発した未だかつて聞いたことのない程の透き通った声に、話している内容などそっちのけで奏はただ驚いていた。

辺りでも奏と同じことを思った人達のざわつく声が耳に入る。

(本物の語り手ってここまで違うもの!?)

それまでライブのステージしか見たことのなかった奏にとって今自分の耳に入ってくるその声は全く別次元の異質なもののように感じていた。

だが音響設備がしっかりしていることを踏まえてもその声質はまるで童話に出てくる人魚姫のようなイメージで、後天的に身につけようと思っても多少の努力云々で身につくレベルのものではない。

もちろん先天的な素質もあるだろうが、ここまで聞いている者を魅了させる語り手はそうはいないだろう。

(そういえばプログラムに朗読ってあったような・・・もしかしてこの人がするのかな。)

もはやメインである演奏のことなど頭から離れてしまう程、この美声は彼にとって衝撃だったのだ。



 九回目の開催ということもあり、進行も手慣れており目立った遅れなども生じず、早くも後半に差し掛かろうとしていた。

(これが和楽器か。聞いているだけで疲れがとれていく気がする。・・・音を出すまでが難しいって聞いてたけどどの演奏者も全くそれを感じさせないあたりやっぱりすごいなぁ。)

和楽器の知識が全くない今の奏にとっては褒める言葉が見つからず、この程度の感想を持つことしかできない。

だがその通りであり、特に笛といった類はまともに音が出せるようになるまでが非常に大変な楽器である。

練習している時は普通に音が出せていてもいざ舞台に立つと緊張からくる『力み』やその他様々な要因が重なり、音が出なくなることだってある。

もちろん笛に限ったことではなく、繊細な指の動きを必要とする箏や三味線の弦楽器などにも同じことがいえる。

その上でこれほどの大舞台を前に、どの組も緊張など観客に一切見せず堂々と演奏しているのだから、これまで相当な修羅場をくぐってきたということがわかる。


「・・・続きましてお送りする曲は、篠笛演奏者である星野明稀(ほしのあき)自らで作曲した『空の星』です。それではお聴き下さい。」

一瞬会場内が真っ暗になり、スポットライトが照らし出した演奏者は奏にとってまだ記憶の新しい人物であった。

(あの人って・・・! そっか、だからあの時『楽しんでいってくださいね』って・・・演奏者だったんだ。)

そう、会場の入り口で出会った着物の女性である。

(確か今篠笛って言ったよね・・・それにしても何だろう、この感じ)

まだ箏の前奏であるにも関わらず、今までの演奏者とは明らかに何かが違う独特の雰囲気に奏は舞台に立つ星野から目を離せずにいた。

そして彼女の旋律が加わったと同時に今までたくさんの楽器に触れてきた奏でも経験したことのない感覚にとらわれた。

(頭の中に・・・この曲の風景が入ってくる・・・)

星野の並外れた表現力は彼だけではなく、この会場にいる全ての人達を包み込み曲の舞台である夜空の下へと誘う。

だが奏が彼女から目を離せかったのはその技術や表現力だけが理由ではなかった。

(この人…こんなにもたくさんの人達がいる前なのにすごく楽しそう。)

確かに今日見てきた演奏者達は皆、技術面においては相当なもので雪月花にかける気持ちの強さも伝わってくる。

だがこれほど楽しそうに演奏する者はいなかったように見えた。

少なくとも奏の中では。

故にまっすぐ前を向いてまるで一人一人の心に届けといわんばかりの演奏をする星野は聴き手の心をガッチリ掴んで離さない。

優しさと安らぎを兼ね揃えたその音色に会場内にはハンカチを手に取り目元を拭う人も見受けられる。

決して乱れることのないその流れるような旋律とその自由な姿に、奏は生まれて初めて憧れというものの存在を知った。


(この人みたいな演奏がしたい・・・この人を超えるような奏者になりたい!!)


彼の音楽の世界が変わった瞬間だった。

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