第22話

「佑にいちゃん……」


 美月ちゃんは涙ぐんでいる。ダメだ、泣かせたら。

俺は無理して笑った。美月ちゃんを安心させたくて。


「ごめん、ちょっと昔のこと思い出しちゃって。もう大丈夫だから

心配しないで」


 それを聞いた美月ちゃんは、ほっとしたように微笑んだ。

その笑顔がかわいいな、と思う。だが、その感情を面に出すわけに

はいかない。取り繕うように俺は彼女に質問する。


「美月ちゃんは、一体ここに何をしにきたの? ここは俺の妹の美雨が

眠る場所だけど……」

「あのね、みづき、美雨ちゃんに2つ言いたいことあって来たの。

 一つめはね、佑にいちゃんは今でも美雨ちゃんのことで『自分が悪い』って

 思ってる。だからもう許してあげて……って伝えにきたの。

 もう一つは、美雨ちゃんの大切なお兄ちゃんをみづきが独り占め

 して本当にごめんね、少しだけでもいいから佑にいちゃんの大切な子に

 なりたかった。でも、もういなくなるから許してね、って」

「美月ちゃん……」


 彼女は知っているのだ。父親の暴力から逃れるべく、まもなく母と共に

この地を去ることを。


「みづきね、佑にいちゃんとはなれたくない。ずっと側にいたい。だって

大好きだから。でも、みづきのママは私のことずっと守ってくれていたの。

生まれたときからずっと。今度はみづきがママの側にいて、ママのこと

守らなきゃ。だから……佑にいちゃんとおわかれしなきゃ、はなれなきゃ

ダメ、なの……」 


 そう言うと、美月ちゃんはその目から涙をポロポロとこぼした。涙を止め

ようと手で涙を拭うが止まらないようだ。やがて、もう我慢出来ないという

ように俺に飛びついてきた。慌てて俺は彼女を体で受け止める。


「佑にいちゃん、みづき、佑にいちゃんとおわかれしたくない!」


 俺と別れたくない。

その言葉を聞いた途端、なんともいえない喜びが湧き上がり、俺は再び

美月ちゃんを強く抱きしめたくなった。

このまま俺だけのものにできれば。それは実に甘美な誘惑であった。

 小さな美月ちゃんを生じた欲望のまま抱き、己のものにする。

心も体もすべて。

 これまで感じたことのない火のような欲求に、心と体が支配されそうに

なり、俺はたまらず目を瞑った。


 それは許されないことだ。

 相手は小さな幼女ではないか?

 思いはどうあれ、世間はお前を異端者としてしか見ないぞ。


 心のどこかで理性がささやいている。欲望と理性がせめぎ合っていた。

それは果てのない争いのように感じられ、救いを求めるように目を開けた。

目に飛び込んだのは妹・美雨の墓。美雨の無邪気な笑顔が頭に浮かび、俺の心にともし火を照らしたのだ。

 美月ちゃんのことを本当に大切に思っているなら、俺はできることは。

美月ちゃんの肩をそっと掴むと、俺の体から引き離し、顔を覗き込むように

優しく語りかけた。


「美月ちゃん。 美月ちゃんはね、俺に『お父さん』を求めていたんだよ。

お父さんにしてほしかったことを俺に望んだんだ。だからそれは『恋』じゃ

ない。言ってることわかる?」


 頬を涙で濡らしたまま、俺を見つめる美月ちゃんの目が大きく見開かれた。


「ちがう……。そうだったけど、ちがうの!最初はやさしいお兄ちゃんに

軽々と抱っこしてもらったり、遊んでもらったりしてうれしかった。

でも、だんだんそれだけじゃがまんできなくなったの。佑にいちゃんに

とって『いちばん大切な人』になりたくなったの。それを『恋』っていう

んじゃないの!?」


 そうなのかもしれない。だが、それを認めるわけにはいかないのだ。

美月ちゃんのためにも。


「もう少し大きくなったらわかるよ。あの頃感じていたものは、憧れが

もたらした幻想だったんだと」

「ちがう、ちがうの、佑にいちゃん!」


 俺はまだくすぶっている欲求を心の奥底に封じ込め、彼女を落ち着かせる

ために、美月ちゃんをそっと抱きしめた。


「美月ちゃん、気持ちは正直嬉しいよ。だけど、キミはお母さんを

守らなきゃいけないんだろ?だったら今は離れよう。お互いのために」


 『おかあさん』という言葉を聞いた途端、彼女の涙が止まった。思い出したのだろう。今は誰のために生きなくてはならないのか。


「わかるね? 美月ちゃん」


 美月ちゃんは涙を袖でこすりとると、コクンとうなづいた。


「でもね、これだけはわかって。佑にいちゃん。みづきは佑にいちゃんのこと本当に大好きなんだよ?」


 上目遣いに俺の顔色を伺っている。自分の恋心をどうにか信じてほしい

のだろう。


「わかったよ、美月ちゃん」


 俺は微笑んだ。俺だって本当は伝えたいのだ。俺の思いを。

しかし、それは美月ちゃんの心を余計に苦しめるだけた。俺はまだしがない

学生で、全てから彼女を守ることはできないのだから。

美月ちゃんが安全な場所に逃れられるよう、しっかりと見送る。

それが俺が彼女にしてやれる唯一のことだと思う。

やっと気づいた思いだったが、封印するしかないのだ。

俺のためではない、彼女のために。


「帰ろう、美月ちゃん。お母さんがとても心配してたよ。ダメだよ、黙って

どこかに行ってしまったら」

「お母さん忙しそうだったから、じゃましたくなくて」


 その優しさが彼女を眩しく輝かせる。俺の身勝手な思いで、天使のような

この少女を汚すわけにはいかない。俺は己の心にそう言い聞かせた。


「帰る前にちょっとだけお参りさせて」


 そう言うと、俺は妹の墓の前で手を合わせた。

 美雨、お前が美月ちゃんがここにいることを教えてくれんたんだね。

ありがとう。お前が突然いなくなってしまったことで、俺はどうしても

自分を許せなかった。だけど、やっと前を向いて歩いていけそうな気が

するよ。勿論、お前のことは絶対に忘れない。お前はいつまでも大切な

『俺の妹』だ。


 心の中で妹に別れを告げると、美月ちゃんと手を繋ぎ歩き出した。

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